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2009年7 月31日 (金)

筆者の独り言・・・・「年月日の暗号」へ取り組む

やっと神武天皇から雄略天皇まで復元年代を紹介することができた。
もう、解読に挑戦してから2度目の夏がやってきてしまった。筆者の右腕から指先まで痛みがひどくなってきて、パソコンのキーに触れるのも億劫になりつつある。
最近、新しい発見がいくつか続いたので、既に投稿済みの記事も見直さなければならない。記事の数もかなり多くなっているので、整理も必要である。やらなければならないことが多い。

「年月日の暗号」は復元年代の有力な根拠
当然のこと、復元年代の根拠は最重要である。直近の記事で、日本書紀の「年月日の暗号」を示したが、極めて中途半端な紹介に終わっている。前述したとおり、雄略までを急いだためである。
「年月日の暗号」は、原始的な暗号であり、あるいは暗号というより「数字の語呂合わせ」といってもよいくらいである。しかし、敢えて暗号としているのは、単なる語呂合わせではなく、計算された数字が見られることである。
気付く都度、蓄積をしてきたつもりであるが、あっちに書いたり、こっちに書いたりしてきたものであるから、取り出すのも大変である。取捨選択もしなければならない。
「年月日の暗号」は、復元年代の極めて有力な根拠となる可能性がある。

「仲哀天皇の年月日の暗号」
近く、「仲哀天皇の年月日の暗号」を紹介するつもりであるが、「年月日の暗号」が、いかに重要な意味を持っているかが分るであろう。
頭の良い推理小説家なら、発表などしないで、小説のネタとして大いに利用できるのだが、それができるほどの推理力はないのかもしれない。筆者の場合は逆で、推理や解読はできても文才が欠如しているからどうにもならない。
これからしばらくの間、記事の修正と整理をしながら「年月日の暗号」の紹介をしていくことにしたい。

追記)
「仲哀天皇の年月日の暗号の解読」(カテゴリ「日本書記の暗号」)を、09年8月22日に公開したので、ぜひ読んでいただきたい。

2009年7 月30日 (木)

記紀の復元年代は、倭の五王が誰かを明らかにする  

神武天皇から年代解読を始め、雄略天皇までの年代をほぼ明らかにすることができた。
中国史書の倭の五王(実質、六王)の年代は正しいというのが定説のようであり、筆者の知識では受け入れるしか能がない。とすると記紀の年代が間違っているということになる。
ここでは、倭の五王(六王)の年代に関わる天皇に関して述べることとする。

中国への最初の朝貢は、西暦413年の朝貢から始まる。復元年代において、応神天皇の崩御は403年であるから、五王(六王)から外すことができる。
仁徳天皇の即位年は、405年または406年であるが、まだ確定していない。しかし、いずれの場合であっても、413年の最初の朝貢より前になる。従って朝貢は仁徳天皇から始まったことになる。
履中天皇から雄略天皇までの年代解読結果は、既報「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」に述べたのでみていただきたい。
天皇と倭の五王(六王)の関係について、次の「表50 倭の五王(六王)の年表」に纏めたので見ていただきたい。

表50 倭の五王(六王)の年表

年代の齟齬

先ず、中国史書と記紀の年代との間に次のような齟齬がある。このため、倭の五王(六王)に相当する天皇が誰であるか分らなかった。
1) 反正の崩御年437年(古事記記載)と珍の朝貢438年の1年差
2)安康の崩御年456年(日本書紀記載、古事記記載なし)と興の朝貢462年の6年差

先ず、反正天皇と珍の関係を述べる。
允恭5年次に反正天皇の濱(もがり)の記事がある。濱は天皇が崩御された後、半年以内に行われるので、允恭の年代に何らかの年代の操作がなされたと考えられていた。しかし、そのことを踏まえた年代解読がなされたとは思えない。解読の結果は、既報「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」に述べたとおりである。反正の崩御年は2年下った439年となり、在位は2年増加した7年となる。従って、438年の朝貢は反正である。

安康天皇と興との関係
この場合は、允恭の崩御年が関わるのであるが、日本書紀記載の年代よりも6年下だり、459年になる。その結果安康の在位は、460年から462年までの3年間となる。462年の朝貢は興である。

倭の五王(六王) は誰か

仁徳天皇から雄略天皇までの各天皇の復元年代は、日本書紀と古事記の両方とも同じ結果が得られた。記紀の復元年代が同じとなるのは、重みがある。
以上より、次のとおり五王が誰なのか、全て明らかになった。
倭王讃:仁徳(405or406年~427年)、413年(不明)、421年(讃)、425年(讃)朝貢
倭王不明:履中(428年~432年)、430年の朝貢
倭王珍:反正(433年~439年)、438年(珍)朝貢
倭王済:允恭(440年~459年)、443年(済)、451年(済)
倭王興:安康(460年~462年)、460年(不明)、462年(興)
倭王武:雄略(463年~479年)、477年(武)、478年(武)、479年(武)
なお、502年は中国サイドの理由(建国祝賀)によるものであるとの鳥越憲三郎氏の説を採り、朝貢はしていない。

2009年7 月29日 (水)

仮説:仁徳天皇の年次表の解読(年代のからくりの解明)

最初に、この仮説の結果を述べておく。
仁徳天皇は、405年に即位し、427年に崩御された。在位は23年である。
「表27-1 仁徳天皇の年次表の解読」を見ていただきたい。

表27-1 仁徳天皇の年次表の解読

筆者にとって、仁徳天皇の年代や、在位の解読が最も難しかい。しかし、考えてみれば、そのお陰でいろいろなことが発見できたといえる。
例えば、4倍暦の基準年がある。
神武天皇即位から仁徳天皇崩御年(厳密には、履中天皇即位元年)までの年代は、実年の4倍であるとしてきた
当初は、倍暦の計算の基準を、神武天皇即位年BC660年としていたため、仁徳天皇即位年は復元年代では426年となった。ところが、基準年を神武天皇の太歳干支の付与されたBC667年(東征開始年)とすると427年が得られることが分かった。4倍暦の基準年がBC660年とBC667年の2種類あり、両者の差は1.75年ある。使い分けされているのである。

