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記紀(日本書紀と古事記)の復元年代に関する裏付けデータ

記紀の年代、在位などの復元の結果は、カテゴリ「最新の復元年代と裏付け」に収めた「記紀(日本書紀と古事記)の最新の復元年代」に記載した。最新の復元年代は、次の「表3 記紀の復元年代の比較」を見ていただきたい。
追記(2009/11/11)
新たに、先代旧事本紀の復元年代の解明ができたので、「表3・・・」に加えた。

表3 記紀の復元年代の比較

復元年代に関する裏付けは多岐にわたる。大半の記事が復元の根拠に関する関係記事であるが、分りにくいと思われる。裏付けとなる主要な資料・データを纏めたものを下記に示した。

日本書記の復元年代の解読結果とその裏付け

日本書記の年代などの復元に関する主要な裏付け資料としては、各天皇の情報を合わせた「合成年次表」がある。「合成年次表」は、日本書記に記載された各天皇の年代、在位、年齢に関する情報を、総合的な年次表としてまとめ、それらのデータ間の整合性を図り、年代、在位、年齢を復元したものである。
以下の解読資料(合成年次表)で、復元年代などが確認できるはずである。
「表12-1 神武~崇神の復元年代の詳細」
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」

表12-1 神武~崇神の復元年代の詳細

表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細

次の解読資料は、各天皇の復元年代の正しさを側面的に証明するものである。
神功皇后に関する年代解読:「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」

表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)

表109 神功皇后の年次表の詳細

日本武尊(古事記:倭建命)と仲哀天皇に関する年代解読:「表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表」

表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表

さらに各天皇の詳細を見る場合は、「○○天皇の年次表を解読する」の記事(個別年次表)を見ていただきたい。「個別年次表」から、記載された個々の記事の復元年代が、ある程度の精度(±1年程度)で得られる。

古事記の復元年代の解読結果とその裏付け

古事記に記載された御年などの数字はすべて暗号であり、復元年代を示している。古事記の数字の数は少なく、単独では解読できないが、日本書紀に照らすと復元年代が容易に得られる。同時に、そこで得られた年代は日本書記の解読を助け、解読の正しさを明らかにする。古事記の年代などの復元に関する主要な裏付け資料は、次のとおりである。
表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)
表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

2010年4 月 9日 (金)

日本三大桜の樹齢

「日本三大桜」と呼ばれる桜がある。

山高の神代桜(山梨県北杜市武川町山高・エドヒガンザクラ・推定樹齢1,800年・根回り約12m・目通り幹周り10.6m)

根尾の淡墨桜(岐阜県本巣市根尾板所・ヒガンザクラ・樹齢1,500余年・根回りは11.3m・目通り幹回り9.91m)

三春の滝桜(福島県田村郡三春町・エドヒガン系紅枝垂れ桜・樹齢1,000年以上・幹周り8.1m(地上高1.2m))

「日本三大桜」は、1922年(大正11年)10月に国の天然記念物に指定されている。

いずれの桜も、上記に示した通り、樹齢は1,000年以上~1,800年の古木であり、幹回りからも巨大な桜であることがわかる。古木で、巨大であるだけに風雪の被害や幹の老化が著しいが、多くの方々の保護により維持されているようだ。

日本最古といわれる山高の神代桜がある寺が実相寺である。 自宅のあった茅野市からはそれほど遠くなかったので、時期には何度か訪れた。高遠の桜とともに愛着のある桜である。

住職のHPの記事に、「長い歳月の風雪等の被害で中央幹、南北の枝は折れ、東西の枝も半分以上朽ち、昔のおもかげはありませんが、日本一を誇る貫禄を示しております。」とあるが、数本の若い枝が育ち、樹形を取り戻すにはあと50年~100年は必要なのかもしれない。 

最近、テレビで各地の桜の紹介をやっていて、神代桜についても何度か放映されている。

記紀の年代復元をやっていると、テレビで樹齢2,000年と説明されることに多少違和感を覚える。

神代桜HPには、「2,000年もの間、ただ一度さえ休むことなく花を咲かせてきた山高神代桜は日本三大桜のひとつ。日本武尊が東夷征定の折りにこの地に留まり、記念にこの桜を植えたといわれている。」とある。しかし、「境内立て札では1,800年以上と記載する。」

2,000年前としたら、西暦元年である。邪馬台国で有名な卑弥呼ですら西暦200年頃から247年(または248年)の人物である。それ以前に、第12代の景行天皇やその子の日本武尊が存在しないのは明らかなことである。

日本書記の古代の年代は大幅に年代を引き延ばしている。

日本書紀に記載された日本武尊の東夷征定の時期は、景行天皇40年次=西暦110年となっているが、年代は引き伸ばされているから、正しい年代ではない。

世の中には、今でも日本書記の年代を正しいと考える人もいるようだから、仮に日本書紀の年代が正しいとするなら、今(西暦2,010年)から1,900年前に植樹されたことになる。従って、1,800年以上前と表現しようと、2,000年と云おうとどうでもよいことかも知れない。

筆者が面白いと思うのは、このように日本書紀の引き伸ばされた古代の年代をそのままに用いるということである。(古いことを強調するために日本書紀の年代を使えば、当然古くなる。古く見せようとする場合によく用いる手法である。)

日本書紀は神武天皇の即位年を820年ほど前に引き上げ、西暦前660年とした。景行天皇の年代も引き上げられているから日本書記の数字をそのまま利用するのは無理がある。

幸いなことに、古事記は崇神天皇崩御を西暦318年、成務天皇崩御を西暦355年と記しているので、日本武尊の東征の時期は、ほぼ西暦340年~350年と推測される。伝承が正しいとすれば、樹齢は1,660年となる。1,800年以上前とか2,000年前というのは誇張しすぎる表現であり、そんなことをしなくても、神代桜を見ればその幹回りなどから古さについて十分納得するはずである。

淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市(旧・本巣郡根尾村)の淡墨公園にある樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木である。蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。

