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2010年4 月 9日 (金)

日本三大桜の樹齢

「日本三大桜」と呼ばれる桜がある。

山高の神代桜(山梨県北杜市武川町山高・エドヒガンザクラ・推定樹齢1,800年・根回り約12m・目通り幹周り10.6m)

根尾の淡墨桜(岐阜県本巣市根尾板所・ヒガンザクラ・樹齢1,500余年・根回りは11.3m・目通り幹回り9.91m)

三春の滝桜(福島県田村郡三春町・エドヒガン系紅枝垂れ桜・樹齢1,000年以上・幹周り8.1m(地上高1.2m))

「日本三大桜」は、1922年(大正11年)10月に国の天然記念物に指定されている。

いずれの桜も、上記に示した通り、樹齢は1,000年以上~1,800年の古木であり、幹回りからも巨大な桜であることがわかる。古木で、巨大であるだけに風雪の被害や幹の老化が著しいが、多くの方々の保護により維持されているようだ。

日本最古といわれる山高の神代桜がある寺が実相寺である。 自宅のあった茅野市からはそれほど遠くなかったので、時期には何度か訪れた。高遠の桜とともに愛着のある桜である。

住職のHPの記事に、「長い歳月の風雪等の被害で中央幹、南北の枝は折れ、東西の枝も半分以上朽ち、昔のおもかげはありませんが、日本一を誇る貫禄を示しております。」とあるが、数本の若い枝が育ち、樹形を取り戻すにはあと50年~100年は必要なのかもしれない。 

最近、テレビで各地の桜の紹介をやっていて、神代桜についても何度か放映されている。

記紀の年代復元をやっていると、テレビで樹齢2,000年と説明されることに多少違和感を覚える。

神代桜HPには、「2,000年もの間、ただ一度さえ休むことなく花を咲かせてきた山高神代桜は日本三大桜のひとつ。日本武尊が東夷征定の折りにこの地に留まり、記念にこの桜を植えたといわれている。」とある。しかし、「境内立て札では1,800年以上と記載する。」

2,000年前としたら、西暦元年である。邪馬台国で有名な卑弥呼ですら西暦200年頃から247年(または248年)の人物である。それ以前に、第12代の景行天皇やその子の日本武尊が存在しないのは明らかなことである。

日本書記の古代の年代は大幅に年代を引き延ばしている。

日本書紀に記載された日本武尊の東夷征定の時期は、景行天皇40年次=西暦110年となっているが、年代は引き伸ばされているから、正しい年代ではない。

世の中には、今でも日本書記の年代を正しいと考える人もいるようだから、仮に日本書紀の年代が正しいとするなら、今(西暦2,010年)から1,900年前に植樹されたことになる。従って、1,800年以上前と表現しようと、2,000年と云おうとどうでもよいことかも知れない。

筆者が面白いと思うのは、このように日本書紀の引き伸ばされた古代の年代をそのままに用いるということである。(古いことを強調するために日本書紀の年代を使えば、当然古くなる。古く見せようとする場合によく用いる手法である。)

日本書紀は神武天皇の即位年を820年ほど前に引き上げ、西暦前660年とした。景行天皇の年代も引き上げられているから日本書記の数字をそのまま利用するのは無理がある。

幸いなことに、古事記は崇神天皇崩御を西暦318年、成務天皇崩御を西暦355年と記しているので、日本武尊の東征の時期は、ほぼ西暦340年~350年と推測される。伝承が正しいとすれば、樹齢は1,660年となる。1,800年以上前とか2,000年前というのは誇張しすぎる表現であり、そんなことをしなくても、神代桜を見ればその幹回りなどから古さについて十分納得するはずである。

淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市(旧・本巣郡根尾村)の淡墨公園にある樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木である。蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。

愛知県一宮市の真清田神社ゆかりの土川家で発見された古文書『真清探當證』の記述によると、次のように記載されているそうである。

「男大迹王は、皇位継承をめぐり、雄略天皇から迫害を受けたという。男大迹王は、僅か生後50日で養育係を勤めていた草平・兼平夫婦に預けられ、災いを避けるために真清田神社のある尾張一宮から更に美濃の山奥へ隠れ住んだ。この間には、筆舌に尽くしがたい生活を強いられたが、長じて29歳の時、都から使者が迎に遣わされ、男大迹王は都に上がり、第26代継体天皇として即位された。男大迹王がこの地を去る時、檜隈高田皇子(第28代宣化天皇)の産殿跡に1本の桜の苗木を植えた。このとき次の詩を詠まれた。

