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2009年6 月30日 (火)

日本書紀に用いられた4倍暦の年代変換表

神武天皇から仁徳天皇までは、4倍暦を用いている。
復元年代は、計算式でいうと3種類ある。そのことを理解しないと正しい復元年代は得られない。「表105 4倍暦の年代変換表」を見てください。

表105 4倍暦の年代変換表

1) 神武天皇即位年BC660年を基準にした年代変換(神武暦を用いた年代変換)
開化から応神まで適用されている。
2) 神武天皇太歳干支付与年(東征開始年)BC667年を基準にした年代変換
仁徳のみ適用される。神武から始まる4倍暦の最後の天皇として、特別な扱いである。
3)上記2)から7年を引いた年代変換
神武、孝昭、孝安、孝霊の復元年代に用いられている。
BC667年を基準とした計算に対し、7年分を引いているため、基準年がBC660年になっているが、BC661~BC667年の7年間は実年(等倍暦)であり、計算内に7年を取り込んだ後で、7年を引くため1)のBC660年を基準とした変換とは異なる。

1)と2)とは、1.75年(2年)の年代差を有する。
1)と3)とは、5.25年(小数点の関係で、5年または6年)の年代差を有する。

なぜ、3種類も年代変換方法があるのか
開化以前と崇神以降の作成年代が違うため、基準の取り方が変わったことが考えられる。開化と崇神の接続が悪いのは、このためかもしれない。
実際に年次表から解読すると、開化天皇までは2倍暦を基本にし、それをn倍している。言い方を変えれば、n倍の部分を削除すると、有効年代は2倍暦になっている。即ち、記載された有効年代の2年分が実1年である。なお、神武天皇から開化天皇までの期間(空位年を含めた合計在位)は、n倍が2倍になっているから、2倍暦の2倍と考えてよい。従って、期間に関しては、4倍と見做せる。
崇神天皇の場合は、即位前までは、上記の手法に従っているが、即位302年以降は実年を4倍にしている。4倍は仁徳まで続く。
同じ4倍の表現となっても意味は全く異なる。その際に、4倍暦の基準の取り方が変わったと考えられるのである。
また、編者らはあらゆる面で一律で処理することを嫌っている。その表れと考えることができる。

年代変換の基準年?
年代変換表には基準年として、161.75年と161年の2通りを記した。計算上は161.75年が正しい。しかし、編者がそのように計算したかどうかを考えなければならない。
便宜的に、161年の計算を記したが、161年は実年で正しい年代である。この場合も小数点以下の処理に疑問が生じる。1年程度の誤差があると見なければならない。

4倍暦の利用の仕方
4倍暦は、期間の計算において有力であるが、年代との関係は問題が多い。3種類の年代変換方法があることも、どれが正しいか明確にできない原因になっている。
さらに、次の点は極めて重要である。
単純に計算された年代を用いたとは言い切れない。例えば、仁徳崩御の年代は計算上248年の可能性があるが、もともと正しい年代が分っていたかどうか疑問である。とすると、248年という数字は、凶に当たり、選択されることはない。247年が浮上するのは多分その辺の事情があるものと考えられる。要するに、4倍暦にしがみつくと誤る恐れがある。」

2009年6 月28日 (日)

「住吉大社神代記」の垂仁崩年干支「辛未」

「住吉大社神代記」は、天平3年(731年)に成立した書物である。成立の年代はもっと後であるとの見方もある。いずれにしても日本書紀より後にできた書物である。
この書物では、垂仁天皇の崩御に関して「崩御辛未、53歳」と記載されていて、特に崩御年の干支の扱いが問題視される。古代の天皇の在位や崩御年を示す具体的な情報であるため、年代復元をする上で、この問題の検討を避けることができない。
ちなみに、辛未の年は西暦311±60年(251年、311年、371年、431年)である。
崩年53歳は古事記の御年153歳から百を引くと53歳になり、古事記からの引用と見ることが可能であるが、崩年干支は古事記には記載されていないし、書記の「庚午」とも違う。
「崩御辛未、53歳」に対する考えが求められる。

筆者見解
「住吉大社神代記」の作者は、53歳を前提に、日本書紀の垂仁天皇の年次表から干支を読み取った。垂仁99年(139歳)は庚午である。しかし、垂仁宝算140歳の記載から見て、垂仁100年(140歳)があったはずであり、垂仁100年は辛未である。99年と100年は二倍暦で同年であり、庚午であり、そして辛未である。
日本書紀の編者は垂仁の崩年干支を「庚午」としたが、住吉大社神代記の作者は崩御100年(あるいは、140歳)を重視して秋年に当たる「辛未」を採用した。
補足説明:
・垂仁99年庚午と60年差の39年庚午は同年である。
・垂仁100年辛未と60年差の垂仁40年辛未と景行1年辛未は同年である。
上記の年次は、二倍暦を解消すると、全て同年である。[末尾9と0は同年を示す。]
従って、崩年干支は庚午と辛未のいずれも同じ年を表し、前者を春年とすれば後者は秋年である。(「春秋二倍暦説」と考えても良い。)