愛知県一宮市の真清田神社ゆかりの土川家で発見された古文書『真清探當證』の記述によると、次のように記載されているそうである。

「男大迹王は、皇位継承をめぐり、雄略天皇から迫害を受けたという。男大迹王は、僅か生後50日で養育係を勤めていた草平・兼平夫婦に預けられ、災いを避けるために真清田神社のある尾張一宮から更に美濃の山奥へ隠れ住んだ。この間には、筆舌に尽くしがたい生活を強いられたが、長じて29歳の時、都から使者が迎に遣わされ、男大迹王は都に上がり、第26代継体天皇として即位された。男大迹王がこの地を去る時、檜隈高田皇子(第28代宣化天皇)の産殿跡に1本の桜の苗木を植えた。このとき次の詩を詠まれた。

    身(み)の代(しろ)と遺(のこ)す桜は薄住(うすずみ)よ
         千代にその名を栄盛(さか)へ止(とど)むる  


日本書紀によると、継体天皇の即位は西暦507年とされる。この年に淡墨桜を植えたとすると、今(2,010年)から1,503年前に当たる。また、宣化天皇が雄略天皇11年(西暦467年)に生まれたとみなされることからから、淡墨桜を植えた年代を同年とすると、今から1,543年前に当たる。

しかし、継体天皇と宣化天皇の年代、特に生年には問題があり、上記の伝承の即位年齢とも合致しない。即位507年についても確定したものではないが、大きな狂いがあるとは思えない。「樹齢は1,500余年と推定され、」とは、上記の状況を考慮したものであるといえる。

2010年4 月 6日 (火)

建御名方神の素性

建御名方神の素性を明らかにする。すでに多くの方がいろいろな見解を示されている。筆者なりきに整理し、纏めたものであり、特に新しい発見はない。

先ず、建御名方神と高志国、沼河比売との関係や国譲りについて記紀等の記載を見る。
・『古事記』によれば、八千鉾神(大国主神)は高志国の沼河比売(奴奈川姫)と結ばれる。また、建御名方神は我が子という。ただし、沼河比売との間の子とは明示されていない。国譲りについては、建御雷神が大国主神の子である事代主神と建御名方神を服従させ、大国主神から国譲りをされる。
・『先代旧事紀』によれば、建御名方神は大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子とされる。国譲りについては『古事記』と同じである。
・『日本書記』には、建御名方神は記載されていない。『日本書紀』の一書では、経津主神、建御雷神を遣わして、葦原中国を平定させる。国譲りを催促し、大己貴神(大国主神)、大物主神、事代主神が帰順する。
・『出雲風土記』では、大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子は、神御穂須須美命であり、三保に鎮座されている。建御名方神は記載されていない。
・『諏訪大明神画詞』には建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。『諏訪大明神画詞』については、議論の対象外としたい。
以上から、『先代旧事紀』が、建御名方神を母である沼河比売を通して高志国との結びつきを示すが、それ以外には高志国、沼河比売との関係は明示されていない。それも『出雲風土記』によって否定される。
しかし、『先代旧事紀』と『古事記』の記載を信じれば、国譲りの出来事があった時期に建御名方神が諏訪に入ってきたことになる。本当に、信じてよいのだろうか?

もう一度、諏訪大社に祀られている神についてみる。諏訪大社の主祭神は建御名方命とするが、別称として建御名方富命・南方刀美命・御名方富命がある。
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。

記紀には大きなからくりがある。その一つが建御名方命の扱いである。解明するため、記紀における神武東征を見よう。
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは登美の那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は神武に天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は那賀須泥毘古の妹登美夜毘売を娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については記載されていない。
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を登美白庭邑(奈良県生駒市の北部)に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。

長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうかする見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのはそれなりの理由があるのだ。
また、記紀は出雲の国譲りを効果的に表現するため、神武東征の戦いで健闘した建御名方命を国譲りという別の出来事に登場させ、敗れた武将として記載し、神武東征においては長髄彦として扱ったのである


一層明確にするには系図が重要になるが、信頼できる宝賀寿男氏の見解を参考にする。詳細は、「長髄彦の後裔とその奉斎神社  宝賀寿男」を参照のこと(パソコンで検索可能)。
上記資料から次の一文を紹介する。[ ]内は筆者の記載。
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
このことは、大国主神と大物主神は別神であることを示している。極めて重要な示唆であり、前に述べたとおり、出雲の国譲りと神武東征の登場人物を明確に区分けしなければならない


建御名方命が実在した時期は、上記に示したいずれの見方の場合も、神武即位西暦162年頃のことで、今から1850年程前である。
諏訪に入ったのが建御名方命自身か、その一族かは分らないが、入諏した時期は上記の年代からそれほど離れない時期であろう。
注)筆者は、神武即位年を西暦162年とするが、宝賀寿男氏は西暦175年とし、13年異なる。しかし、多くの歴史家の中では、筆者の解読した年代に最も近い。

2010年3 月 7日 (日)

建御名方神の入諏時期

ここ数年『古事記』や『日本書紀』の記載から古代の年代を明らかにできたらと考え、記紀に記載された数字を基に年代解読を進めてきた。また、筆者はかって諏訪・茅野に住んでいたことがあり、諏訪大社や建御名方神に関する歴史にも興味をもっていたが、具体的には何もしてこなかった。最近、建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期に関する記事を見て、なんとなく腑に落ちないところがあり、調べてみようと思うようになった。
とりあえず、パソコン上で得られれた情報をもとに、自分なりに整理してみようと思う。

 

茅野市にある神長官守矢史料館には、「建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期を今から千五百~千六百年前」とする紹介の記事が張り出されている。おおよそ西暦400~500年となる。
諏訪大社由緒略誌では、「御鎮座の年代は千五、六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられる」としている。
御鎮座の年代は、西暦元年から西暦500年の間となる。
千五、六百年前は両方の共通点であるが、諏訪大社由緒略誌は、大きな幅を持っている。それぞれ何が根拠になっているのだろうか。

建御名方神は、『先代旧事本紀』において、大国主神と高志沼河姫との間に生まれた子とされる。
建御名方神は、『古事記』において、葦原中国平定に関する大国主神の国譲りに繋がる記事として次のように記載されている。
建御名方神は、大国主神の子で、国譲りに反対し、建御雷神と戦い、敗れた建御名方神は、科野国の州羽(諏訪)に追い詰められて「この地以外の他所には行かない」と約束し、降伏した。
建御雷神は『古事記』の表記であるが、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。雷神は剣の神でもある。神武東征において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下の倉に自身の分身である佐士布都神という剣を落としたとされる。