    身(み)の代(しろ)と遺(のこ)す桜は薄住(うすずみ)よ
         千代にその名を栄盛(さか)へ止(とど)むる  


日本書紀によると、継体天皇の即位は西暦507年とされる。この年に淡墨桜を植えたとすると、今(2,010年)から1,503年前に当たる。また、宣化天皇が雄略天皇11年(西暦467年)に生まれたとみなされることからから、淡墨桜を植えた年代を同年とすると、今から1,543年前に当たる。

しかし、継体天皇と宣化天皇の年代、特に生年には問題があり、上記の伝承の即位年齢とも合致しない。即位507年についても確定したものではないが、大きな狂いがあるとは思えない。「樹齢は1,500余年と推定され、」とは、上記の状況を考慮したものであるといえる。

2010年3 月 7日 (日)

建御名方神の入諏時期

ここ数年『古事記』や『日本書紀』の記載から古代の年代を明らかにできたらと考え、記紀に記載された数字を基に年代解読を進めてきた。また、筆者はかって諏訪・茅野に住んでいたことがあり、諏訪大社や建御名方神に関する歴史にも興味をもっていたが、具体的には何もしてこなかった。最近、建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期に関する記事を見て、なんとなく腑に落ちないところがあり、調べてみようと思うようになった。
とりあえず、パソコン上で得られれた情報をもとに、自分なりに整理してみようと思う。

 

茅野市にある神長官守矢史料館には、「建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期を今から千五百~千六百年前」とする紹介の記事が張り出されている。おおよそ西暦400~500年となる。
諏訪大社由緒略誌では、「御鎮座の年代は千五、六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられる」としている。
御鎮座の年代は、西暦元年から西暦500年の間となる。
千五、六百年前は両方の共通点であるが、諏訪大社由緒略誌は、大きな幅を持っている。それぞれ何が根拠になっているのだろうか。

建御名方神は、『先代旧事本紀』において、大国主神と高志沼河姫との間に生まれた子とされる。
建御名方神は、『古事記』において、葦原中国平定に関する大国主神の国譲りに繋がる記事として次のように記載されている。
建御名方神は、大国主神の子で、国譲りに反対し、建御雷神と戦い、敗れた建御名方神は、科野国の州羽(諏訪)に追い詰められて「この地以外の他所には行かない」と約束し、降伏した。
建御雷神は『古事記』の表記であるが、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。雷神は剣の神でもある。神武東征において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下の倉に自身の分身である佐士布都神という剣を落としたとされる。

以上の『古事記』および『日本書紀』の記載を信じれば、建御名方神が諏訪に入った時期は、神武即位(筆者の年代解読結果は西暦162年)以前となり、現時点(西暦2010年)から見れば、少なくとも1850年前となる。
しかしながら、建御名方神に関する『先代旧事本紀』や『古事記』の記載(建御雷神との戦い)は、作者の創作とする見方がある。そうだとすれば、上記の1850年前とする年代も根拠のないものとなる。ただし、創作として片付けるのは容易なことであり、筆者としては同調できない。(この件についてはさらに詳細を述べるつもりである。)

 

さて、諏訪地方には『諏方大明神画詞』以外にも種々の資料があり、冒頭に記した千五六百年という年代(西暦400~500年)の根拠に何があるのかを確認してみよう。

『諏方大明神画詞』などの伝承によれば、古来諏訪地方を統べる神として洩矢神がいた。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。

上記の説明では、年代については皆目わからない。もう少し関係する記事を挙げてみる。
1)守矢家の七十八代を継承された守矢早苗さんの「守矢神長家のお話し」には、『この塚(神長官裏古墳)について、祖母の生前、「用明天皇の御世の我が祖先武麿君の墳墓です。」と説明をしていた』と書かれている。
この塚とは、神長官裏古墳と呼ばれ、茅野市教育委員会により、築造年代は7世紀頃と推定されている。また、武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。そうすると、物部守屋没年(587年)と神長官裏古墳の年代を7世紀前半と見做せば、ある程度年代が合ってくる。
また、守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのことであり、仮にそれが正しいとすると、洩矢神と戦った建御名方神の入諏は西暦600年代初期となり、今から千四百年前になって、千五、六百年前の表現はさらに百年も後にずらさなければならない。