本題の、年次表の解読に関して述べる。
従来の考え方は、仁徳天皇の在位は記載上87年であるから、1/4は22年と看做す。崩御が427年とすると、即位年は406年となる。
応神天皇は、363年に誕生し、41歳の403年に崩御されたと考えている。
従って、応神崩御後に存在する記載上の空位2年を、実年でも2年あったとすると、仁徳の即位年は406年となるが、空位年が1年しかなかったとすると、即位年は405年になり在位が23年になるのである。
従来の考え方は、一見、応神天皇と仁徳天皇の年代的な繋がりはうまくいっているように思えるが、筆者には納得がいかない。重要視される天皇には、必ず「年代に関わるからくり」がある筈なのに、仁徳天皇には存在しない点であった。聖帝といわれるくらいなら、なおさら何かがなければならない、という筆者の思い込みである。

仁徳天皇に仕掛けられた「からくり」

1)応神天皇と仁徳天皇の在位23年のシンメトリック
応神天皇の崩御後の空位年は、実年で1年とし、1年分を仁徳の在位と仮定すると、仁徳の在位は22年から23年に変わる。これにより両天皇の在位はそれぞれ23年になる。即ち、404年の空位年を基準に23年のシンメトリックが作られている。
(応神天皇の即位381年、崩御403年、在位23年、空位年404年、仁徳天皇の即位405年、崩御427年、在位23年)
このシンメトリックは、応神天皇の崩御と仁徳天皇の即位の年代関係の詳細は編者にも分らなかったための解決方法なのかも知れない。

2)仁徳天皇の年代は3倍暦
仁徳即位年から67年次までは基本的に3倍暦である。3倍暦が成立するには69年にならなければ、23年の在位は得られない。そのために、空位年2年目の1年と履中元年の1年が加算され、合計69年となる。また、68年次から87年次までの20年間は、年代延長のために加算された20年であり、87年次は20年遡り67年次と同年となる。
仁徳67年次の記載を見ると、10月18日の記事には月が記載されていない。仮に10月が記載されていれば、月日の暗号は解読できない。編者の巧妙な工夫である。特別に「天下大きに平らなり。20余年ありて事なし。」は、67年次と87年次が同年であることを示唆するキーである。

3)崩御してから陵を築く
記事のままとすると、仁徳天皇が崩御する20年(記載年代)に陵地を定め、陵を築き始めたことになる。大きな古墳として残っているから、早めに作り始めたと解釈することもできる。仁徳天皇の場合には、4倍暦を基本にしているから、5年前から作り始めたことになる。海外の歴史では崩御前に自らの墓を作ったとする事例も存在するから、あり得ないことと決めつけられない。
仮説の場合には、上記に述べたとおり、20年分が加算されているとするから、崩御された後に古墳(墓)を作り始めたとなる。これにより、20年間何も記載されない不自然さも解消する。
月日に従って、順序を入れ替え、推測を加えると次のようになる。
67年次1月16日、仁徳崩御
濱については記載なし
10月5日、陵地を定める。
10月7日、陵に葬る(陵が完成するまでの仮埋葬)
10月18日、陵を築き始める。
20年後87年次(4倍暦とすると5年後、3倍暦とすると7年後)陵が完成し、陵に埋葬する。

この仮説の意味するところ
ある有力な学者が、日本書紀には2倍暦または4倍暦が用いられており、その他の倍暦は用いられていないという見解を示されていたが、筆者の主張とは異なっている。筆者の主張は「n×2倍暦」や「n倍」の考えに代表されるが、倍暦に関する関係記事を読んでいただきたい。
しかし、仁徳天皇の年代に限れば、筆者も87年次という数字を、4倍暦の88年(22年の4倍)に1年不足した数字であると思っていたのも事実である。3倍暦であるとすれば、前にも述べた通り、67年は2年不足しており、69年(23年の3倍)としなければならない。

3倍暦に気がついたきっかけは、シンメトリックだけではない。古事記において神武天皇から崇神天皇までの年代に5倍暦が用いられていることを発見したことも関係する。
古事記の編者も日本書紀の編者も、物事を一律に処理することを、脳なしと見る。自由な発想で、アイディアを尊重し、同じことを繰り返さない。古事記に至っては、日本書紀の編者の真似は決してしないのである。
4倍暦を例にとれば、神武天皇から仁徳天皇までの期間(合計在位)、あるいは崇神天皇から仁徳天皇までの期間を4倍に延長した。
また、崇神天皇は4倍暦である。しかし、その他の天皇の倍暦は、4倍暦ではない。一律ですべての天皇に4倍暦を用いるような、定型化された、つまらない年代構成など編者の眼中にない。
長い間、古事記や日本書紀の年代解読ができなかったのは、例えば3倍暦や5倍暦などを用いるわけがないという固定された考えが根本にあるためかも知れない。

さて、「表28-1 仁徳天皇の年次表の解読」の説明をするが、3倍暦に基づき年代を区切っている。年月日(実質は月日)の暗号の解読を書き加えておいた。一部に1年程合致しないところがあるが、3倍暦で構成されていることを否定するものではない。
参考に、仁徳の年代を4倍暦で計算した結果をつけておく。

誤解のないように!
3倍暦は、仁徳の在位中の各年次の割り振りに関して用いられたものである。日本書記全体の中の仁徳崩御年の年代の位置付けは、4倍(暦)であることに変わりはない。この点を誤解してはならない。

2009年7 月26日 (日)

履中天皇~雄略天皇の年次表の解読

先ず、添付の「表28-1 履中~雄略の年次表の解読」を見ていただきたい。

表28-1 履中~雄略の年次表の解読

従来において課題とされたまま解決されていない点を年次表に基づき述べていく。
大きな課題は、次のとおりである。
1) 反正天皇の濱の問題(反正天皇と允恭天皇の在位が関係する)
2) 安康天皇の年代
3) 雄略天皇の在位の問題