以上の『古事記』および『日本書紀』の記載を信じれば、建御名方神が諏訪に入った時期は、神武即位(筆者の年代解読結果は西暦162年)以前となり、現時点(西暦2010年)から見れば、少なくとも1850年前となる。
しかしながら、建御名方神に関する『先代旧事本紀』や『古事記』の記載(建御雷神との戦い)は、作者の創作とする見方がある。そうだとすれば、上記の1850年前とする年代も根拠のないものとなる。ただし、創作として片付けるのは容易なことであり、筆者としては同調できない。(この件についてはさらに詳細を述べるつもりである。)

 

さて、諏訪地方には『諏方大明神画詞』以外にも種々の資料があり、冒頭に記した千五六百年という年代(西暦400~500年)の根拠に何があるのかを確認してみよう。

『諏方大明神画詞』などの伝承によれば、古来諏訪地方を統べる神として洩矢神がいた。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。

上記の説明では、年代については皆目わからない。もう少し関係する記事を挙げてみる。
1)守矢家の七十八代を継承された守矢早苗さんの「守矢神長家のお話し」には、『この塚(神長官裏古墳)について、祖母の生前、「用明天皇の御世の我が祖先武麿君の墳墓です。」と説明をしていた』と書かれている。
この塚とは、神長官裏古墳と呼ばれ、茅野市教育委員会により、築造年代は7世紀頃と推定されている。また、武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。そうすると、物部守屋没年(587年)と神長官裏古墳の年代を7世紀前半と見做せば、ある程度年代が合ってくる。
また、守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのことであり、仮にそれが正しいとすると、洩矢神と戦った建御名方神の入諏は西暦600年代初期となり、今から千四百年前になって、千五、六百年前の表現はさらに百年も後にずらさなければならない。

2)『諏訪大社由緒略誌』には、その御神徳として「当大社は古来より朝廷の御崇敬がきわめて厚く、持統天皇五年(西暦691年)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願なされたのをはじめ、歴代の朝廷の御崇敬を拝戴してきました。
 また、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られた。」としている。
上記の持統天皇五年の勅使に関しては、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。
三韓出兵は『古事記』によれば西暦362年とされる(筆者は392年の出来事と見做す)。上記の伝承が正しいならば、建御名方神は西暦300年代末には既に諏訪大社に鎮座されていたことになる。従って、「神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり」という記載と『諏訪大社由緒略誌』における「御鎮座の年代は千五六百年前」は年代として矛盾し、最低でも100年前に修正し、千六、七百年以前としなければならない。
さらに、白雉3年(652年)朝廷が綿を諏訪明神に奉る。(出所:未確認)
大化元年(645年)本田善光が諏訪明神の神勅により寂光寺より仏を諏訪郡真志野村善光寺に移し、後に、長野に移されたとされる。(出所:未確認)

3)諏訪氏は、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族である。
 その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴(おとえい)は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
注1)金弓は、舎人として欽明天皇(539~571年)の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とする。金弓の子・は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられ、諏訪評に進出した。用明天皇(585~587年)の時、麻背は子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせた。

上記3)の場合、乙頴が上社の大祝となった時点で諏訪大神を祭ったことになるが、祭神は建御名方神であったと推測される。ということは、建御名方神の入諏はそれ以前の出来事であったはずである。

上記1)と3)を違いは、上社の大祝家の出自が異なることである。1)では、建御名方命の後裔と称し、2)では神八井耳命の後裔となっている。
それぞれの大祝の出現した年代は用明天皇(585~587年)の頃で一致するが、詳細を見ればかなり異なる点がある。
1)の場合の建御名方命の入諏は用明天皇の年代よりも後でなければ説明がつかない。
3)の場合には洩矢神と建御名方神の戦いの有無と年代が不明であるが、年代としては用明天皇(585~587年)の年代以前となり、場合によっては数百年も遡る可能性を有している。

 

 

参考1)『日本の苗字7000傑』の姓氏類別大観では、饒速日命を祖とする物部守屋の後裔武麿を宮道氏(物部氏より分かれる)とする。ただし、諸説あるが、武麿が諏訪に逃れた記載はない。
参考2)崇神天皇(302~318年)の時代に建五百武尊、科野国造となる。(下社大祝の祖)
用明天皇(585~587年)の時代に、科野国造麻背君(五百足君)の子・乙穎(一名神子くまこ、熊古)、湖山麓に社壇を構え、諏訪大神と百八十神を千代田の斎串を立てて奉斎。(諏訪大神大祝)(『阿蘇家系図』)

2009年11 月29日 (日)

先代旧事本紀のクロスワードパズル(応神天皇復元年代編)

先代旧事本紀に記載されている年代(月日を含む)は、日本書紀と同様に復元年代を秘めた暗号である。
既に、「先代旧事本紀の暗号について」において解読した結果の一部を紹介しているが、復元年代そのものに興味がなければ、解読に用いた計算などを見ても決して面白いものではないであろう。(面白がっているのは、解読している当人だけかもしれない。)

ところで、先代旧事本紀の暗号持、基本的には日本書記と同じ作り方をしているが、暗号である年月日の数が少ないこと、月のみで日付がないケースが多いことなどから、数字を有効に活用している。
言葉で説明すると厄介であるから、応神天皇の復元年代の例を見ていただきたい。
「表120 先代旧事本紀のクロスワードパズル(応神復元年代編)」

表120 先代旧事本紀のクロスワードパズル(応神復元年代編)

「クロスワードパズル」としたが、数字のみのパズルと思っていただけばよい。「問題」の欄に記載したのは、先代旧事本紀の応神天皇に記載された年月日である。「答」の欄に記載したのは解読結果である。「答」の欄に記載した数字は「問題」の欄の位置に合わせている。
「答」は、何通りかあり、記載された同じ数字が複数回用いられている。この点が日本書紀の暗号と異なる。前に述べたとおり、僅かな数字で多くのことを示したかったのであろう。
敢えて、「クロスワードパズル」という表現を持ち出したが、個々の記載年代を暗号として創作するだけではなく、縦と横を(年と月日を)組み合わせた暗号になっている点をみれば、まさに「クロスワード(数字)パズル」と呼んでもよいのではなかろうか。
近年パズルが流行っているそうである。千数百年前に、「先代旧事本紀」の編者も大いにパズル(暗号)の創作を楽しんだと想像する。