2)『諏訪大社由緒略誌』には、その御神徳として「当大社は古来より朝廷の御崇敬がきわめて厚く、持統天皇五年(西暦691年)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願なされたのをはじめ、歴代の朝廷の御崇敬を拝戴してきました。
 また、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られた。」としている。
上記の持統天皇五年の勅使に関しては、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。
三韓出兵は『古事記』によれば西暦362年とされる(筆者は392年の出来事と見做す)。上記の伝承が正しいならば、建御名方神は西暦300年代末には既に諏訪大社に鎮座されていたことになる。従って、「神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり」という記載と『諏訪大社由緒略誌』における「御鎮座の年代は千五六百年前」は年代として矛盾し、最低でも100年前に修正し、千六、七百年以前としなければならない。
さらに、白雉3年(652年)朝廷が綿を諏訪明神に奉る。(出所:未確認)
大化元年(645年)本田善光が諏訪明神の神勅により寂光寺より仏を諏訪郡真志野村善光寺に移し、後に、長野に移されたとされる。(出所:未確認)

3)諏訪氏は、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族である。
 その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴(おとえい)は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
注1)金弓は、舎人として欽明天皇(539~571年)の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とする。金弓の子・は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられ、諏訪評に進出した。用明天皇(585~587年)の時、麻背は子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせた。

上記3)の場合、乙頴が上社の大祝となった時点で諏訪大神を祭ったことになるが、祭神は建御名方神であったと推測される。ということは、建御名方神の入諏はそれ以前の出来事であったはずである。

上記1)と3)を違いは、上社の大祝家の出自が異なることである。1)では、建御名方命の後裔と称し、2)では神八井耳命の後裔となっている。
それぞれの大祝の出現した年代は用明天皇(585~587年)の頃で一致するが、詳細を見ればかなり異なる点がある。
1)の場合の建御名方命の入諏は用明天皇の年代よりも後でなければ説明がつかない。
3)の場合には洩矢神と建御名方神の戦いの有無と年代が不明であるが、年代としては用明天皇(585~587年)の年代以前となり、場合によっては数百年も遡る可能性を有している。

 

 

参考1)『日本の苗字7000傑』の姓氏類別大観では、饒速日命を祖とする物部守屋の後裔武麿を宮道氏(物部氏より分かれる)とする。ただし、諸説あるが、武麿が諏訪に逃れた記載はない。
参考2)崇神天皇(302~318年)の時代に建五百武尊、科野国造となる。(下社大祝の祖)
用明天皇(585~587年)の時代に、科野国造麻背君(五百足君)の子・乙穎(一名神子くまこ、熊古)、湖山麓に社壇を構え、諏訪大神と百八十神を千代田の斎串を立てて奉斎。(諏訪大神大祝)(『阿蘇家系図』)

2009年10 月16日 (金)

日本書記の記載上の1年の食い違いに思うこと

日本書紀の編者(写本の問題も含めて)の間違いも気になりだした。今までは解読する側の問題としてきたが、明らかに編者側の問題もある。
一例を挙げる。筆者が解読した復元年代が完全であるというつもりではないが、その結果の基づき述べてみる。

成務の個別年次表と全体をとらえた合成年次表の間に、成務崩御後の空位年の扱いに差異が生じている。個別年次表では空位年の存在を無視できないのである。しかし、合成年次表では空位年が存在しないような状態になる。空位年が存在するのかしないのか、成務の範囲では解決できないでいる。
しかも、仲哀の記載内容では、記載された崩御年齢と立太子年齢の間に1年の食い違いがあり、崩御年齢と立太子の年次と年齢の記載が正しいなら、記載内容は空位年1年を含まないことになる。この点は筆者のミスではなく、明らかに、日本書紀の側に問題があると見做さなければならない。
同様の1年の食い違いの問題は、垂仁の記載年代と復元した年代の間に、垂仁の立太子年(記載年代)と誕生年(復元年代)をめぐって1年の食い違いがある。
記載の年数が復元の年数よりも1年少ない状態になっている。
また、景行天皇の即位前の年代(皇太子の時代)と垂仁の年代との間にも1年の食い違いがある。(見方にもよるが、垂仁の側に1年の不足がある。)