山崎氏の解釈
古田史学会報三十四号(1999年4月11日)に投稿された山崎仁礼男氏の『「住吉大社神代記」の垂仁没年辛未の年、在位五十三年の一つの解釈』である。記事は複雑なので要点のみとし、( )内は筆者が説明のため付け足した。

垂仁の在位年数53年の伝承があった。崇神没年の378年(60年差、318年戊寅)に53年を加えると431年(60年差、371年辛未)になり、住吉神代記の没年干支は辛未に一致する。」

なお、山崎氏の解釈では、満年齢の計算であって、疑問が残るが、崇神没年の翌年から計算したとすれば満年齢の問題は解消する。
山崎氏の解釈は、古事記の垂仁御年(1)53歳と崇神没年戊寅(318年および378年)の情報があって、始めて解読できる。

「住吉大社神代記」の編者は、古事記の情報を知っていた
「住吉大社神代記」の作者は古事記を見て崩年53歳を知り、日本書記の年次表を見て、崩年干支「辛未」にたどり着いた。あるいは、山崎氏の解釈のとおり、古事記の崇神没年戊寅から「辛未」にたどり着いた。
「住吉大社神代記」は天地開闢の造化神を『日本書紀』の国常立神とせずに、『古事記』と同じ天御中主尊(アメノミナカヌシノカミ)としている。
また、古事記に記載された御年は、他の資料には見られない特異な数字である。筆者の解読からも御年が年齢を表しているとは思えない。それだけに古事記以外に、崩年53歳の情報があったとは思えない。

『古事記』はなくても、『古事記の情報』は存在した
古事記は100年間、公開されなかったという見解がある。「住吉大社神代記」の作者は古事記の内容をどのようにして知ることができたのか。
筆者の推測としては、『古事記の情報』は、100年間眠っていたわけではなく、日本書紀とほぼ同じ頃には既にあった情報と考える。現存する『古事記』と『古事記の情報』とは別である。現存する『古事記』は『古事記の情報』を取り込んでいて、書物として知られるようになったのが100年後であったのである。
「住吉大社神代記」の成立時期の解釈にも問題があるようだが、「住吉大社神代記」の編者は『古事記の情報』を知ることができたと考える。

不思議なのは、「住吉大社神代記」の編者は、日本書記および古事記の編者が知っていた正しい情報(垂仁崩御39歳、西暦337年丁酉)については知らなかったことを示している。それとも、知っていて記紀の編者と同様に隠したのか、謎である。

「住吉大社神代記」の編者は、誕生から崩御までを在位とした
垂仁の年代解読において、垂仁25年即位、39年崩御と考え、在位15年としたことは旧ブログの「干支から垂仁天皇の在位を解読する」に述べたとおりである。現在では新しい復元年代に変わっているが、この読み方による復元年代は、垂仁崩御西暦333年、在位15年であり、古事記の崩年干支の穴(垂仁には崩年干支の記載がない)を埋めるものとしてとらえている。
またこの結果は、垂仁の年次表の干支に従って在位を求めたもので、二倍暦を解消した実年の数字である。仮に二倍暦で見ると、垂仁25歳即位、53歳崩御で、在位は29年(二倍暦解消で15年)となる。
崇神没年を318年(戊寅)から垂仁即位年を319年とし、在位15年とした333年の干支は癸巳で、辛未にはならない。ところが319年を垂仁誕生1歳とし、垂仁53歳で崩御されたとすると、年代は371年、辛未となる。即ち、この考えは、実際の在位そのものではなく、誕生から崩御までの年齢を在位と見做した結果である。

「住吉大社神代記」の編者は、日本書紀の在位の考え方を踏襲した
当然、このような在位の見方は正しくはない。しかし、日本書紀においては、多くの天皇の在位を、誕生から崩御までの年齢を在位とみなして記載しているのである。そのことを考えれば異常として、退けてしまうのは間違いである。「住吉大社神代記」も日本書記の記載方法を踏襲したと考えても不思議ではない。

2009年6 月27日 (土)