応神天皇の場合は、5個の年月日で、復元時の誕生年、即位年、即位年齢、崩御年齢、在位を示す。崩御年代は、上記の情報から計算で容易に得られる。
(ただし、すべての天皇の暗号がこのようになっているわけではなく、応神天皇の暗号がこの点で際立っているといえる。)

「先代旧事本紀」の各天皇の記事は、日本書紀に比べれば簡潔に書かれている。また、記載年代の暗号は、日本書紀よりは一層高い密度を以て復元時の年代などを示している。
筆者の場合は、既に「日本書記」および「古事記」によって復元年代を解読しているため、「先代旧事本紀の暗号は、易しい暗号である」と言いたいところであるが、仮に「日本書記」および「古事記」を解読する前に「先代旧事本紀」に取り組んだとすれば、情報が限られており、多分難しすぎて解読はできなかったと思われる。

筆者は、「拳拳服膺」というサイトを運営しておられるHISASHI氏による現代語訳を利用させていただいている。感謝申し上げる。

2009年11 月22日 (日)

『ほつまつたゑ』の天鈴(アスズ)暦の解読

前回投稿の記事「『ほつまつたゑ』の暗号解読に思うこと」で次のように述べた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、『ほつまつたゑ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして人皇初代のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のオシロワケ(景行天皇)57年までを記述している。
筆者の計算では、景行56年次までの記載であり、天鈴暦の計算で1年狂いがある。すべての年代をチェックしなければならないようである。

物事には、明確なことと不明確なこと、あるいはその中間のレベルとさまざまである。暗号解読のようなことを行っていると、1年の食い違いは大きい。既に、松本善之助氏始め多くの方が「天鈴(アスズ)暦」について解読されていると思っていたが、そうでもないらしい。
天鈴(アスズ)とは、60年ごとに回っていく干支の甲子の年を基準に計算される。従って天鈴(アスズ)61年は天鈴(アスズ)1年に戻る。

天鈴(アスズ)暦とは、「地の巻」において名付けられ、「人の巻」の年代に適用される。
天鈴(アスズ)暦の紀元は、西暦前717年甲子の年であるが、神武誕生年、西暦711年庚午の年の直前の甲子の年を紀元とした。以降は干支一周60年にこだわらずに、年数を加算していくのである。

『ほつまつたゑ』の最後の40-50綾には、「アスズ八百四十三年」と記載されている。
843年とは、60の倍数840を引くと3年が残る。甲子1年とすると、3年は丙寅となる。
日本書記の景行元年は、太歳辛未、西暦71年である。アスズ843年丙寅の年は西暦126年であり、景行56年次に当たる。
その他のアスズ暦の解読も、上記と同様の方法によって読み取れるので、説明を省略する。
なお、アスズ暦から西暦を求める場合は、次の式による。
西暦Y=アスズ暦X-718(ただし、西暦前の場合で、西暦元年以降は、Y=X-717)

アスズ暦326年は干支の記載がないが、上記式により、西暦Y=アスズ暦X326-718=-392年(BC392年)となり、日本書記に記載された孝安天皇即位元年を示す。

述べたかったことは、上記にも示した通り、『ほつまつたゑ』が記載する「人の巻」の年代は、日本書紀の記載年代と全く同じなのである。各天皇の太歳干支が付与された元年の年代を天鈴(アスズ)暦で示しているにすぎない。(注、神武崩御後の綏靖の年代のみ不明確な点があるが、3年間の空位年を考慮すれば、一致する。)
誤解されては困るから言っておくが、日本書記に一致しているのは年代に関してのことであって、文面の内容については無視している。

最も重要なことは、天鈴(アスズ)暦の各年代の月日の記載である。第一に、日本書記には、天鈴(アスズ)暦の数字は表れない。第二には、各天皇の即位元年を示しているが、月と日付は日本書紀と一致しない場合が多い。これこそ、『ほつまつたゑ』の編者が創作した、正しい年代(復元年代)を示す暗号である。
暗号自体は、語呂合わせのようなもので規則性はほとんどない。しかし、日本書記や古事記などで事例の少ない崇神天皇の復元年代(崇神元年西暦302年、崩御318年)を示していることが特徴といえる。「ニニギ降臨の暗号179万2470年」が神武天皇の復元年代(即位西暦162年)を示していることを考えると、これで復元年代の穴が埋められることになる。
「表117 ほつまつたゑの暗号解読結果」を見ていただきたい。

表117 ほつまつたゑの暗号解読結果


現状の暗号の解読結果には大いに不満がある。解読方法が悪すぎるのかもしれない。『ほつまつたゑ』の編者は、天鈴(アスズ)暦などの数字の扱い方、あるいは治天下の暗号の作成方法において、特異な才能を発揮している。こんな語呂合わせのような暗号では物足りなさを感じる。
後に残ったのは、「天の巻」および「地の巻」に記載された「治天下の暗号」の解読となる。

2009年11 月15日 (日)

『ほつまつたゑ』の暗号解読に思うこと

『ほつまつたゑ』(ホツマツタエ)を知ったのは、日本書記に記載された「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」を調べていて、「ほつま研究所」のホームページにたどり着いたときである。
自由国民社の編集者であった松本善之助氏が、埋もれていた『ほつまつたゑ』を昭和41年8月に東京・神田の古本屋でみつけ出したのが研究の始まりである、という。

『ほつまつたゑ』については、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、次のように記されている。
『ほつまつたゑ』は、五七調の長歌体で記された、全40アヤ(章)で構成された古文書である。その成立時期は不詳であり、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが可能である。歴史学、日本語学等の学界においては、江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。
また、『ほつまつたゑ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして人皇初代のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のオシロワケ(景行天皇)57年までを記述している。構成は、ほぼ記紀と同様である。
なお、真書であるか、偽書であるか、についても、上記に客観的に記載されているので、ここでは省略する。ついでに言えば、筆者の計算では、景行56年次までの記載である。天鈴暦の紀元は西暦前717年甲子であり、上記の説明は、天鈴暦の計算で1年狂いがある。すべての年代をチェックしなければならないようである。