1年の食い違いの原因
どうやら、上記の問題は、垂仁の記載年齢140歳に対し、実際には139年分しかなく、1年不足していることに起因すると考えられる。そのことに気付いた編者は、1年の不足を補うために、成務後に空位年1年を加算したと考えられる。そうだとすれば、成務後の空位年は存在しないという結論が得られるのだが。

仮に、容易に正解が得られるとするなら、なぜ日本書記の編者は正しい対応策を取らなかったのであろうか。これが最大の疑問である。」

筆者には、この問題にこれ以上踏み込む必要性を感じない。
修正を加えるということは、何を活かし何を捨てるかが分らない限り、答えが出たとして、意味はないように思える。
また、修正によって得られる即位年と崩御年は、現状得られている年代になるはずである。なぜなら、「現状の復元年代は、1年の食い違いを受け入れた状態で復元されているためである。」
さらには、復元年代の解読の基本は年次表にあるが、それがすべてではない。現状の解読結果は古事記の復元年代と一致している。ただし、崩御年齢に関しては古事記ではわからない。また、月日の暗号から読めるものもある。それらの結果を無視できない。

追記
なぜ日本書記の編者は正しい対応策を取らなかったのであろうか。」に対する筆者の答えは、「編者が1年の食い違いに気付いたとき、修正することによって、それまでに編者が作り上げてきた多くの『数字のからくり』が壊れてしまうことを恐れたためである。」

2009年10 月14日 (水)

日本書記の記載数字の食い違いの問題から見えてきたこと

旧ブログの過去の記事をみると、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」というような記事が多く載っている。過去の話ではなく、現在でも同じである。
しかし、内容から見れば随分違ってきている。
各天皇の即位年と崩御年は、ほぼ確定できる年代になってきたと考えるが、最終的には、全ての記載記事の年代が±1年に入ることを目標にしている。
最近は、従来とは異なる観点からみて、復元年代を確かなものにしてきた。従来は数字の解読に偏っていたが、記事の内容にも目がいくようになった。濱や陵に葬った時期の記事が即位年に関係していることが分ったことによる。
さらに古事記の解読結果は、日本書紀の解読に大いに寄与している。古事記の復元年代と日本書紀の復元年代とは、ほんの一部を除き、一致していることが分ってきたためである。

それでも、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」という点は変わらない。従来と異なるのは、各天皇の各記事の復元年代、復元年次、当該天皇および関係天皇、皇子らの実年齢などを数字の整合性を見ていることである。様々なケースがあるから一概に述べることはできない。なにがしらの数字の整合性が取れない点が見つかっていて、それが直接即位年や崩御年の年代を変えることはないとしても、明らかにすることが重要になってきている。

また、あまり言いたくないことであるが、日本書紀の編者(写本の問題も含めて)の間違いも気になりだした。今までは解読する側の問題としてきたが、明らかに編者側の問題もある。
例えば、垂仁5年次の記事は、垂仁4年次の後半の記事であり、15年次の記事は5年次の記事の間違いであることは、記事の内容から認められるはずである。
垂仁99年次は崩年139歳にしかならないが、140歳という記載がなされており、1年狂いがあることは知られている。このことは景行即位前の年代にも1年の誤差が生じているが、事実として認めなければならない。

上記のような数字の整合性に関する問題はかなり多い。一つ一つ解きほぐしていかなければならない。単に記載数字に食い違いがあるという結論だけでは解決したことにはならない。編者の意をくんだ解決が必要になると考える。このような問題に取り組めるようになったのは、それだけ記紀の復元が進んだ表れと考えてよいだろう。

2009年10 月11日 (日)

諏訪大社の鹿食免(かじきめん)