解読方法の特徴日本書紀記載の「年月日の暗号」の説明
筆者は、日本書記に記載された年月日は暗号であると主張してきた。しかし、不完全な暗号であり、信頼性に欠ける代物である。だから、「暗号ではない」というなら、そういうことで構わないのだが、解読に役に立ち、有効であるとするなら、何と呼べばよいのだろうか。ということで、筆者は「年月日の暗号」と呼んでいる。
ただし、全ての年月日が暗号というわけではない。上記の年次表に「赤い太字で書いた数字」の部分が暗号に相当し、[ ]内は計算の根拠を示している。
「年月日の暗号」の例は、かなり多く蓄積できている。編者の数字の扱い方の中には、次のような独特な扱い方もある。例えば、11は2とする。12(十二)は、12そのままも場合もあるが、+2の場合や逆数20の場合がある。早い機会に、まとめて紹介することとする。
また、年次表自体は、「年月日の暗号」を用いなくても影響を受けないが、暗号によって裏付けが強化されていると考えている。
さらに、復元年代は、古事記の「御年」、「月日」「治天下年数」の暗号の読み取りによる復元年代と完全に一致している。

反正天皇の濱(もがり)について

反正天皇の濱(陵への埋葬前の葬送の儀礼の意味)の記事は、允恭5年次に記載されている。このため、崩御から5年もたった時期に濱が行われるのは異常であると考えられてきた。その辺りについては、「日本書記の真実」の著者である倉西裕子氏が「書記における14人の濱の記事」にしっかりと纏められている。
倉西裕子氏の調査の結果は、「反正天皇を除いて、全員が崩御後数カ月以内に濱が行われている。」とする。
筆者の解読結果を説明する。
反正天皇の最終年次は5年次で等倍暦(実年)で書かれ、崩御後に1年の空位年がある。それに対し、允恭天皇の年次は42年あり、2倍暦である。半分の21年が実年になる。従って5年次は3年目に当たることになるが、倉西氏の結果と比べると3年では多すぎる。
5年次がどの年代に当たるかを調べると、年次表に示した通り、反正天皇の在位は5年から7年に延ばし、允恭天皇の在位を21年から20年に変えると、全てが満足する結果が得られる。即ち、1月の崩御の6カ月後の7月に濱が行われていたのである。
もしかすると、允恭天皇の年代は2倍暦で記載されているから、春年の7月とすると4月かもしれない。それなら、崩御の3カ月後となる。
さて、上記の「年月日の暗号」は[39]を示唆し、濱の年代が西暦439年にあったことを裏づけてくれている。

倭国王珍は反正天皇

従来の問題点として、中国史書における「宋の文帝に対する倭国王珍の朝貢は西暦438年」とされており、反正天皇が437年に崩御された1年後になり、いろいろな説が提案されてきた。
解読された復元年代では、反正天皇の崩御は439年となり、反正天皇が倭国王珍として438年に朝貢したことが明確になった。
なお、履中天皇在位は428年~432年で、430年の朝貢は履中天皇による。
年次表に記載したとおり、允恭天皇は倭国王済で、安康天皇は倭国王興であり、雄略天皇は倭国王武である。この年次表には載らないが、仁徳天皇が倭国王讃(賛)である。応神天皇は年代から見て対象にはならない。
これで倭の五王(国王名の記載がない履中天皇を含めると、六王になる)はすべて明らかにすることができた。

雄略天皇の在位は6年減じた17年

日本書記の年代は延長されているが、実年に対する年代差を崇神天皇以降の各天皇の崩御年で追っていくと、安康崩御462年の段階において、6年の年代差が残っている。
従って、雄略元年は、記載年代457年に対し年代差6年を加算すると、463年になる。
年代差は、雄略2年次から7年次まで毎年1年ずつ解消され、7年次463年において消滅する。従って、基本的には元年から7年次までの7年間は463年となる。
しかし、この7年間には463年以外の年代の記事が混在している。例えば、雄略2年次の百済の池津媛の記事の正しい年代は不明である。5年次の百済の蓋歯王、昆支、武寧王誕生などの記事は、462年の出来事と考えられる。記事元の「百済新撰」などにおいて1年の狂いがあるとされているが、筆者は確認できていない。いずれにしても461年か462年であり、安康の年代である。残る記事、例えば、「葛城山に狩りをする」や「小野に遊ぶ」などの記事は年代を明らかにできない。
雄略天皇の崩御直前の記事は、中国史書および百済、高麗の記事で、年代が分っている記事である。479年以降の記事が存在しないため、崩御年は記載のとおり479年が正しいと判断する。在位は17年(463~479年)である。

古事記の崩年干支の読み取り年代との関係
古事記の崩年干支の読み取り年代と解読した復元年代を比較してみると、反正天皇崩御年437年に対し2年、允恭天皇崩御年454年に対し5年食い違う。それだけの食い違いしかないのだが、中国史書の年代から見ると、きわめて大きな影響を与え、倭の五王の年代は分らなくなっていた。
古事記の編者は正しい年代を知っていながら、年代を変えたのは、中国への朝貢を明らかにしたくなかったのであろう。この点、日本書紀も同様である。
さらに、雄略天皇は重要な位置付けにあったようで、日本書紀では、在位を17年から23年へ伸ばした。同様に、古事記では崩御を489年と、10年下った年代に延ばした。いずれの場合も、雄略天皇を重要視して在位期間を少しでも長くしたかったと考えられる。

2009年7 月21日 (火)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(垂仁編)

崇神天皇~仲哀天皇の崩年干支は次のような年代として読み取られている。ここでは干支自体を議論するつもりはないので、年代に置き換える。
崇神崩御年:318年
垂仁崩御年:干支の記載なし→333年
景行崩御年:干支の記載なし→348年
成務崩御年:355年
仲哀崩御年:362年
上記より、垂仁から成務までの合計在位は、37年と計算される。同様に垂仁から仲哀までの合計在位は、44年である。

古事記の崩年干支の欠落の穴を埋める
先ず、垂仁天皇と景行天皇の崩年干支がないため、空白となっている年代の穴を埋めておこう。
垂仁崩御年:333年[318+12+153=333](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、153は垂仁の御年)
景行崩御年:348年[318+12+168=348](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、168は崇神の御年)
以上より、垂仁の在位15年、景行の在位15年、成務在位7年となり、合計在位は37年で、上記の計算上得られる合計在位と一致する。