筆者が重視したのは、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」と同じ数字が記載されていることであった。松本善之助氏も同様であったと思われ、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」が記載された古書・古伝を調べ『ほつまつたゑ』の他に、「倭姫命世紀記」と「群書類従巻第六十」に記載されていることを紹介されている。(「ほつま研究所」のホームページを見ていただきたい。)
いずれの書物にも、「ニニギ降臨の暗号」以外の暗号がいくつか記載されている。「倭姫命世紀記」と「群書類従巻第六十」に関しては、既に解読結果を記事にし、投稿しているのでお読みいただきたい
「倭姫命世記のニニギ治天下の暗号の解読に関して」を参照。

筆者の場合は、古代・超古代に関する「数字」に興味を持っている。
『ほつまつたゑ』には極めて多くの数字が記載されているから、無関心ではいられない。
しかし、『ほつまつたゑ』は、「ヲシテ」と呼ばれる文字(ホツマ文字ともいわれる)を用いて、五七調の長歌体で記されていて、信頼にたる現代語全訳はまだ確立していない、とされる。筆者は、日本書紀の解読においても、文面をほとんど無視して解読してきたから、数字の位置付けさえ分れば構わないと思っている。
とりあえず、記載された中から、独立した、意味のありそうな「数字」を取り出して解読してみた。解読方法は、日本書紀で用いた方法と基本的には同じである。
なお、上記表に記載した「鈴木暦」および「上古五朝の現世換算暦」は、履歴が分らないことや数字を変換していることから、解読の対象としていない。
解読結果は、「表101 超古代の数字」および「表117 ほつまつたゑの暗号解読結果」に示した。(解読ができたものを、追加していく)
上記の解読結果は、「日本書紀の復元年代」に相当するものである。しかし、解読結果の信頼性はほとんどない。たとえ解読方法と結果が正しいとしても、その根拠が希薄なためである。どのような証拠を見つければ、証明できるのかが最大の課題である。

表101 超古代の数字

表117 ほつまつたゑの暗号解読結果

『ほつまつたゑ』について気付いたことを述べてみる。といっても本格的に取り組めていない段階であるから、大した話ではない。
『ほつまつたゑ』の数字の意味には2通りの意味があると考える。
一つ目は、日本書記が記載しなかった「神武以前の年代」に関するものである。
二つ目は、「神武以降の日本書紀の復元年代」に関するものである。
幸いなことに、「ほつま研究所」のホームページには、「上古代の年表」を残されていて、上記の「神武以前の年代」の概要が明らかにされている

「伊弉諾尊・伊弉冉尊の時代]に、次のような記載がある。
ニ神の婚礼(伊弉諾尊と伊弉冉尊)の年代を、「西暦前952年、ヲヤト(己巳)(六穂)」とする。この解釈から、「西暦前957年、(甲子)(一穂)」が得られる。
西暦前952年または西暦前957年は、日本書紀の記載年代、神武即位年、前660年の延長上にある。ここまでの年代の解読は正しいが、この年代がどれほどの意味を持っているのだろうか。このままの年代では、未来小説を過去に替えた、単なる空想にすぎない。上記の一つ目に挙げた、日本書記の復元年代の先にある年代(復元された神武以前の年代)が隠されているのかどうかであるが、余り期待し過ぎない方がよさそうである。
二つ目は、記載年代はどうであれ、神武以降の日本書紀の正しい年代(復元年代)が隠されているかどうかである。「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」が記載された「日本書紀」、「古事記」、「先代旧事本紀」、「倭姫命世記」は、正しい年代(復元年代)が暗号で記載されている。『ほつまつたゑ』も同様に、正しい年代(復元年代)を示すのだろうか。

次の課題は、暗号の含まれた数字探しである。前に述べたとおり、歴史(年代の流れ)を記載しているため、数字は細かく変化する。それらの全てが暗号とは考えにくい。先ず、独立した数字をすべて拾い上げる必要がある。それ以外には、一見独立したように見える数字でも、前後の数字を考慮する必要があるのかもしれない。こうなると、数字の意味を理解しないと、作業ができない。
年代を示す数字には、2種類がある。
一つは、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」や「治天下の暗号」と同じ系統の暗号である。
二つ目は、「天鈴(アスズ)暦」と呼ばれる数字である。天鈴(アスズ)暦」は西暦前717年甲子を紀元とする。「天鈴(アスズ)」は、日本書記に記載された安寧以降の各天皇の元年に相当する年代を示している。月日も記載されているので、「年月日」の暗号と見てよい。各天皇の在位中の年代は、各天皇の元年を基準にしている。どこまでが暗号か分りにくい。

日本書記の復元年代は既に得られている。結果的には、『ほつまつたゑ』の暗号解読は、得られている復元年代と一致するかを確認することになる。
それだけなら、解読してもあまり意味がない。しかし、日本書紀と同じ復元年代が解読されれば、『ほつまつたゑ』の作者も、「日本書紀」、「古事記」、「先代旧事本紀」、「倭姫命世記」の各作者と同様に、日本の古代の正しい年代(日本書記の復元年代)を知っていたことになる。

2009年11 月13日 (金)

三大史書(日本書記、古事記、先代旧事本紀)の復元年代は一致

ここで取り上げる古史・古伝は、「古事記」、「先代旧事本紀」、「倭姫命世記」、「秀真伝(ほつまつたゑ)」および「群書類従巻第六十」である。
いずれも、日本書紀に記載された「ニニギ降臨の暗号一百七十九万二千四百七十余歳」(古事記は、ホホデミ580歳)を掲げる書物である。
また、これらは「偽書」といわれている。

偽書かどうかを争う学者の記事は見かけるが、記述の中身、特に暗号を解読した復元年代に関する記事を見たことがない(関係する書物もあるようだが、筆者はパソコン上からだけしか見ていないので、こういう表現になってしまう)。まして、これらに記載された暗号を解読すると、日本書記の復元年代にほぼ一致するのであるが、そのことに関しての見解も見たことがない。(正しい復元年代が示せないのだから、当然のことである。)

正史とされる日本書記の復元年代を明らかにすることは、重要である。」
上記の古史・古伝を一律に扱う必要はないが、少なくとも、日本の古代史を書き残した三大史書ともいうべき「日本書記」、「古事記」、「先代旧事本紀」の復元年代が一致することは、従来の復元年代解明のための考え方及び対応方法に基本的な間違いがあることを示している。