久しぶりに、上諏訪に立ち寄った。一杯やりながら、鹿肉の串焼きを食べたが、店主がいろいろな話を聞かせてくれた。
日本中、鹿や猪が増えてしまって、困っているようだが、食ってしまうのが解決策となるという。冷凍ではないから、美味いでしょう、という。以前にも何度か食べたことがあるが、ほとんどが冷凍であったと記憶している。
諏訪では、諏訪大社に伝わる食文化を現代に生かすため、鹿食免(かじきめん)振興会を設立し、諏訪産鹿肉料理の普及に取り組んでいる。諏訪湖温泉旅館組合の協力で、ホテルでは一般向けの食事会「鹿食免昼会席」を実施したり、鹿肉料理の可能性を探り、飲食店や宿泊施設向けの調理技術講習や試食会を行って、新しい肉材としてアピールしようとしているそうである。

諏訪大社の分社は一万有余社を数え、お諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、全国に分布する。筆者が諏訪に住んでいたころ、どなたか言ったか覚えていないが、日本中に多くの分社がある理由を、「仏教の伝来に伴って、肉食をタブーとする考えが出てきて、肉食を禁止するおふれが出された。しかし、シカ・イノシシなどの獣肉を堂々と食べることができた。それには、諏訪大社が狩猟の神であり、神に捧げる狩猟は許され、お下がりを食することができた。肉を口にしてしまえば、そのおいしさに、たびたび食べたくなる。そこで各地の領主や武将はこぞって、自分の国に分社してもらい、肉を食べることができた。」と説明してくれた。肉食に偏った見方であるが面白い。確かに、日本書記の天武4年次(675年)に、「・・・牛・馬・犬・猿・鶏の宍(しし、肉)を食らうこと莫(まな、禁止を表す、食ってはいけない)。・・・若し犯すこと有らば罪せむ」と記されている。

米国が、牛肉を日本に大量輸出しようとした時の話とまるで同じである。「牛肉を一度食べさせてしまえば、そのうまさに病みつきになる。」といったとか。

諏訪大社の分社に対する説明は、少し違う。
「御射山祭という神事がある。鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧ケ峯一帯で武芸を競わせたりして祭事を賑わしめ、参加した武将は諏訪大神の御分霊を拝戴して任地に赴き、御分社を奉齋した。」
祭神は武家の守護神と尊ばれた。それ以外にも、雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰を有する。また水の信仰が海の守り神となるなど幅広い信仰と結びついていることが、日本各地に広がった理由としている。

鹿食神事
本来の祭神は出雲系の建御名方ではなく、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。なお、上記の神々は現在では神性が習合・混同されているが、神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
鹿食神事は、神楽殿において宮司、神職たちによって執り行われる。周囲の灯火が消され、殿内のわずかな明かりの中で祭事が進行する。神饌として、かつては鹿の頭が供えられていたが、現在では茄子を鹿の頭に見立てて供えられる。国家安泰、五穀豊穣を祈る神事である。

鹿食免とは
仏教の教えが肉食を禁じていた時代(江戸時代)に、諏訪大社が肉食の免罪符として「鹿食免」というお札を発行していた。このお札を持っていると、シカ・イノシシなどを獲って食べても罰せられなかった。免罪符のようなものである。
信濃毎日新聞の記事によると、現代版のお札は、「鹿食免」の文字を記し、諏訪大社の焼き印が押されている。また、神職からは、鹿食免の札などを収めた「神棚」を調理場に祭ってほしいとの提案もあったそうだ。

追記(2010.3.1

近くまで来たので、諏訪大社に寄ってみた。上記の記事通りに、「鹿食免」のお札を売っていた。お札には次の勘文(諏訪のはらえ)が記されている。

諏訪の勘文

業儘(人遍なし)有情(ごうじんのうじょう)

雖放不生(はなつといえどもいきず)

故宿人身(ゆえにじんしんにやどりて)

同証仏果(おなじくぶっかをしょうせよ)

諏訪の勘文の意味

前世の因縁で宿業の尽きた生物は

放ってやっても長くは生きられない定めにある

従って、人間の身に入って死んでこそ

人と同化して成仏することができる

2009年7 月31日 (金)

筆者の独り言・・・・「年月日の暗号」へ取り組む

やっと神武天皇から雄略天皇まで復元年代を紹介することができた。
もう、解読に挑戦してから2度目の夏がやってきてしまった。筆者の右腕から指先まで痛みがひどくなってきて、パソコンのキーに触れるのも億劫になりつつある。
最近、新しい発見がいくつか続いたので、既に投稿済みの記事も見直さなければならない。記事の数もかなり多くなっているので、整理も必要である。やらなければならないことが多い。