新説古事記復元モデル

古事記の分注崩年干支に関する一考察(応神編)において、仲哀天皇の崩御年は18年遡って設定されていると述べた。
とすると、仲哀天皇の崩御年は、362年に18年を加算すれば、380年になる。応神天皇の即位年は、381年が正しい年代である。
成務天皇の崩御年は、仲哀天皇の在位7年が変わらないとすれば、355年に18年を加算した373年となる。
それでは、この18年は、垂仁、景行、成務の在位と年代に対し、どのような影響を与えるか、古事記に記載の数字を用いて解読する。
仮説は、「古事記記載の御年(および月日)を構成する各数字を加算すると、在位が得られる。」である。
崇神在位:御年一百六十八歳、月日十二月→1+6+8+2=17→17年(318年)
垂仁在位:御年一百五十三歳→1+5+13または1+15+3=19→19年(337年)
景行在位:御年一百三十七歳→1+13+7または1+3+17=21→21年(358年)
成務在位:御年九十五歳→9+5=14→14年(372年、崩御後の373年は空位年)
仲哀在位:御年五十二歳、月日六月十一日→5+2=7、または6+1=7→7年(380年)
注1)( )内は復元年代である
垂仁から仲哀までの合計在位は、61年である。他方、319年から380年までは62年の在位であり、上記の仮説から計算された61年とは1年の誤差がある。
日本書記には、成務崩御後に1年の空位が存在する。この1年を活かすと、合計在位は62年となる。
さらに、成務崩御後に1年の空位年は、神武暦851年(37年の23倍)である。4倍暦で計算される年代は、373.75年で373年と見做すことができる。[851/4+161=373.75]
仲哀崩御380年から逆算すると、仲哀即位年は374年となり、その前年の373年が空位年であるとすると、年代として整合性が取れる。仮説は、正しいことになる。
筆者はこの復元年代を「新説古事記復元年モデル」と呼んでいる。

古事記の暗号は用意周到
古事記の御年と月日の暗号は、用意周到である。
記載された崩年干支に合わせて、崩年干支が欠落している垂仁と景行の崩御年を、解読できるようにした。その上で、正しい年代を導き出す各天皇の在位を、別の方法で計算できるように用意した。知りたいと考える二種類の年代あるいは在位を、暗号が教えてくれるのである。

記紀の解読結果が一致する重み
御年と月日の数は極めて少ない。各天皇に一つ、または二つの数字しかない点で、無理のない解読がなされれば、日本書紀以上に正確な年代や在位が読み取れる。また、古事記から得られた数字は、日本書紀の解読に大きな手掛かりを与えてくれる。記紀の解読結果が一致する年代と在位は、今まで以上に重みがあると考えられる。
古事記の編者は、数字を巧みに操って暗号を作り上げている。今から千数百年前の知識人が、数字とにらめっこしている姿を想像するのは楽しいことである。
古事記に記載された御年や月日は、各天皇の在位や年代を示す暗号である。」という主張も理解していただけるであろう。

古事記は、神功皇后の年代への関与を否定

さて、ここで終わったのでは、単に投稿済み、下記添付の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加) 」および「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」に記載されたことを繰り返し述べたにすぎない。
従来の古事記の分注崩年干支から読み取りされた年代とは異なる、新たな復元年代が存在するということである。新たな復元年代の必要性がなければ、暗号も必要がないはずである。
新たな復元年代は、「神功皇后の年代への関与を否定したもの」である。これが古事記から解読された最も重要な結論である。
注2)表の年代が上記文面と一致しない場合は、修正が間に合わないか、あるいは新たな発見により修正したためで、ご容赦を願いたい。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

2009年7 月20日 (月)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(応神編)

明治時代、那珂博士は、「上代年紀考」において、古事記の分注崩年干支を基に年代を示した。これが今日においても通説とされている。当時としては画期的なものであったようだ。
実際には、倭の五王に関わる年代と中国史紀の年代にかみ合わない部分があるが、それでも日本書記よりは無理なく整合性を取れるとされる。

古事記の復元年代とは

筆者の応神天皇の復元年代を基に、古事記の復元年代に対する考えを述べる。
古事記は、日本書紀の解読書である」と述べてきた。この表現は、誤解を招きやすい。古事記に記載された文言や、系譜まで拡大した意味は持っていない。「古事記は、日本書記の年代に関する解読書である」が筆者の主張である。
「古事記は、日本書紀の文言や系譜に関して、批判を加えたものである」という主張に関しては否定しないが、比較検討していないのでコメントは特にない。

日本書記の復元年代を求めた活動は盛んであるが、古事記の年代解読の記事は見たことがない。「解読書」という表現はあるようだが、年代全般に関するものも見当たらない。
古事記の数字から復元年代を解読できていないのだから、古事記を基に日本書紀の年代を解読するということができるはずがないのは当然である。
筆者は、古事記に記載された「御年(みとし)」、崩年時の「月日」、「治天下の年数」を用いて復元年代を得ることができた。
勿論、古事記だけの情報で復元年代が得られたわけではなく、日本書紀の情報があってのことである。ただし、古事記の復元には古事記の数字しか用いていない。

古事記の分注崩年干支の意味

古事記の分注崩年干支に関して、崇神から仁徳までについて述べる。(仁徳以降は別途述べる)
崇神から仁徳までの分注崩年干支は、崇神崩御と仁徳崩御の干支が正しいだけである。逆にいえば、垂仁から応神までの干支は正しくないということである。このような結果は、古事記の編者が神功の年代をどのように評価し、加味したかによって生じた問題である。
先ず、重要なことは、古事記の編者も日本書記の編者もほぼ一致する正しい復元年代を知っていたということである。
古事記は、神功の年代を設定していない。しかし、古事記の編者は、日本書紀における神功皇后が三韓征伐で活躍し、応神が誕生した仲哀9年362年にこだわりを持たざるを得なかった。恐らく、古事記の編者といえども、当時の時代背景や日本書紀によって作られた神功皇后を称える風潮を打ち破れなかったのか、あるいは日本書記の解読書としての性格から362年が妥当であると考えたのかも知れない。それによって、362年以前の垂仁、景行、成務、仲哀の各天皇の在位を合計で18年前倒しをし、誤った年代を記載した。
注1)日本書紀における200年(201年)は、362年(正しくは、363年)に相当し、応神の正しい誕生年が記載されているため、古事記の編者は日本書記の記載に同調せざるを得なかった。