先ず偽書としての扱い方に問題がある。
一般に偽書だとする方には、内容についても信じられないものとして扱うきらいがある。(学者の中には、たとえ偽書だとしても、参考になることが含まれるという意見の方もおられる。)
古事記の場合は、たとえ偽書だとしても、古事記が示す年代と全く異なる「偽書・弘仁私紀序」を以て、古事記を評価、判断することは明らかに間違いである。
「日本書記」、「古事記」、「先代旧事本紀」は、それぞれが持っている創作の動機、目的は異なる。しかし、共通点がある。いずれも、年代に暗号を用いて正しい復元年代を書き残した点である。さらに言えば、上記書物は、一致する復元年代を示すことである。

重要なことは、偽書かどうかの問題ではなく、内容、特に記載年代にとらわれることなく、復元年代に関する内容まで踏み込んだ結果として、信じられるか信じられないかを判断したのか、という点にある
言い換えれば、記紀の復元年代に取り組む方々が、「日本書記」、「古事記」、「先代旧事本紀」に記載された年代の暗号を解読し、復元年代を検討してこなかったことに問題がある。
「古事記は、年代が明確ではないから、歴史書として扱えない。」というような見解を目にすることがあるが、浅はかである。

「古事記」、「先代旧事本紀」が偽書であるかどうかについて、解明すること自体は重要なことである。偽書でないとすれば、作成された時期は、日本書紀の年代と重複することになる。偽書だとすれば、作成された時期や作者や作成の動機が分かれば、判断の参考になる。
「古事記」が偽書だとする見解では、日本書記が献上されてから100年以内、「先代旧事本紀」の場合は、完成が820年代だとすると、やはり、日本書記に遅れること100年程度の書物となる。このような条件のもとで三大史書の関係を推測すると、次のように考えられる。

日本書紀の編者は、正史を作成するために、先ず、正しい年代(復元年代)を作成し、それに基づき、延長した年代を作成した

日本書記の編者は、始めて正史を作成するにあたって、延長した年代を用いた歴史を作り上げた。と、同時に、正しい年代を暗号として書き込んだ。正しい年代を書き残したのは、一編者の思い付きではなく、編纂の方針であった。延長年代と正しい年代を、二重構造として持ち、正しい年代を残すには暗号を用いる以外の方法はない。正しい月日が分るはずもない中で、几帳面に月日まで記載したのは、正しい年代(復元年代)を伝えるための手段(暗号)として利用するためである。手間暇をかけてでも正しい年代を書き残したのは、編纂の方針であり、編纂の責任者および編者の良心である。

日本書紀の編者が持っていた正しい年代は、日本書紀の献上後、どのように扱われたのであろうか。献上と同時に完全に消されてしまったのであろうか。そんなことはあるまい。表には出ないものの、関係者の間には正しい年代に関する情報が残っていたと考えられる。

古事記および先代旧事本紀の編者らは、日本書記の編者が持っていた正しい年代を知っていた古事記および先代旧事本紀の編者らは、自らの動機、目的に従って編纂したが、日本書記が年代を大幅に延長したことにはある種の理解を持っていた。また、日本書紀の記載内容が誤っていたとしても、時代が要請する内容であるなら、同調することができた。例えば、倭の女王卑弥呼、神功皇后による新羅征討や中国への朝貢に関しては日本書紀に追従し、明らかにしようとはしなかった
その結果、古事記および先代旧事本紀も、日本書記と同様に、記載年代と正しい年代の二重構造となり、正しい年代を暗号で記載した

もしかすると、当時の歴史書の編者らは、年代を延長したり、変えたりした場合には、何らかの方法で正しい年代を記載しなければならないという考え方を持っていたのかもしれない。他国の歴史書と根本的に異なる点である。
その後、日本書紀の記載内容が独り歩きをし始め、さらには、暗号は低俗なものとして扱われるようになり、正しい年代の解読方法を失ってしまった

では、なぜ正しい年代が解明できなかったのか?
筆者の考えは、すでに過去の記事に述べてきているので、ここでは省略する。

2009年11 月 8日 (日)

先代旧事本紀の年月日の暗号について

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)は、「 日本大百科全書」(小学館)および フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」の記述によると、次のような書物である。
平安初期に編纂されたと推定される歴史書で、偽書とされる。本書の序には、620年(推古天皇28)聖徳太子、蘇我馬子らの撰録するところと記す(「日本書紀」推古28年(620年)に相当する記述がある)が、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」などからの引用があるので、本書の成立は平安初期である。実際には大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前と推定されている。全10巻、神代から推古(すいこ)天皇に至る歴史を記し、また「国造本紀(こくぞうほんぎ)」という独自の記録を収録。著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張氏および物部氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、本書の著者は物部氏の一族と見られている。
なお、編纂者の有力な候補として、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお 1812-92)は明法博士の興原敏久(おきはらのみにく)を挙げている。この人物は物部系の人物(元の名は物部興久)であり、彼の活躍の時期は「先代旧事本紀」の成立期と重なっている。

筆者が、先代旧事本紀を取り上げるのは次の理由による。
先代旧事本紀、巻第六 皇孫本紀の磐余彦尊(いわれひこのみこと)の記事には、次のような記載がある。
天祖(彦火瓊瓊杵尊、ひこほににぎのみこと)が天下られてより、百七十九万二千四百七十年余りである。」
日本書記の記載、「ニニギ降臨の暗号百七十九万二千四百七十余歳」と同じである。
先代旧事本紀の編者は、伊達や粋狂で、「ニニギ降臨の暗号」を記載したのではないその意味が分っていたからこそ記載したのである

当然のこと、記事の「年月日」も暗号であり、復元年代などを示す。「ニニギ降臨の暗号」は既に解読済みであるから、「年月日」に焦点をあてればよい。
冒頭に述べたとおり、「古事記」「日本書紀」などからの引用であり、一層簡潔な表現になっている。「年月日」も同様に、その数も少ないし、年月のみで日付のないものが多い。
先代旧事本紀の年月日の解読は、年月日の数字の数が少ない分だけ、日本書記の解読よりは容易である。
また、年代は神武暦ではなく、ニニギ暦で書かれている点も特徴になっている。ニニギ暦に気付かないと暗号は解読できないことを示している