崇神天皇の年次表を解読する

「表20 崇神の年次表の解読」および「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を見てください。細かい点は、年次表の下に注および説明を書いているので読めば分かるはずである。

表20 崇神の年次表の解読

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

崇神天皇崩御318年の根拠

神武即位BC660年から、開化崩御BC98年までは、563年(神武暦563年)である。4倍暦とすると、140.75年に相当する。
神武即位の復元年代は、西暦162年であり、開化崩御の復元年代は301.75年となる。切り捨てて、301年である。
同様に崇神の崩御年を計算すると、631年(神武暦)は157.75年となり、復元年代は318.75年となる。切り捨てて318年である。

「古事記の崇神に記載の「十二月」の意味(Ⅱ)」において、「崇神崩御318年の根拠」を述べたが、ポイントは次のとおりである。
神武は39歳で崩御した。「39年」は重要な数字であった。39年を四倍暦にした156年を用いて崇神の年代にした。即ち、神武即位162年を基準年として、崇神崩御を156年(「39年の4倍」)後の318年とした。[162+156=318]
古事記では、崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。168と12は本来一つの数字であり、168から12を引くと156になる。崇神崩御の年代は、[神武即位年162+崇神御年168-「月日」12=318年]で示される。

崇神天皇の在位

崇神の年次表について述べておく。
崇神17年の記事は、「始めて船を造る」と記載する。船は葬送用の船である。崇神17年が在位17年を示唆する。

年次は68年であるから、4倍暦であることを示す。
復元在位は17年に基づき、崇神崩御318年から逆算すれば、開化崩御は301年になる。

崇神天皇の記載年代の倍暦
崇神の即位前の記載年代は、(春秋)2倍暦で作られている。神武即位年から301年までは2倍暦を基本にしている。厳密にいえば「n×二倍暦」である。従って、開化天皇の場合は、崩御年が301年であり、完全に2倍暦の範囲に入っている。
注1)ここでいう2倍暦とは、実1年が記載上2年になっていることを指す。
崇神即位302年以降は、等倍暦を基本としているが、全体的にみれば4倍である。(春秋)2倍暦ではない。
神武天皇の場合に、即位前と即位後で倍暦が異なったが、崇神天皇の場合も同じである。(ただし、用いられた倍暦は異なる)

崇神の年齢は、崩御34歳ではなく、36歳である
崇神立太子19歳と記載されているが、翌年20歳とうまくかみ合う。結果として崩御は36歳となる。崇神の年代が4倍暦でできているとして、崇神の崩御を34歳とすると、即位してから立太子をしたことになってしまう。4倍暦が適用されるのは在位に関してである。

崇神天皇の年次表の問題点
日本書記の記載上の問題点に関して、「表20 崇神の年次表の解読」の注4に記載した。
日本書紀では、崇神崩御年齢は120歳と記載されている。しかし、[開化28-崇神19立太子]を基準に年次表を確認すると、崇神即位52歳(実20歳)、崩御119歳(実36歳)となり、崩御年齢は1歳食い違う。
崩御120歳では年数が1年不足しており、記載上に何らかの問題があったものと考える。
さらに、崩御120歳および立太子19歳の場合を求めようとすると、立太子年(誕生年)の設定を変えなければならない。その場合でも在位68年を変えないとすれば、4倍暦で実在位17年も変わらない。

神功皇后は女王卑弥呼ではない

神功皇后が卑弥呼である、という主張は昔からあるようだ。神功皇后の記事に卑弥呼の朝貢の記事があるためである。記事を読むと、神功が卑弥呼であるというより、「魏志倭人伝に倭の女王が魏に大夫難斗米らを遣わすという記事がある。」という他人事のように書かれている。さらに、266年の朝貢は、卑弥呼が死んだ後の年代で、壹与の朝貢と考えられる記事も記載している。要するに、卑弥呼と壹与を区別していない。従って、記事からは神功が卑弥呼を想定したとは全くいえない。神功の年代も300年代後半であるから、当然である。

神功崩御の月日は卑弥呼が死んだ年

さらに記事をよく読むと、266年の次の269年(神功紀としては最後の年)の記事に、神功が100歳で崩御したと記載しているが、その月日は4月17日となっている。
4月17日は、(四月十七日→四十七年)で、247年を意味し、卑弥呼の死んだとされる年である。神功紀には、魏志倭人伝の「卑弥呼死す」の247年に記事がないのは、神功の崩御に合わせて、卑弥呼の死んだ年を記載した、と考えることができるし、2度も死なすわけにはいかなかったのであろう。
また、神功皇后を記載年代の247年に亡くなったとしなかったのは、前述したとおり、「神功皇后は卑弥呼ではない」からであるが、まだ248年以降269年までの出来事を書くために生きていてもらわなければ困るのである。
編者は、数字遊びを楽しんでいるのだ。「月日は正しい」なんて主張する人に対しては、間違いなくおちょくっている。