古事記の正しい復元年代

古事記から、応神天皇の正しい年代を知るには、次のように読み替える必要がある。
古事記は、応神天皇の即位年は、9月9日(九九=81)の381年であり、これが正しい年代であるとする。垂仁から仲哀天皇までの年代で18年前倒しをしたと前に述べたが、仲哀天皇の崩御の年代は362年でなく、9月9日(九+九=18)で、18年を加算した380年が正しい年代である。
古事記は、応神天皇の在位を32年と記載したが、逆数の23年に読み替えて(32年から9年差し引いた23年としてもよい)、即位年381年から計算すれば403年が得られる。
また、古事記は、9月9日の9年を応用して次のように応神天皇の年代を解釈することができる。応神在位32年に9年分の摂政期間があるように、含みを持たせた。その結果、摂政なしの応神の実在位は23年であることを示すが、結果として9年分前倒しになっている。応神崩御394年は、9年遡った年代であり、9年分の年代を下げると応神崩御は403年になる。応神即位381年、崩御403年、在位23年が正しい復元年代であり、日本書記の復元年代と一致する。

古事記は、日本書記の講義に使われたようである。例えば、神功皇后と応神天皇の説明は次のようだったかも知れない。
日本書記は、神功皇后が三韓征伐を行った200年に応神天皇をお産みになられ、69年間摂政につかれた。応神天皇は、即位270年に即位され、310年に崩御、在位41年と記載する。この年代などの数字は延長がなされており、正しい年代ではない。神功皇后の三韓征伐は国威発揚のためであり、応神天皇の記事は応神天皇の正当性を知らしめ、皇室を守るためである。従って古事記においても、日本書紀と同様の記事を載せ、分注崩年干支(年代)を前倒しして、ごまかしているので、古事記の分注崩年干支を見るときには注意しなければならない。」
注2)この記事の冒頭に述べた通説は、まんまとごまかされてしまったのである
注3)筆者は、古事記の新羅征討、あるいは日本書記の三韓征伐と称される戦いがあったことを否定していない。日本書記の記載は、392年の出来事を、応神3年(382年)と仲哀9年(362年)に分割して記載し、後者は30年分前倒しされていると解釈している。

次に、日本書記の解読方法を説明しよう。
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」を見ながら読まれると理解できるはずである。

表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細

表109 神功皇后の年次表の詳細

日本書記における神功皇后の記事は、年代を過去に大幅に遡るための設定であり、69年間は無視すればよい
日本書記では、仲哀天皇の即位は192年、崩御は200年、在位9年である。神功皇后は存在しないから、仲哀天皇の年代は下ることになり、即位372年、崩御380年となる。在位9年は変わらない。復元年代は、記載年代に180年を加算することになる。(これに伴い、成務、景行、垂仁の年代も下るが、説明は省略する。)

応神天皇の誕生363年、崩御403年の根拠
日本書記では、応神天皇の誕生は、201年である。神功紀の記載では、200年、仲哀9年に生まれたことになっているが、父親不明を避けたごまかしである。日本書記の応神紀では、誕生年(203年、年3歳)と宝算110歳(201年誕生、310年崩御、宝算110歳)が明確にされている。
正しい復元年代は、201年に神武即位年162年を加算した363年である。応神天皇の誕生の記載は神功皇后に記載されたものであり、復元年代は162年を加算すればよいのである。
そして応神の在位41年は、41歳で崩御されたことを示し、363年1歳から計算すると、403年が41歳で、崩御年は403年となる。日本書記が年代と年齢について事実をズバリ書いた珍しい例である。尤も、事実といっても、編者が想定した数字であることに変わりはない。
注4)神功皇后の摂政元年の国内記事は、正しい年代に対し162年のズレを持っている。よく120年ズレているかのように受け取れる主張を見受けるが、神功皇后および応神天皇の中の百済関係の記事が120年のズレを持っていることとごっちゃにしてはならない。

応神天皇の年代差は111年(37の3倍)から93年に変わる
日本書記の記載では、応神即位270年となっているが、古事記で説明したとおり、復元年代は381年である。復元年代に対するズレは、111年(37年の3倍)に設定されている。
注5)神功皇后の摂政69年次、記載年代269年は、復元すると380年である。摂政元年には162年のズレがあったが、摂政69年次、380年には111年のズレに変わる。年代差は162年から111年に低下し、年代のズレ(年代差)は51年消費した(減じた)ことになる。残りの18年が有効年代であり、363年応神1歳から380年18歳までの年数に相当する。

日本書記の応神の即位381年は、神功の在位の69年分が影響し、倍暦の計算では読み取れない。合成年次表で、仲哀の崩御年を読みとって、はじめて応神即位年が読み取れる。古事記が示唆してくれているから分るものの、日本書紀だけでは容易には分らない。従って、応神即位381年を主張する学者の方々を見受けないのは当然のことである。
なお、応神崩御403年の時点の年代のズレ(年代差)は、111年から18年減じた93年になるはずである
記載では、応神崩御310年で、復元では403年であるから、年代差は93年で、上記のとおりである。

応神即位381年の正しさ

仮説として、応神の即位年を381年と設定し、日本書紀の年代解読上の各種手法に当てはめてみれば、その正しさが分るであろう。
(例1)神武、崇神、応神の3天皇は神の文字が入っている。この3天皇の誕生年、即位年または崩御年には、神聖な「九九」の数字が入っている。神武誕生137年(七八56+九九81=137)、神武即位162年(九九81×2=162)、崇神崩御318年(二九=18)、応神誕生363年(七九=63)応神即位381年(九九=81)である。聖帝といわれる仁徳の崩御427年(三九=27)にも入っている。同じ「九九」でも、神武には2組、応神には1組である。しかし他の天皇には「九の段」はあっても「九九」は入っていない。応神天皇は、神武天皇に次いで重要視されていたのである。
注6)「九」は、「極まった数字」であり、「九九」は重節、重九である。

(例2)応神在位は381年から403年までの23年である。他方、仁徳天皇の在位は405年から42年までの23年であり、404年を基準にした23年のシンメトリックを形成する。
注7)本来年代については、神武暦およびニニギ暦を用いて説明しなければならないが、簡略化させてもらい、西暦で説明した。

