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2009年10 月14日 (水)

日本書記の記載数字の食い違いの問題から見えてきたこと

旧ブログの過去の記事をみると、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」というような記事が多く載っている。過去の話ではなく、現在でも同じである。
しかし、内容から見れば随分違ってきている。
各天皇の即位年と崩御年は、ほぼ確定できる年代になってきたと考えるが、最終的には、全ての記載記事の年代が±1年に入ることを目標にしている。
最近は、従来とは異なる観点からみて、復元年代を確かなものにしてきた。従来は数字の解読に偏っていたが、記事の内容にも目がいくようになった。濱や陵に葬った時期の記事が即位年に関係していることが分ったことによる。
さらに古事記の解読結果は、日本書紀の解読に大いに寄与している。古事記の復元年代と日本書紀の復元年代とは、ほんの一部を除き、一致していることが分ってきたためである。

それでも、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」という点は変わらない。従来と異なるのは、各天皇の各記事の復元年代、復元年次、当該天皇および関係天皇、皇子らの実年齢などを数字の整合性を見ていることである。様々なケースがあるから一概に述べることはできない。なにがしらの数字の整合性が取れない点が見つかっていて、それが直接即位年や崩御年の年代を変えることはないとしても、明らかにすることが重要になってきている。

また、あまり言いたくないことであるが、日本書紀の編者(写本の問題も含めて)の間違いも気になりだした。今までは解読する側の問題としてきたが、明らかに編者側の問題もある。
例えば、垂仁5年次の記事は、垂仁4年次の後半の記事であり、15年次の記事は5年次の記事の間違いであることは、記事の内容から認められるはずである。
垂仁99年次は崩年139歳にしかならないが、140歳という記載がなされており、1年狂いがあることは知られている。このことは景行即位前の年代にも1年の誤差が生じているが、事実として認めなければならない。

上記のような数字の整合性に関する問題はかなり多い。一つ一つ解きほぐしていかなければならない。単に記載数字に食い違いがあるという結論だけでは解決したことにはならない。編者の意をくんだ解決が必要になると考える。このような問題に取り組めるようになったのは、それだけ記紀の復元が進んだ表れと考えてよいだろう。

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