筆者は、孝昭・孝安の年代が、卑弥呼の年代と一致するという考えを持っている。魏志倭人伝に記載された通り247年に卑弥呼が死んだとして、孝昭即位の196年に卑弥呼が壹与と同じ13歳で女王になったと仮定すると、卑弥呼は64歳で亡くなったことになる。
同様に、孝安即位223年の場合を計算すると、卑弥呼は37歳で亡くなったことになる。
魏志倭人伝には、「年巳長大(年すでに長大)というのだから、卑弥呼が196年に女王になった推測できる。

また、魏志倭人伝では卑弥呼の朝貢が景初2年(238年)にあったと記載されているが、実際には239年ではないかとの考え方が存在する。神功皇后の年次から卑弥呼の最初の朝貢が239年にあったことが分かる。他方で、崇神7~10年次の年代解読では最初の朝貢は238年になっている。編者の見解も割れていたのかもしれないが、239年という数字があることは、景初3年(239年)が正しいということを示唆していると考えてよさそうである。

2009年6 月26日 (金)

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅱ)

投稿済みの同名記事(Ⅰ)において「十二月」は「+2年(2年を加えなさい)」の意味であると述べた。「十二月」の意味はそれだけではない。さらに重要なことが「十二月」に秘められているので、引き続き述べる。

古事記では崇神崩御年が干支で示された最初の天皇であり、その干支によって西暦318年を知ることになる。では古事記の編者は、何を根拠にその年代を特定したのであろうか。古事記の編者にしても何も根拠のない年代を適当に決めたわけではないだろう。多分このあたりの年代だろうと推定して年代を決めようとしたのは当然である。実際に、編者が年代を決めるために行った方法について述べる。

崇神は、神武から逃れられない
日本書紀は、神武から始まる年代は四倍暦(厳密には、2×二倍暦)で書かれている。そして始馭天下之天皇である神武の特性が神武~開化の年代の選定に反映されている。二人目の御肇國天皇である崇神天皇において初めて神武とは関わりのない記述になるはずと思われる。しかしそのようには成り切れず、崇神においても神武から逃れられないことがあった。それが崇神の年代である。

崇神崩御318年の根拠

神武は39歳で崩御した。編者にとって、「39年」は重要な数字であった。39年を四倍(暦)にした156年を崇神の年代にしたのである。実際には神武即位162年に156年を加えた318年を崇神の崩御年に選定したのである。言い換えれば、神武即位162年を基準として、崇神崩御を156年(「39の4倍」)後の318年とした。。[162+39×4=318

では、古事記の「十二月」はどのような関係にあるかであるが、古事記の崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。168と12は本来一つの数字であり、168から12を引かなければならない。答は156[168-12=156]となり、上記に説明した156年である。即ち、「十二月」は「-12年(12年を引きなさい)」の意味である。
繰り返しになるが、崇神の崩御の年代は、[神武即位年162+崇神御年168-「月日」12=318年]で示される。

学者の中に、崇神崩御の年代に干支258年や318年以外とする見解が見られるが、編者がなぜその年代を選定したか、説明が全くない。編者は、318年以外の年代は想定していないのであるから、説明できるはずがない。
勘ぐれば、倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼か壹与にしたいためである。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼が仮託されているのが分らないのだ。卑弥呼と壹与は別にいる。
筆者の「卑弥呼と壹与」に関する記事を読んでいただきたい。

崩年干支が記載されない垂仁と景行の復元年代
次に、三つ目の「十二月」の意味を述べる。
古事記の崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。
「十二月」とは、「+12(12を加えなさい)」の意味である。何に12を加えるのかというと、御年の168である。そうすると180が得られる。
180という数字も重要な数字である。元々180という数字は日本書紀のニニギ降臨の暗号「179万2470余年」を解読すると得られる840に由来する。神武暦紀元前840年はニニギ暦(西暦)180年であり、この180年と共通の180年である。開化までの年代の復元において、基準年として137年が用いられたが、同様に基準年として180年が用いられたとしても不思議ではないのである。
古事記においては、崇神には崩年干支があり、年代が読める。しかし、垂仁と景行には崩年干支が記載されていないため年代が不明である。これらの年代は、崇神の崩年318年と成務の崩年355年の間にあることが分かるだけである。
解読は次のようにすればよい。
①崇神の御年は168歳(年)であり、180年(168+12=180)を加えると348年となる。348年が景行の崩御年である。
②垂仁の御年は153年であり、180年を加えると333年となる。333年が垂仁の崩御年である。
①②の年代を古事記の崩年干支の読み取り年代の空白に加えると、垂仁在位は15年、景行在位15年が得られる。