日本書記の講義の締め括りの言葉

この講義を受けているあなたたち(皇子や貴族の子弟)は、これから国を動かしていく立場にある。従って正しい歴史と解読方法を教えたが、前に述べた理由(国威発揚と応神の正当性)から年代や年齢、文言など誇張して書かれている。あなたたちが知っていれば良く、国民に事実を知らせる必要はない。特に、正しい復元年代の解読方法は、他言無用である。」
というわけで、いつの間にか正しい解読方法は忘れられ、古事記及び日本書紀に記載された通りの内容が国内に広まった。

2009年7 月14日 (火)

応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族

仲哀天皇は「国内平定」派
仲哀天皇は372年13歳で即位した。仲哀天皇は父日本武尊の意思を継ぎ、「国内の版図拡大と国内の平定」を目論み、熊襲と戦った。それは、崇神天皇以来の三輪王朝の宿願であった。
372年には、百済からは、平和協定の印として、七枝刀が贈られた。仲哀天皇とその支持者は、半島との関わり合いには消極的で、まして半島への武力による進出には反対であった。
仲哀天皇は380年22歳のとき、記載によれば、「朕(われ)周望するに、海のみありて国なし」と言わせ、神の信託を信じなかったため殺されたという。反対派に殺害されたのであろう。その理由を、神功皇后という架空の人物を通して明らかにしている。「この国に勝りて宝ある国、海の向こうにある新羅の国、まばゆい金・銀・彩色その国にあり。神を祭るなら、その国かならず服するであろう」と、神に言わせている。
注1)上記に内容は記載に基づく。実際の復元年代からすれば、半島の事情も知っていたし、百済との関係も生まれている。

「半島への介入」派が勢力を持ち始める
崇神天皇から仲哀天皇までとは異なる考えを持った新しい勢力であり、応神天皇から始まる河内王朝の各天皇である。河内王朝は、国内に飽き足らず、半島に利権を求めた王朝である。どの程度のもくろみと勝算があったのか不明であるが、新羅のみならず高句麗を相手にしてまで戦ったことからすると、かなり強気の考え方を持っていた可能性がある。
半島への介入を実現させるには、反対勢力の仲哀天皇を亡きものにしなければならなかったのである。

幼少の仲哀天皇皇子も抹殺された
362年、仲哀天皇が殺害されたときには二人の皇子がいた。仲哀天皇が13歳と若くして即位した後、間もなく皇子が生まれたとしても、皇子らは10歳以下(8歳とか5歳)であったと推測される。香坂王(かごさかのみこ)は狩りに出て猪に食い殺されてしまった。残された忍熊王(おしくまのみこ)には、倉見別や五十狭茅宿禰らの支持者が付いていた。
日本書記の記載では、このとき、応神天皇は生まれたばかりであり、母親の神功皇后は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
以上が日本書紀に記載された内容(年齢を除く)である。復元年代を当てはめると、次のようになる。
応神は380年に18歳となっていた。応神を支持する側は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
仲哀天皇の一族を抹殺し終えた応神は、381年、19歳で天皇に即位した。応神紀には神功が摂政となったことは書かれていない。

神功皇后は「半島への介入」と「応神天皇の正当性」の代弁者
362年に、神功皇后が行ったとされる新羅征討(古事記)、三韓(新羅、高麗、百済)が日本に降伏する記事(日本書紀)は、年代として合致しない。現に、仲哀は380年まで存在し、神功の記事は仲哀崩御直後の362年の出来事として記したもので、年代的にもあり得ない。
日本書記の編者は、神功皇后に、応神天皇が行った新羅征討などの半島への介入に関する代弁者の役割を持たせた。神功の記事は、応神3年次、392年に記載された半島への武力進出の記事を30年間前倒しして、362年としたものである。
同時に、応神誕生から即位までの19年間が上記30年間の中に含まれていて、応神天皇誕生の正当性を持たせた。

2009年7 月13日 (月)

神功皇后の年代に関わる在位はゼロである

神功皇后の扱いについて、日本書紀は一巻を神功に充てている。特異なのは神功摂政元年と39年と崩御の69年に太歳干支が付けられていることである。また、神功については100歳(一百歳)で亡くなったこと以外に神功自身の年代に関する記載はない。
古事記は仲哀の一部として記載している。古事記が神功を無視しているわけではない。それどころか仲哀の記事の大半は神功と応神の誕生と太子に関する記事である。
現在、筆者は神功が存在しないという観点で古事記および日本書紀の復元年代を引き出した。その根拠は、「百増、百減の法則」に従えば、神功の一百歳から百を減じると、零または一しか残らないからである。零だとすれば神功の年代は無かった。一なら1年だけ摂政の位に就いたことになる。応神の即位の年代を181年と見ており、そのときの応神の年齢は19歳であるから摂政は不要であるし、応神紀には摂政の記事は存在しないため、1年の摂政もあり得ないとした。

太歳干支の異常さ
日本書紀における太歳の使い方も異常である。太歳は一般に即位年にのみ付されるが、神功においては摂政元年と中間の39年次と69年次の崩御年の3か所に太歳が付されている。太歳付与の解釈は次のとおりである。
太歳が付与された元年から69年次の崩御年まで、すなわち神功の69年のすべての年次が無いものであることを示している。
もう一つの太歳付与年である39年次は、記載年代が239年であり、魏志倭人伝の記事が記載されている。「魏志倭人伝を引用した記事の年代は、そのまま直読しなさい]という意味で、239年が最初の記事になるための注意を促す印であると考える。
注)その他の記事の年代は、記載年代に162年または120年を加算する。「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」に詳細を述べているので見ていただきたい。

神功皇后の存在についての疑問

当初、筆者は神功の存在について疑うこともなく、362年の新羅征討の根拠を示された学者の記事を評価した。しかし、神功の存在に疑問を持つと、摂政在位69年自体と362年の出来事も無理な解釈であると疑問を持つようになった。それらの疑問について述べてみる。

神功皇后はどの天皇の摂政か
一つは、神功には摂政という役を与えられている。決して天皇になったのではないし、卑弥呼のように女王になったのでもない。「摂政は天皇と同じ意味である]というような記事にお目にかかったことがあるが、それなら他の多くの女性天皇と同様に天皇とすればよい。神功紀として扱っているのは日本書紀で、古事記は仲哀紀の一部にすぎない。天皇である筈がない。
摂政というからには天皇が存在しなければならない。日本書紀の記事によれば、摂政になったとされる神功摂政元年の363年は仲哀が崩御した翌年であり、応神が生まれた年であって、天皇は存在しない。応神は神功3年の365年に太子となる。応神が胎内天皇と呼ばれたとしても、3歳になって立太子を行っていて、まだ天皇位には就いていない。胎内天皇なんて言葉に惑わされてはいけない。
従って、日本書記の摂政の記載は、天皇不在の架空の話に過ぎないのである。