解読を始めたばかりなので、ある程度答えが得られた段階で纏めて紹介することにする。
言いぱなしでは申し訳ないので、いくつかの面白そうな例を述べておく。

追記(2009/11/11)
11月11日の各新聞に、「奈良纏向遺跡、卑弥呼の祭祀空間か、3世紀最大級建物跡」(毎日新聞)、「邪馬台国論争ゴール近し、纏向遺跡」(産経新聞)などの卑弥呼と邪馬台国の記事が各新聞に出ている。
例2孝安天皇および例3孝霊天皇の解読結果を追加した。これで、古事記、日本書紀、先代旧事本紀のすべてが、「248年」の卑弥呼の年代を示していることになった。

例1懿徳天皇の年代
元年2月4日、9月、2年正月、2月、3月、22年2月12日、34年9月、10月
「22年2月12日」を除く合計値77[1+2+4+9+2+1+2+3+34+9+10=77]
「22年2月12日」の解読:「22年2月12日」の記事[孝昭を皇太子とする。年18歳]を参考にすると、「二十二年二月十二日」は、18[2+12+2+2=18]
合計値95[77+18=95]⇒195年(懿徳崩御)

例2孝安天皇の年代
二年十月、三年八月、二十六年
2+38+2+6=48→248年(孝安崩御=卑弥呼死)
七十六年、百二年正月、9月
「百二年」は、200年
「七十六年」は、十三(7+6)で、プラス3年
5(正)×9プラス3=45+3=48→248年(孝安崩御=卑弥呼死)

例3孝霊天皇の年代
元年正月、2年2月、3年正月、36年正月
解読:年のみの合計値42[1(元)+2+3+36=42]
   月のみの合計値17[5(正)+2+5(正)+5(正)=17]→17は「十七」であり、プラス7
   年月加算49[42プラス7=49]⇒249年(孝霊・壹与即位)
76年2月
解読:逆読み267年(孝霊崩御)
注)孝安崩御248年、孝霊即位249年、崩御267年は、日本書記および古事記の結果と同じ

例4仲哀天皇の年代
8年正月、9年2月5日、22日
解読:9×(2+5)+(8+5)+(2+12)=63プラス3+14=80→380年(仲哀崩御)
注)上記の例は、面白い例として挙げたが、他にも次のような容易な解読方法がある。
元年、8年、9年
解読:年数を加算18[1+8+9=18]、十八の逆数は八十で、380

例5反正天皇の例
6年正月6日
解読:上記年月日は正を挟んでシンメトリックを作っている。在位7年[6+1=7]を示す。
注)日本書紀では、在位5年と記載するが、復元在位は7年である。
允恭天皇5年11月11日に反正天皇を陵に葬る記事がある。
5年11月11日
解読:5+1(十一)+1(十一)=7→在位7年
3月15日、10月4日
解読:35プラス4=39→439年
注)在位5年とすると437年と読めるが、在位7年とすれば439年で正しい。

いろいろなタイプの暗号を紹介したが、上記のとおり、先代旧事本紀の解読結果(復元年代)は、日本書紀および古事記の解読結果と一致している。
この記事だけを見て、「暗号の存在と解解読方法を信じろ」といってみても、すぐには信じられないかもしれない。押し付けるつもりはないが、他の記事を読んでもらえば自然と分ってくるはずである。

2009年11 月 7日 (土)

ニニギ降臨の暗号の別解釈・・・「179」と「247」の解読

記紀の復元年代、在位、年齢が固まってきた。今まで疑問に思っていたことでも、数字が固定されないと、先に進めない問題があった。
例えば、「ニニギ降臨の暗号179万2470年」の数字である。
この暗号は、既に解読済みである。投稿記事「ニニギ降臨の暗号『179万2470余歳』の解読」を参照していただきたい。  
今まで、「179」と「247」に関してはなにも読めていない。「一つの暗号で複数の解を得ようとすることに無理がある」と考えられるから、無駄骨なのかもしれないと思っていた。

次に、「247」について、多くの方が解読しているが、その一つに「247は、魏志倭人伝に記載された卑弥呼の死んだ年、正始8年、西暦247年を指す。」という主張がある。
しかし、暗号が西暦247年を指していたとしても、記紀の年代解読は何ら進展しない。暗号の解と見做すには物足りない。

「247」の解読結果
推古天皇崩御628年から、247年遡った381年が応神天皇即位年である。]
暗号は、不明な点を正しく解読できるようにするキーの役割を持っている。編者は、日本書記に記載された推古天皇の崩御年を正しいと考えていた。それに対し、応神即位年は「数字のからくり」が隠されていて、既知ではない。編者は、暗号がなければ、応神の即位年を解決するのは困難であると考えたのであろう。

この解読に対し、理解できないことがある。
古事記は最後に推古天皇を記載する。しかし、日本書紀記載の最後は持統天皇である。なぜ、日本書記が、推古天皇を基準年に選んだのか分らない。

「179」の解読結果
解読というより推理である。「247」の解読において述べたように、確かな年代があって、キーである「247」あるいは「179」を用いて不明な年代を読みとる。
確かな年代とは、上記で用いた「247」に関係する年代、即ち数字の位置を入れ替えた「427」である。
仁徳天皇崩御427年から、179年遡った248年が孝安崩御年である。]
解読する側が最も知りたい天皇の年代の一つが孝安崩御年と孝霊天皇即位年である。編者は、重々そのことに気付いての暗号ということになる。
古事記の場合には、孝安崩御248年と孝霊即位249年は、暗号に気付きさえすれば明確に読める。
それに対し、日本書紀の場合は、孝安崩御248年と孝霊即位249年を年次表から読むには、何となくすっきりした読み方でない。なにしろ、卑弥呼と壹与が関係するから、より確かな根拠がほしいところである。どうやら、248年は、卑弥呼が死亡した年であり、249年は、壹与(孝霊天皇妃倭国香媛、古事記では、意富夜麻登玖邇阿礼比売命)が女王として立った年である

2009年11 月 5日 (木)