上記の復元年代は、崩年干支が空白の垂仁と景行の復元年代である。編者は用意周到である。そのような要求に応えるために、編者は、「遊び心」を持って、予め用意した。
しかし、崩年干支から読み取った年代は破綻を来している。上記の結果も同様の運命にある。
古事記の正しい復元年代は、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を参照いただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅰ)

崇神の崩御に関して、古事記では戊寅の年の「十二月」と記されている。日本書記では六十八年の冬十二月の戊申の朔壬子(五日)とある。
年が食い違っていることは、ここでは問題としない。月日の食い違いである。古事記は十二月とし、日本書紀は十二月五日とする点である。

日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味
まず、日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味を述べておく。
日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」が正しい月日であるはずがない。年代ですら疑問なのに、まして月日など分からないのであり、編者の創作である。「十二月五日」は、「月日の暗号」であり、崇神の在位17年[12+5=17]を意味する。

古事記の崇神に記載された「十二月」を解読する
本題の古事記の「十二月」について述べる。
学者は、単純に古事記が月までしか書かなかった、というかも知れない。古事記を出鱈目という方々は、日本書紀を写しただけ、というだろう。いい加減にしろといいたいが、筆者にも分からないことがあるので遠慮しておこう。
古事記が「十二月」としか書かなかった理由はもっと別のところにあるはず。敢えて、古事記の編者が「十二月」と記載したのは、古事記の編者が日本書紀の内容を知っていて、何らかの意味を「十二月」に付与したと考える。以下に解読結果を紹介する。

「十二月」は、「プラス2年(2年加算しなさい)」の意味
古事記の解読に関しては、「表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)」において述べており、開化の崩御年を次のように計算する。
開化崩御301年[(137+163-1)+2=301]
上記計算式の、137年は神武の御年137歳から解読された年代である。
163年は、開化の御年63歳に100年を加算した163年である。筆者は「百増」と呼ぶが、年代を100年以上を補正する場合の編者のルールである。孝元においてもこのルールが用いられている。
計算式の最後の2年の加算が、「十二月」から導き出された「プラス2年(2年加算しなさい)」である。

2年の加算の理由について
筆者は当初から(旧ブログにおいて)、日本書紀における開化と崇神の年代は在位との関係において、年代が不足していると述べてきた。その後、年代の食い違いは、2年とした。従って、不足している2年分を補正しなさいという意味でとらえてきた。
しかし、さらに解読が進み、日本書記の復元年代は、開化301年が得られるようになった。
年代の不足は生じていない状態になった。
2年不足していたと考えていたときは、その不足を補うためと説明ができた。現状ではその理由もなくなり、2年加算の根拠は分らなくなってしまった。

開化の宝算の数字はバラバラである
古事記の開化の御年は63歳(宝算114歳)であり、日本書紀の60歳(宝算111歳)に比して3歳大きい。一云には宝算115歳の例が記載されている。仮に2年不足しているのであれば、開化の御年を63歳に固守せずに、65歳にしさえすれば、何も問題はなくなるはずである。63歳にそれほどの根拠があると思えないからである。
ただし、古事記の解読からは、「御年は年齢ではない」としている。暗号であるとすれば、開化崩御年は、「御年63歳」と「十二月」の組み合わせとして設定された、と考えられる。

つづく

日本における暗号の歴史

「日本書記」(撰上720年)や「古事記」には、暗号が記載されている。
古代を知るためには、年代の復元が必要であるが、暗号は正しい年代を示唆してくれるはずである。
にもかかわらず、その後の人々は暗号の存在を忘れ、その意味を理解できなくなり、結果として年代解読ができなくなってしまった。なぜなのかを考えてみたくなり、「日本における暗号の歴史」を見たくなった。内容としては、暗号に詳しい方々の個別の記事をまとめたものである。時代とともに、暗号に対する認識が変わってしまったようである。

1)宗教関係と歴史書関係の暗号

原始仏教の経典とされる長阿含経は、地獄を描いている。兜率天の地獄から転生するには、852兆6400年を経たないとできない、という。最も巨大な数字は、5京3084兆1600年である。(筆者の計算では、兜率天の数字は852兆6400万年となる。上記の数字は「万」が抜けている。)