「年月日の暗号」は復元年代の有力な根拠
当然のこと、復元年代の根拠は最重要である。直近の記事で、日本書紀の「年月日の暗号」を示したが、極めて中途半端な紹介に終わっている。前述したとおり、雄略までを急いだためである。
「年月日の暗号」は、原始的な暗号であり、あるいは暗号というより「数字の語呂合わせ」といってもよいくらいである。しかし、敢えて暗号としているのは、単なる語呂合わせではなく、計算された数字が見られることである。
気付く都度、蓄積をしてきたつもりであるが、あっちに書いたり、こっちに書いたりしてきたものであるから、取り出すのも大変である。取捨選択もしなければならない。
「年月日の暗号」は、復元年代の極めて有力な根拠となる可能性がある。

「仲哀天皇の年月日の暗号」
近く、「仲哀天皇の年月日の暗号」を紹介するつもりであるが、「年月日の暗号」が、いかに重要な意味を持っているかが分るであろう。
頭の良い推理小説家なら、発表などしないで、小説のネタとして大いに利用できるのだが、それができるほどの推理力はないのかもしれない。筆者の場合は逆で、推理や解読はできても文才が欠如しているからどうにもならない。
これからしばらくの間、記事の修正と整理をしながら「年月日の暗号」の紹介をしていくことにしたい。

追記)
「仲哀天皇の年月日の暗号の解読」(カテゴリ「日本書記の暗号」)を、09年8月22日に公開したので、ぜひ読んでいただきたい。

2009年6 月24日 (水)

悩み再燃・・・「記紀復元年代の整理直後の新発見」

旧ブログの記事は、古い情報と新しい情報が混じって手に負えなくなっていた。
この新ブログは、それらの混乱を直す良いチャンスと考え、文面をチェックしたうえで準備し、投稿を始めた。
そんなときに、「248年孝安崩御、249年孝霊即位」の新発見があった。気付いてから確定させるためにかなり日数が取られ、関係する記事のデータや文面の訂正に追われる羽目になってしまった。関係記事は、復元年代や卑弥呼・壹与の記事だけではない。倍暦や暗号など多くのカテゴリに関係記事がある。

「新発見→まとめ→整理→新発見→まとめ→整理」が続くものと思っている。それを繰り返すことで、より正しい復元が可能になる。本来喜ぶべきことなのであるが、記事が多くなってしまったことによる訂正の作業が重荷になりかけている。新しいブログで悩み解消と思っていたが、早々と悩み再燃である。

未発見の「からくり」
思うに、神武には複数のからくりが発見されている。復元年代の基準になるだけに重要なからくりである。今回発見したのは、「孝」一族のからくりである。崇神には2年の小さなからくりがあると思っているが開化の年代次第である。神功と応神のとんでもないからくりも見破った。神功に関係する形で垂仁から成務、仲哀の年代も見えてきた。
そのように見ると、情報の多い垂仁と景行にもう一つからくりがあってもよさそうだし、まだ明確なからくりが見えない仁徳以降に、複数のからくりがあってもよさそうに思われる。
日本書紀は十数人が二十数年かけて作り上げてきたとすると、日本書紀の年代解読は、容易にできるものではないということか。

2009年6 月21日 (日)

推古天皇の年代解読・・・「月日の読み方は笑える」

記紀の年代解読を振り返ってみて、気付くことがいろいろとある。
先ず、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

古事記の編者は、結構面白い性格の持ち主である。古事記の最後の方の4人の天皇、敏達、用明、崇峻、推古の年代を「治天下年数」と「月日」から解読して見た。と言っても、在位と正しい年代は干支から分かっているのだから、逆算すれば、月日がどのような根拠から作られたかが分かるのである。
解読の結果は、治天下年数と月日の数字がニニギ暦(西暦)の年代を示すために用意されたものであった。誰か一人の天皇の解読であれば、解読方法が疑われるが、連続した4人の解読結果が、解読の正しさを示している。
結論をいえば、「月日」は創作なのである。「これを見てくれ」とばかりに、「掛け算」を使ったりして、自慢している。編者らは古事記の編纂を楽しみながらやっていたのであろう。
では、日本書記の崩御の月日が正しいかといえば、古事記と同じである。推古の3月7日は、「37」が大好きな編者が、推古に捧げた数字である。
それなのに、上記の年月日が陰暦だから、太陽暦に直すと○月△日であるなどと百科事典にまで載ってしまうと、編者らも笑いが止まらないだろう。

