記紀編者と陰陽道
「記紀は陰陽道の影響を受けている。」という主張は良く見受ける。国史の編纂を考えた天武天皇が陰陽道に関心を持っていたのは天文台を建て陰陽寮を作り、勉強させたことから明らかである。筆者も記紀の編纂に天文、暦や陰陽道に精通した人物が加わったはずであると述べてきた。
それでは記紀のどこに陰陽道が示されているのであろうか。
記述では、崇神天皇をはじめ他の天皇の記述にも占術が用いられたことが見られる。しかし、これが陰陽道であるという証明にはならない。
陰陽道というとすぐ安部清明が浮かぶが、清明が活躍したのは、記紀編纂の200年以上後のことである。その前に滋岳川人という陰陽師がいて、多くの占書を著作していて、これが日本で始めての陰陽道に関する書物であるといわれる。しかし、滋岳川人も記紀編纂から150年ほど後になる。
記紀編纂に加わった陰陽師は博士(教授)クラスの優秀な人物であり、多分陰陽寮において学生たちに中国から伝わった「周易」(易経)を教える立場にいたであろうと推測する。
日本における陰陽道は時代によって内容が大きく変わるのだが、当時の陰陽道は、その後呪術や秘術といわれるものに変化していく前の段階にあり、学問的な色彩が強いもので、天文術や暦の作成などを主眼にしていたと思われる。
しかし、占術であるのは疑う余地がない。陰陽師が「周易」から得た知識は当然記紀に活かされた。記紀の編者は、陰陽道の真髄を、極めて素直な形で在位や年代の数字に表わした。
「周易」の繋辞上伝に「四営にして易を成し、十有八変して卦を成す」とあるように、四つの営みよって一変ができ、三変で一爻が得られ、それを六回繰り返した十八変で一卦が得られるという。そして、得られた数字の意味は爻辞によって決められる。
魔方陣というのがあるが、この書物に記されたものを数字に置き直したもので、1から9までの数字を3行3列の方陣の中に並べたものである。数字の配列によって、縦、横、斜めの数字の和が一定であることを不思議なこと、神秘的なこととされ、占術が生まれ、陰陽道に繋がる。
要するに三つの数字が基になっていて、それらの数字組み合わせから吉凶を判断する。
編者の陰陽道
ここでは、記紀の編者が復元年代に託した陰陽道を紹介する。(下記の表を参照)
日本書紀を読む者にとって復元された年代は「裏」に見えるが、編者にとっては復元年代こそが「表」であり「実」なのである。従って、「陰陽道の真髄は復元年代に存在する。」
筆者は、易についての知識はないので、陰陽道に基づく数字の属性(老陽、少陰、少陽、老陰)等から吉凶を判断することができない。しかし、次のことだけを述べれば、ほぼ十分であると考える。
①奇数の数字(1,3,5,7,9)を縁起の良い陽の数とし、偶数の数字(2,4,6,8)を陰の数とした。
9の数字は、陽の中の最大の数であることから「陽の極まった数」された。
②同じ数字が続く(重なる)と、数字の意味が一層強化される。奇数が重なることを重陽といい、三つ重なった場合は「三重陽」という。9が重なる場合を特に「極まった三重陽」として尊重した。
「表103 記紀の主要年代の数字の意味」を参照。
表の記紀の主要年代の意味(Ⅰ)は、年代を三桁の数字として読み取ったものである。神武の即位年の数字は、陰陽道の繋辞上伝に示された手順に合致した数字の表れ方であり、しかも最高の意味を持った「極まった三重陽」の数字を用いていたことが分かる。
表の(Ⅱ)は、「ニニギ降臨の暗号」の解読方法と同じ方法で読み取ったもので、編者の遊び心を想定したものである。筆者が楽しんでいることなので、無視してください。
陰陽道や易経を知りたくて、関係する記事を見たが、参考になるものはあまり見かけない。逆に反論したくなることの方が多い。その方面の大先生は、記紀について「八卦」で説明されるが、記紀の主要な数字には気がつかないようで、説明もされない。
どなたか、易に詳しい方がおられたら、ご意見をいただきたい。