7世紀に日本に伝わった仏教では、仏を億万年という巨大な数字で表す。例えば、弥勒菩薩は釈迦の入滅後56億7000万年(または57億6000万年)の後にこの世に現れるという。現在は、兜率天で修行しているといわれる。同じ兜率天であっても浄土と上記の地獄との違いか、計算要素の一部をカットしたため、数字は小さくなっている。巨大であるがゆえに、神聖な数字として通用したのであろう。

8世紀になると、国の正史と云われる日本書紀が編纂され、ニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」が示される。この時代には、暗号の重要性や役割が十分理解されていた。先祖が超越した力を持っていたことを表現するには、神に祭り上げることが必要であり、その際に用いる数値は、百万年の大きさである。神聖を表すために大きな数字を用いるのは従来どおりであるが、その数字の意味を暗号化によって説明を不要にした。「179万2470余歳」はそのような数字である。暗号としては、「神聖な数字を示し、示された数字を加算して総数を求め、隠された意味を探す。」という古代より世界中で用いられた暗号である。この場合の隠された意味とは、正しい年代である。
「179万2470余歳」は、先代旧事本紀にも記載されている。

日本書紀の記載内容が歴史となって定着してくると、記載内容に不満や欲が出てくる。先祖の記述が抜けていると気がつけば、新たな書物を著作しその穴を埋めようとする。
そのような書物に「古事記」がある。数字はすべて年代を示す暗号である。古事記は日本書紀より100年ほど後に出現した書物であるが、古事記の著者は日本書紀の年代のからくりを知っていたが、是正するというより、追従を選択した。しかし、神聖を表す大きな数字はなく、御年137年(日本書紀の179万2470歳に相当する。)という現実的な数字に近づいた。復元年代は、日本書記とほとんど変わらない。用いられた暗号は、独りよがりな、正解が分かりにくい暗号である。「神聖な数字を示し、示された数字を加算して総数を求め、隠された意味を探す。」という意味では、日本書紀の暗号と同じである。

13世紀に作られた「倭姫命世記」は神道書である。日本書紀の撰上から約500年を経た後の書物であるが、著作の中に日本書記と同じ暗号を引用した。著者も暗号の意味を理解でき、暗号の重要性を認識していたのであろう。
ここでは、日本書紀が作り上げてくれた神話を守る立場にいる、と同時に自らの存在をさらに強化する目的を持っている。「倭姫命世記」は、日本書紀に抜けているニニギ、ホホデミ、ウガヤの年代を神武以前に上乗せしたのである。用いられた暗号は、日本書紀の踏襲である。
その後の歴史本に関しては、「ほつまつたゑ」など、暗号を用いる例も見られる。
暗号としての進歩はほとんどないか、暗号を用いなくなる。

2)宮廷歌謡や庶民文化の暗号

8世紀後半、万葉集の巻十一 2542番の和歌は、「若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国(わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに)」で、当時の知識階級なら八十一を九九と理解できたらしい。換字式(かえじしき)暗号である。
9世紀には、宮廷人を中心に多くの書物が作られるが、歌謡には宮廷文化を反映した「沓冠(くつかむり)」という暗号が用いられる。
の例として、紀貫之の「古今和歌集」巻4に「小倉山 峯立ち鳴らし なく鹿の へにけむ秋を しる人ぞなき」という和歌があるが、各句の初めに「おみなへし」が隠されている。分置式の暗号である。8~9世紀の宮廷人は、九九に見られるように知識をひけらかしながら、上品さを保つ。暗号は高級な遊びの道具として扱われる。

「いろは歌」(10世紀末~11世紀中葉の作)も「沓冠」である。七文字ごとの区切りの文字を読むと「とか(が)なくてしす(咎無くて死す)」となり、作者が埋め込んだ暗号と看做されている。別に、柿本人麻呂を作者とする暗号説もあるが、通俗扱いされている。

江戸時代になると、文化は庶民のものとなっていく。歌謡に用いられた暗号は、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」や芭蕉の「奥の細道」に繋がる。
「仮名手本忠臣蔵」では、浪士たちが、討入りに尽力した堺の商人天川屋義平の「天」と「川」を合言葉とし、味方か敵かを判断した。後にこれが「山」「川」というように誤り伝えられたとされる。
「奥の細道」は、多くの謎を含んでいるとされる。芭蕉にも忍者・隠密説があるが、まだこれらの問題が十分解明されていない。

合い言葉や符牒(符丁)は、商業が発展すると、同じ仲間にしか分からない隠語として様々な分野(市場における商取引など)において用いられ、広がった。
これらの暗号は、幼稚な数字の組み合わせや言葉の置き換えであったことから、低俗なものと看做される。