悩みの種・・・「記紀の年代解読における1年の誤差」

筆者の復元年代は、他の学者の方々の復元年代とは違うようである。筆者の復元年代、例えば神武天皇誕生西暦137年、神武天皇即位162年は確かであるが、復元年代全体が完璧であるというつもりではない。
神武の復元年代が食い違うのは、他の方々の復元年代が間違っているためにすぎない。筆者の復元年代は日本書記においても、古事記においても、暗号の解読結果に基づくものである。その点から特異なものと見做される恐れがあるが、特異とされること自体が、記紀の年代解読の進め方を間違えた結果生まれたものである。しかも、記紀の年代を復元するのに100年以上かかっても出来ないのはなぜなのかが分かっていないのだから、そこが治らない限りどうにもならない。
実際に復元年代を得るためには、年次表の解読やその他種々の方法を用いて行っている。
記事を読んでもらえば分かることである。

旧ブログの過去の記事をみると、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」というような記事が多く載っている。過去の話ではなく、現在でも同じである。
例えば、懿徳の崩御後の1年の空位年であるが、復元年代として懿徳側にあるのか、孝昭側にあるのかわからない。たまたま、この場合は復元年代に関係しないが、記載上のシンメトリックでは懿徳側にあるが、解読では孝昭側にきている。多分どこかに間違いがあると思っているが、解決できないでいる。
記載上の1年は、4倍暦なら実0.25年であるから気にしなくてよいが、復元年代に変換するときに、小数点以下の数字は厄介である。切り下げか、切り上げか、本当のところが分らないからである。「1年」に、いつも悩まされ続けている。
上記に述べた、他の方々とは復元年代が10年以上離れていて、気分的に楽だが、もし1年違いであったなら気が滅入るであろう。161年を神武即位年と仮定した場合、辛酉の年でなかったのは幸いである。

2009年6 月14日 (日)

記紀(古事記と日本書紀)の間を行ったり来たり

当初、記紀の年代解読は、数字の比較から始まった。そのうちに、日本書紀の年代解読に夢中になってしまった。そのお陰か、解読は順調に進み、これで終わりと思う所に達していた。そして、古事記の方は、データも少なく、解読は無理と考えていた。

あるとき、古事記に、日本書紀のニニギの暗号「179万2470余歳」が記載されていないのはどういうことか、という記事を目にした。
その瞬間に、古事記の「神武天皇御年137歳」が、日本書紀で読み込んでいた数字と結びつき、暗号であることに気付いた。
極めて短時間のうちに、古事記の数字から復元年代が得られた。解読方法も独特な方法で、漫画チックな方法であったから、大いに楽しめた。それには、日本書紀の数字の知識が役立ったのは言うまでもない。

古事記から得られた復元年代は、多少曖昧な年代であった。日本書紀の復元年代との間にも食い違いがあるのを見て、読み終えたと思っていた日本書紀にも疑問が生まれた。
それからは、記紀の年代解読に取り掛かり始めたころと同じように、記紀の間を行ったり来たりするようになった。

しばらくすると、記紀の復元年代は基本的に一致すると思えた。記紀の食い違いの個所も分ってきて、例えば仲哀の在位である7年と9年は、どこまでいっても一致はしない数字と捉えるようになった。

なぜ、記紀の間を行ったり来たりできるのか、考えてみれば容易なことである。
一方(日本書紀)をもとに、他方(古事記)が作られたからで、それもどちらを先といっても不思議でないほど酷似しているから、双方向に移動できるのである。

ずばり言えば、古事記の原型は日本書紀の編纂状況を熟知している人物の手によるものである。現存の古事記はさらに書き換えが行われたようだが、数字に関しては手を入れなかったと思われる。逆に、手の入れようがなかったのかもしれない。以前、古事記の方が古い、といった意見を書いたことがあったが、数字だけ見ればそのように思わせるものがある。