天皇不在18年間の摂政はあり得ない
二つ目は、神功元年の363年に仲哀天皇の皇子である香坂王、忍熊王と争い、勝利して、摂政となったとされる。それならば、誕生したばかりの応神の摂政となるはずであるが、上記に記したように応神はまだ天皇にはなっていない。年代がずれていると考える必要がある。
復元年代では、363年は成務天皇の時代が始まったばかりの年代である。(成務在位359年~371年)
380年に仲哀が崩御した(殺害された)とき、応神も成長し18歳になっていた。仲哀崩御の翌年に応神は仲哀の皇子を殺害し、天皇になるのである。
前に述べたように、応神3歳までどころか18歳になるまで天皇不在のまま摂政がいるという矛盾した歴史が書かれていることになる。要するに神功の年代に関わる在位はゼロである。

新羅征討あるいは三韓征伐は、30年遡っている
三つ目は、神功皇后による362年の新羅征討あるいは三韓征伐を誇張するために記載された。広開土王碑に記録された新羅、高句麗との戦いは392年の出来事であり、応神が行った朝鮮への出兵である。392年の出来事を30年遡って記載したと考えることができる。
392年以降の数回の半島への出兵の中において、神功皇后のモデルとなる伝承があったのかもしれない。この点まで否定するつもりはない。

応神天皇の復元年代の根拠

もう一つの結論は、応神の在位41年に関してであるが、363年の誕生から41年目の403年が応神の崩御の年である。応神の即位や崩御の年齢は何ら記載されていない。上記の数字が正しいかどうかでではなく、編者が年代構成上からそのように設定したのである。
神功の69年の在位は、162年の年代差を持つ年代と120年の年代差を持つ年代に区分される。前者は201年から242年の42年間であり、後者は243年から269年の27年間である。
42年間は、応神在位41年間と崩御後の空位1年間を加えた年数である。従って神功の年代と162年差を持って重なり合い、応神崩御は403年と計算される。[241+162=403]
応神即位年の方は、41年の在位が二倍暦とすると、実在位は20.5年であり、383年となる。ただし復元年代では381年としている。(この年代の食い違いに関しては別途説明したい。)
120年の年代差を持つ27年分は、「神功皇后と応神の外交史」に記載したので見ていただきたい。

神功皇后は応神天皇の誕生年を伝える道具
神功皇后の摂政としての在位を9年や17年などとする見方がある。古事記の崩年干支と神功皇后の存在を信じれば、確かにそのように解読できる。神功が存在しないとするなら、これらの年数を他の天皇に割り振ることになる。年代としてはそれほど大きな変化ではない。垂仁と景行の年代は詰まった感じがするし、成務は国造関係の業績からすると7年では短すぎる。実際には、古事記崩年干支の年代から計算される在位に比較し、垂仁と景行で10年分、成務で8年分増加し、各天皇の在位は19年、21年、15年(日本書紀13年)となる。仲哀天皇の在位は7年(日本書紀9年)と応神天皇の在位年23年である。
要するに、神功皇后は、「応神天皇の誕生年を伝えるための出しに使われた」のである。

江戸時代末期に、国論は「攘夷」と「開国」の考え方に分かれ争われた。仲哀天皇(三輪王朝)と神功皇后(河内王朝)との関係は、「国内版図拡大・平定」と「半島への進出」の衝突である。これについては、改めて述べることとする。

2009年7 月 8日 (水)

日本武尊(倭建命)と仲哀天皇の年令を探る

日本武尊はどういう人物であろうか
以下に、日本武尊と皇子である仲哀天皇に関する復元年代について述べるが、先ず、「表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表」を見ていただきたい。
この「表107」は、「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に、日本武尊の年代を付加したものである。

表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表

日本武尊の復元年代では、329年、景行天皇15歳の時に生まれ、日本童男(小碓命)と呼ばれる。
景行27年次(復元7年次)344年、景行天皇の命を受けて、16歳で熊襲征伐に出る。熊曾武を討った時より日本武を名乗る。[「景行27年-16歳日本武」は重要なチェック事項である。年次表が正しいことを証明する事項であるから覚えておいてほしい。]
日本武尊は、景行28年次(8年次)345年、熊襲を平定して西国より帰国する。景行40年次(10年次)347年、19歳のとき再び天皇の命を受けて、東国平定(古事記では、東征)に向かう。景行41年次(11年次)348年に、東国から帰る途中、三重の能褒野(のぼの)において亡くなる。記載では30歳で亡くなったとする。
復元年代は、景行27年次と景行40年次の間に10年間延長が加えられており、これを減じると41年次に20歳で亡くなったことになる。日本武尊が30歳となる年代は、単純計算では51年次に相当するが、景行42年次からは9年間延長されているため、これを減じると、日本武尊は景行60年次に30歳となる。

日本武尊は、景行天皇の崩御の年に亡くなった
仮に、記載のとおり30歳で亡くなったとすると、復元年代は358年となり、景行天皇崩御の年と同年である。日本武尊が天皇であったという見方もあるようだが、このことから生じたのかも知れない。しかし、前述したように、日本武尊の誕生年は329年で、景行15歳の時に生まれたのである。太子であったと記載されているが、天皇であった根拠はないし、分身というのも当たらないようだ。
編者は、日本武尊がいつ生まれ、いつ亡くなったか分らなかったので、それならば、ということで、景行15歳の時に日本武尊が誕生したとし、景行崩御44歳のときに合わせて、日本武尊が30歳で亡くなったと設定したのである。
なお、「景行天皇と日本武尊の崩御を同年に設定した」ことには、編者の素晴らしい企み(数字のからくり)が秘められている。(後述する。)