3)国家機密や軍事関係の暗号

日本書紀巻3神武天皇元年の記事に、「道臣命は、神武天皇の密命を受けて、倒語(敵にわからせず、味方にだけ通じるように定めた言葉)をもって、わざわいを払いのぞいた。」とある。暗号の意味で、「倒語(さかしまごと)」が用いられた。

割符(さいふ/わっぷ)は、中世日本において遠隔地間の金銭取引などの決済のために用いられた。室町時代には勘合貿易で正規の貿易船である証として利用された。
時代が下ると、割符を用いた取引が、闇取引や犯罪と結びつけられるようになる。

戦国時代には、兵法が重要になる。上杉謙信の軍師が著した兵法書に「字変四八の奥儀」があり、暗号の作り方を示している。「換字式暗号」とよばれるもので、古代の代表的な暗号である。

BAMBOO COMICS 実録忍者列伝によると、風魔衆は「立ち選【すぐ】り居選り」という合言葉を用いていた。「風」といったら立ち上がり、「雲」といったら座るという合言葉である。これで武田の間者はあぶりだされたという。(?)

1905年、日本海海戦は、日露戦争中に日本とロシア帝国との間で戦われた海戦である。
連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した。実際の電文は「(アテヨイカヌ)ミユトノケイホウニセツシ(ノレツヲハイ)タダチニ(ヨシス)コレヲ(ワケフウメル)セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」で、暗号と平文の混じった不思議な電文である。平文の個所は、暗号ではないが、関係者なら理解できるとされる。推測として、海が荒れて計画していた水雷作戦が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意味とも云われている。戦後になると、「敵艦隊見ユ・・・・。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、暗号から離れ、文学上の名文とされてしまう。
また、連合艦隊旗艦「三笠」はZ旗を掲揚した。この時の信号簿では、Z旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。

太平洋戦争直前からは、通信が傍聴されるため、暗号が必要とされた。
1937年 、暗号機が完成。日本海軍は九七式印字機、外務省は暗号機B型と命名する。
1939年 、パープル暗号は重要な海外公館であるワシントン、ベルリン、ロンドン、パリ、モスクワ、上海、北京等で運用を開始する。パープル暗号(PURPLE)とは、1937年から敗戦まで日本の外務省が使用していた暗号機B型による外交暗号に対してアメリカ軍がつけたコードネームである。
1941年 、アメリカ陸軍はパープルの模造機を完成。1941年だけで227通のうち223通の解読に成功したといわれる。これ以降、国家機密や軍事情報は米国に筒抜け状態となる。
1941年4月、大島駐独大使はドイツから「駐米大使宛の外交暗号がアメリカ国務省に解読されている」と警告を受ける。しかし、何ら対策を講じなかった。情報の重要性及び情報伝達における暗号の役割を全く理解していなかったのだ。
1941年12月、日本海軍が真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。その際、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交した。「日本によるだまし討ち」は、アメリカの世論を動かすのである。
また、アメリカは外務省より最後通牒を手渡される30分前には全文の解読を済ませていたことが明らかになっている。これがアメリカ側による「真珠湾攻撃謀略説」である。
1942年6月、ミッドウェー海戦は、日本海軍主力機動部隊による奇襲作戦であった。作戦は失敗し、暗号解読により手の内を知ったアメリカ海軍の奇襲攻撃を受け、虎の子の空母4隻、全ての艦載機、優秀な人材を失った。開戦から僅か7カ月であり、これ以降は消耗戦に突入する。

4)現代の暗号と古代史の関係

暗号が復活した時代である。暗号は身の回りにあふれている。
金融機関で僅かなお金を動かすにも暗号が必要である。しかし、多くの人にとって、暗号という認識は薄く、暗証番号に生年月日や住所を用いる。
推理小説など文学作品、あるいは推理ドラマにも、暗号が取り込まれていて、解き明かされる様子を楽しんでいる。

しかし、日本書紀に記載されている暗号は相変わらず無視されている。暗号の歴史を調べ、書いてくれているのは、コンピュータ関係や無線関係の人、その他さまざまな分野の方たちで、必ずしも記紀の年代解読に関わるわけではない。年代復元に関わる学者の多くは、暗号の歴史に疎く、暗号が重要であるという認識が薄いのである。

2009年6 月24日 (水)