記紀の編者にとって、「九九」は神聖な数字

記紀の編者が重視した数字に、「九九」がある。
まず、「九九」の意味について述べておく。
「九九」の一つ目の意味は、陰陽道に基づくもので、九が陽の数字の中の最も大きな数字であり、九九と二つ重なることから「重陽」あるいは「重九」と呼ばれ、長寿や繁栄を願いあるいは祝う数字である。
「九九」の二つ目の意味は、掛け算の「九九(くく)」であり、その答の「八十一」が、編者が示したかった狙いの数字(隠された数字)なのである。
注1)「九九」と書いて「八十一」と読ませる、あるいはその逆に、「八十一」を「九九」と読ませるような数字の使い方は、万葉集にもあるようで、当時の知識階級なら理解できたようだ。

若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国(わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに)巻十一 2542番

注2)「九九」と書いて「八十一」と読むが「九十九」とは読まない。占いでは、「八十一」以上の数字は「一」と看做すそうであるから、「九十九」という数字は意味を持たない。記紀に記載された場合、単に「99」を示すのか、「九九」なのかを見極める必要がある。

編者が信じた数霊(かずたま)
「日本神話から生まれた話」(平成生き活き教育研究会)の記事に、「九九」について述べられているので紹介する。
「いざなぎといざなみが産んだ神々の合計は、八十一柱となり国造りが完成する。八十一 とは、[九九=八十一]と結びついている。
 掛け算も、[九九=八十一]で完成する。この神様と数の不思議な関係は数霊(かずたま)という学問にもなって日本に伝わっている
。 」

言霊(ことだま)」という言葉と同様に、「数霊(かずたま)」という表現もあるようだ。
また、「数霊占術」ともいわれる。これらが、数字の選択に影響を与えていたことは間違いなさそうである。

日本書記においては、次の記載があるが、「数霊(かずたま)」と見れば同じである。
一書に曰く、大国主神、またの名は大物主神、または国作大己貴命(おおあなむちのみこと)と号す。・・・・・その子すべて一百八十一神有す。」

神のつく3天皇は、「九九(くく)」の神様か?
各天皇の年代解読だけをみると、「九九」による復元年代は奇妙に見えるかもしれない。しかし、神代の数字も「九九」と繋がっていたとすれば、「九九」用いた復元年代が正しいことを証明することになる。
「表108  天皇の即位年、崩御年等に用いられた「九九」の数字」を見ていただきたい。

表108  天皇の即位年、崩御年等に用いられた「九九」の数字

記紀の編者は、主要天皇の年代に「九九」を、徹底的に活用したことが分る。筆者が考えるところはすべて上記表に示されている。

以下に、記紀を解読する中で出会った「九九」について述べてみる。
蛇足であるが、筆者にとっては重要な解読結果である。
先ず、神の付く3人の天皇について、「九九」の観点から見てみよう。説明を楽にさせてもらうため応神天皇から始める。

応神天皇に記載された「九月九日」の意味
①応神天皇は、西暦363年に誕生し、381年に19歳で天皇位に就き、403年41歳で崩御された。
古事記において、応神天皇に記載された「九月九日」の意味の一つ目は、前述の陰陽道に基づくもので、九九は「重陽」あるいは「重九」と呼ばれ、長寿や繁栄を願いあるいは祝う数字である。「重九」が「十九」歳で即位したことを示唆しているとすれば、応神の在位は23年になる。「九月九日」は、即位の年齢を示していたことになる。
また、二つ目の意味は、「九九」は81を示唆する。応神の即位年の下二桁を81とすれば、(3)81年となる。(3)は、300年代のことで、間違えるはずがなく、示す必要がない。
三つ目は、日本書紀と古事記の編者の対応である。両者は同じことを異なる表現で示す。
②に垂仁天皇(実質は崇神天皇)に関して述べるが、「九十九年」とした表現で、「九九」が存在する。古事記では、卯神天皇において「九月九日」と記載して「九九」を示す。

垂仁天皇の在位(年次)「九十九年」の意味
②日本書紀においては垂仁天皇の在位(年次)が「九十九年」である。しかし、この数字は垂仁天皇の数字ではない。日本書紀では垂仁の崩御の年齢を140歳としているが、実際に年次表を追うと、139年にしかならない。1年減じたからである。
垂仁天皇の本来の数字は100年次、140歳であり、九十九年は崇神天皇の数字であって、編者は間違えた振りをしているだけである。
別の見方もできる。「百減・百増」の手法である。神功は[百歳]で崩御したが、「百減」により、残りは零または空となる。神功は年表上では存在しない。垂仁の年次を「百年」とすると、神功の「百減」のこと(垂仁の存在に傷が付くこと)が気になり、これを避ける意味もあった。それで「九十九年」にした、と考えられる。この場合の「九九」は、垂仁自体から生じた副産物のようなものだが、暗号の世界においては目的の「九九」が得られればよかったのである。
従って、垂仁の在位99年は「九九」であって、上記①の「九九」と同じで、81を示唆する。そして81を頭に持ってくれば、81(3)年であり、その逆数の318年が崇神の崩御の年となる。
もしかすると、「九九」は「九が2個」で、「二×九=18」なのであろうか。とすれば、順読みで(3)18年となる。しかし、この解釈は、神の付く天皇であるから、不似合いである。

神武天皇の誕生137年と即位162年に隠された「九九」
③神武天皇即位の復元年代は、162年であり、81の二倍である。ここに表れた81とは「九九」である。展開すると次のようになる。
162=81×2=「九九」×2
このことについては、「記紀編者と陰陽道」に述べているので参照していただきたい。
また、神武天皇の誕生年は、137年である。
「九九」との関係は、次のようになる。
137=7×8+9×9=56+81=「七八」+「九九」
神武においては、表面的には「九九」は現れない。上記の例のように、「九九」の部分は、記載された数字に包含されていると考えればよいのだろう。

「九九」と「九九(くく)の九の段」は格付けか?
④上記の3人の天皇以外にも「九九(くく)」が見られる。神をつけたのが、格付けであるとすると、3人の天皇には「九九=81」を用いたが、その他の天皇には「九九(くく)の九の段」を用いたことになる。②で崇神天皇に「二×九=18」は不似合いと述べた理由である。ただし、綏靖天皇の「九九」は説明がつかない。