仲哀天皇は、日本武尊が亡くなった翌年に誕生する
成務天皇の復元年代は、成務48年次、359年に即位し、成務60年次、371年に崩御された。仲哀天皇即位前紀には成務48年次に31歳で太子になったと記載する。
[「成務48-31歳仲哀立太子」も重要なチェック事項である。]
また、成務崩御のとき、仲哀は43歳であった。仲哀天皇の即位は44歳で、崩御は52歳、在位9年である。
仲哀天皇の復元年代では、仲哀9年380年に崩御した。「31歳の立太子」を「仲哀の誕生」に読み替えると、仲哀の誕生は359年となり、380年、22歳で崩御したことになる。
仲哀天皇の誕生した359年は、成務天皇即位年であって、景行天皇と日本武尊の崩御の翌年に相当する。日本武尊は1年違いで、すでに亡くなっていることになる。

日本武尊は亡くなり、仲哀天皇として復活する
ここで編者が考えた企みを見よう。
日本武尊は358年に30歳で亡くなったが、仲哀天皇が359年に31歳で引き継ぐ。記載には現れないが、仲哀天皇の誕生と日本武尊の誕生年は同年なのである。
さらに、記載上では仲哀は31歳で立太子となるが、復元においては、立太子は誕生を意味する。すなわち、「日本武尊の年代(および年齢)を仲哀天皇が引き継ぎ、併せて仲哀天皇の誕生として日本武尊は復活する。」日本武尊と仲哀とは同体の如く緊密に繋がっているのである。日本武尊の皇子が仲哀天皇であることは明瞭である。

似て非なること
日本武尊は死んで、血の繋がった皇子の仲哀が誕生する。日本武尊の復活である。
仲哀天皇が死んで、応神が誕生する。仲哀天皇は応神天皇に殺される。さらに仲哀の幼い皇子らも殺される。
日本書記は同じパターンが繰り返されることがあるが、「似て非なること」の代表例である。

諸説に対する見解
日本武尊や仲哀天皇に関しては、いろいろな説が見られる。
日本武尊は複数の人物を集合させた、という見解もある。数字から複数の人物を引き出すことはできない。決定的のおかしいのは、複数の人物の集合体から仲哀天皇が生まれたとでも言うのであろうか。それでも、複数の人物の業績を、日本武尊に集合させた、という意味なら納得できる。現に、東征の際には、吉備の武彦と大友武日連を従えている。

また、「日本書紀では、父日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然な証拠からも、仲哀天皇架空説は根強く言われている。」そうである。36年という数字から判断すると、記載年代の比較らしい。日本書記が大幅に年代延長していること、正しい判断には復元した年代で行うことを知らないとでもいうのであろうか。もっとも、「記載年代においても年代の整合性が採られているはず。」といいたい気持ちは、分らないわけではない。
しかし、「記載年代においても年代の整合性が採られていなければならない。」となり、突き詰めれば、「年代延長という嘘に合わせて、嘘をつき通せ」となってしまう。そこまで考えることでもなかろう。

2009年7 月 7日 (火)

開化天皇の年次表を解読する 

年代の解読を始めたばかりのことだが、開化の在位は、日本書紀に記載された年次60年から、1/2の30年や1/4の15年が推測できる。何しろ数字が限られているのだから、これ以上は解読できないのではないかと思っていた。多くの学者の方々の年代復元で神武即位が西暦100年以前にいくのも、開化の在位を二倍暦として30年と読むことが影響している。他人様の復元年代を批判するわけではない。実は、筆者もつい1か月前までは開化在位5年を主張していた。現在(2009年9月)は、在位8年に訂正している。
在位8年の根拠は、次の合成年次表「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」によるものである。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

開化16立太子は、「孝元22-16開化立太子」に基づく
「孝元22-16開化立太子」は、日本書紀に記載された重要なチェック事項である。合成年次表上で、上記の条件に合致する年代を探すことになる。この場合は、孝元の実年齢22歳と開化の実年齢16歳が一致する年代が選ばれた。
また、開化と崇神の関係は、「開化28-19崇神立太子」がチェック事項になっており、この関係式から二つの結果が得られる。「開化28年-崇神誕生」と「開化10-崇神誕生」である。
開化に戻ってチェックすると、開化28年の崇神の立太子年を誕生年と読み替えると、実年の崇神が誕生する。開化10年には、記載上の崇神が誕生する。

「開化5年次、孝元を陵に葬る」は、5年の年代延長がされている
崩御から陵に葬るまでの期間は、他の天皇の例から見て1年程度である。開化の場合は5年分が年代延長の一環として加えられている。5年分の修正を加えた場合の記載上の元年は、立太子年から始まっていることが分る。この場合の見掛け上の開化の在位は13年となるが、実在位は、上記5年分を差し引いた8年となる。
なお、孝元の場合にも「孝元6年次、孝霊を陵に葬る」の記載があるが、上記と同様に年代がずらされており、記載上の元年が立太子年から始まっている。

神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦
日本書記の記載は、神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦で記載されている。2倍暦で記載された期間(合計在位)は140年である。
この件については、別途詳細を述べているので省略する。
カテゴリ「倍暦(2倍暦、4倍暦)」の記事「日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察」などを参照してください

以前(2009年8月)の筆者の主張(従来、筆者が述べてきた記事である。)
即位前の神武天皇を引き継ぐ崇神天皇
あるとき、年次表を眺めていて、崇神の誕生年が開化10年であることに気付いた。開化の在位は9年分で、後の51年は崇神のための数字だったのだ。ここから、いろいろな数字が繋がった。御肇國天皇である崇神天皇が即位前の神武を引き継ぐには、神武と同様に52歳でなければならなかったのであり、そのために崇神の即位までの51年は重要な数字であった。編者は、どこかに紛れ込ませたのではなく、開化の本来の在位9年の後に堂々と51年を加えたのである。開化の在位は、実年で在位5年である。筆者はこの解読が正しいと信じているのだが、「編者が考えそうなこと」と「必ずキーとなるものが隠されている」がその理由である。多分まともな根拠でないと言われそうである。

開化天皇の在位5年の根拠
筆者の考える標準在位計算式では、開化在位5年[60/2-52/2+1=5年]となり、在位のあり方として典型的な構造をしている。この標準在位計算式で、崇神以前の天皇の在位は大半が計算できるのであるから、在位は5年で正しいとおもわれる。
合成年次表から読み取った開化即位年は、296年で修正値は297年、崩御年は300年で修正値は301年で、在位は5年である。