悩み再燃・・・「記紀復元年代の整理直後の新発見」

旧ブログの記事は、古い情報と新しい情報が混じって手に負えなくなっていた。
この新ブログは、それらの混乱を直す良いチャンスと考え、文面をチェックしたうえで準備し、投稿を始めた。
そんなときに、「248年孝安崩御、249年孝霊即位」の新発見があった。気付いてから確定させるためにかなり日数が取られ、関係する記事のデータや文面の訂正に追われる羽目になってしまった。関係記事は、復元年代や卑弥呼・壹与の記事だけではない。倍暦や暗号など多くのカテゴリに関係記事がある。

「新発見→まとめ→整理→新発見→まとめ→整理」が続くものと思っている。それを繰り返すことで、より正しい復元が可能になる。本来喜ぶべきことなのであるが、記事が多くなってしまったことによる訂正の作業が重荷になりかけている。新しいブログで悩み解消と思っていたが、早々と悩み再燃である。

未発見の「からくり」
思うに、神武には複数のからくりが発見されている。復元年代の基準になるだけに重要なからくりである。今回発見したのは、「孝」一族のからくりである。崇神には2年の小さなからくりがあると思っているが開化の年代次第である。神功と応神のとんでもないからくりも見破った。神功に関係する形で垂仁から成務、仲哀の年代も見えてきた。
そのように見ると、情報の多い垂仁と景行にもう一つからくりがあってもよさそうだし、まだ明確なからくりが見えない仁徳以降に、複数のからくりがあってもよさそうに思われる。
日本書紀は十数人が二十数年かけて作り上げてきたとすると、日本書紀の年代解読は、容易にできるものではないということか。

2009年6 月21日 (日)

推古天皇の年代解読・・・「月日の読み方は笑える」

記紀の年代解読を振り返ってみて、気付くことがいろいろとある。
先ず、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

古事記の編者は、結構面白い性格の持ち主である。古事記の最後の方の4人の天皇、敏達、用明、崇峻、推古の年代を「治天下年数」と「月日」から解読して見た。と言っても、在位と正しい年代は干支から分かっているのだから、逆算すれば、月日がどのような根拠から作られたかが分かるのである。
解読の結果は、治天下年数と月日の数字がニニギ暦(西暦)の年代を示すために用意されたものであった。誰か一人の天皇の解読であれば、解読方法が疑われるが、連続した4人の解読結果が、解読の正しさを示している。
結論をいえば、「月日」は創作なのである。「これを見てくれ」とばかりに、「掛け算」を使ったりして、自慢している。編者らは古事記の編纂を楽しみながらやっていたのであろう。
では、日本書記の崩御の月日が正しいかといえば、古事記と同じである。推古の3月7日は、「37」が大好きな編者が、推古に捧げた数字である。
それなのに、上記の年月日が陰暦だから、太陽暦に直すと○月△日であるなどと百科事典にまで載ってしまうと、編者らも笑いが止まらないだろう。

悩みの種・・・「記紀の年代解読における1年の誤差」

筆者の復元年代は、他の学者の方々の復元年代とは違うようである。筆者の復元年代、例えば神武天皇誕生西暦137年、神武天皇即位162年は確かであるが、復元年代全体が完璧であるというつもりではない。
神武の復元年代が食い違うのは、他の方々の復元年代が間違っているためにすぎない。筆者の復元年代は日本書記においても、古事記においても、暗号の解読結果に基づくものである。その点から特異なものと見做される恐れがあるが、特異とされること自体が、記紀の年代解読の進め方を間違えた結果生まれたものである。しかも、記紀の年代を復元するのに100年以上かかっても出来ないのはなぜなのかが分かっていないのだから、そこが治らない限りどうにもならない。
実際に復元年代を得るためには、年次表の解読やその他種々の方法を用いて行っている。
記事を読んでもらえば分かることである。

旧ブログの過去の記事をみると、「1年合わない」、「1年狂いがありそう」というような記事が多く載っている。過去の話ではなく、現在でも同じである。
例えば、懿徳の崩御後の1年の空位年であるが、復元年代として懿徳側にあるのか、孝昭側にあるのかわからない。たまたま、この場合は復元年代に関係しないが、記載上のシンメトリックでは懿徳側にあるが、解読では孝昭側にきている。多分どこかに間違いがあると思っているが、解決できないでいる。
記載上の1年は、4倍暦なら実0.25年であるから気にしなくてよいが、復元年代に変換するときに、小数点以下の数字は厄介である。切り下げか、切り上げか、本当のところが分らないからである。「1年」に、いつも悩まされ続けている。
上記に述べた、他の方々とは復元年代が10年以上離れていて、気分的に楽だが、もし1年違いであったなら気が滅入るであろう。161年を神武即位年と仮定した場合、辛酉の年でなかったのは幸いである。