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2009年8 月24日 (月)

「古代天皇長寿の謎」(著者貝田禎造、六興出版)の功罪

記紀の年代復元に関する学者の見解の中に、よく引用される本に「古代天皇長寿の謎」(著者貝田禎造、昭和60年12月15日、六興出版)がある。
どんなものかと思い、古本屋から購入して見た。「古代天皇長寿の謎」という題名から、古代天皇の年齢に関して何らかの示唆があるものと考えていたが、年齢については何も示していない。だまされたような気がしたが、帯に長寿の<意味>とあるので、早合点であった。しかし、年齢に全く触れていない点は残念である。

実証的な取り組みによる倍暦の発見
副題に「日本書記の暦を解く」とあり、こちらの方は日本書紀に記載された「月日」に関する情報をよく整理されていて、4倍暦と2倍暦の根拠が示されている。
日本書記に記載された「月日」を解析され、暦が倍暦からなることを解いている。従来にない実証的な取り組みの結果から導き出された「倍暦」の発見であった。このため、多くの学者が引用し、日本書記の年代解読に大きな影響力を持ったようである。
筆者も倍暦に関して余りくどくど説明しなくて済むのも、このような書物のお陰と思っている。

「古代天皇長寿の謎」の功罪
「古代天皇長寿の謎」の記述内容には正しいことと誤りが混在している。誰しも、優れた発見をしたとしても、発見したことを基本にして応用・拡張などをしていくと、応用・拡張の仕方によっては、誤りが生じることがある。「古代天皇長寿の謎」も同様で、上記に述べた暦の倍暦に関しては優れた発見であった。しかし、4倍暦にあって各天皇の倍暦を一律で扱ったこと、2倍暦が適用される天皇を見誤ったことなどから、倍暦に基づき算出された復元年代は大きな過ちを犯すこととなった。
このようなことは、貝田氏に限らず多くの学者に見られることであり、正しい部分を評価し、誤った部分を明らかにし、課題として捉え解決に努めればよいことである。

「古代天皇長寿の謎」の罪は、利用する側にある
筆者が「古代天皇長寿の謎」の功罪と表現する「罪」の部分は、貝田氏に対してではなく、著名な歴史学者を含め、多くの学者が誤りを含んだ復元年代を無造作に利用していることに対してである。貝田氏は素直な性格の方のようで、いくつかの疑問(神武の在位年数、応神以降の十数年の誤り)を示しているのであるから、くみ取らなければならない。

「古代天皇長寿の謎」(六興出版)が発行されたのは1985年である。それ以前に、日本書記の解読に関して何が公知であったか、筆者は勉強不足でよく分らない。
「古代天皇長寿の謎」には、「月日」を解析以外に、いくつかの先見性あるいは新しい発想と呼んでもよいことが記されている。

統計的手法と平均在位年数の活用の先駆者?
貝田氏は、日本書記の年代の延長の始まりを、雄略天皇崩御年に置いた。その根拠として、鳥羽天皇から75天皇の代数と年代を用い、年代延長の有無を探っている。それには検定などの統計的手法を活用されている。さらに、新羅、高句麗の王一代の平均在位年数12.54年を導き出して比較検討されている。
貝田氏は、天皇一代の平均在位年数の活用している。貝田氏が初めて行ったことかどうか知らないが、少なくとも解析方法として、1985年には公知の事実である。

神武天皇~仁徳天皇は4倍暦
貝田氏は月日の解読結果から、(A)「仁徳までの各天皇の在位が4倍になっている」ことを明らかにした。さらに、履中から雄略までの在位が2倍になっているとした。
貝田氏は、上記の根拠として、(B)「1年の半年の1トシとして、1年を2トシからなること、1月の半分の15日を1ツキとして、1月が2ツキからなること、を組み合わせて、1年が4倍あるいは2倍に延ばされている」とした。
しかし、(B)が正しいとしても、(A)が成立するとは限らない。
筆者は、2倍暦の知識に基づいてはいるが、記載された月日には、それ以外の意味が含まれているという考え方をしている。
筆者は、「神武から仁徳までの期間(各天皇の合計在位)が4倍に延ばされているとするが、各天皇の在位は4倍であるとは限らない」としている。貝田氏の主張する「仁徳までの各天皇の在位が4倍になっている」は採用できないのである。
貝田氏とは、神武から仁徳までの期間が4倍であることは一致しているのであるから、この点において心強く感じている。

雄略天皇以降は正しく表記されている?
貝田氏は、年代の復元に当たって、次のような結論を示されている。
雄略天皇の没年以降は太陰暦の長さで、正しく表記されており、『日本書紀』のままで読んでもよい。」
月日のデータから4倍暦か2倍暦かの判断は難しかったとして、「暦通りである」という結論は重要である。
現在、筆者は日本書記の雄略没年479年が正しいと考えている。清寧以降の復元はまだできていないが、雄略天皇に記載された記事の内容からみると479年の記事が最後になっているからである。復元年代を479年より下った年代にするには、相当の根拠が求められそうである。
日本書紀に記載された「月日」を研究して、年代復元をされたが、雄略天皇没年が正しくないとすれば、「古代天皇長寿の謎」に書かれた復元年代はすべて(100%)間違いであることになる。「暦通りである」という結論くらい正しい結論であってほしい。)

貝田氏の間違えた事柄について述べるのは苦痛である。「機会があったら」としておきたい。

2009年8 月22日 (土)

仲哀天皇の「年月日の暗号」を解読する

日本書記における仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果を紹介する。
読者の皆さんには、「年月日の暗号」があることは述べてきたが、積極的に紹介することをしてこなかった。
理由は、「年月日の暗号」が極めて原始的な暗号であり、確証が得られるまで発表を控えてきたためである。
他の手法により信頼できる復元年代が得られてきた。やっと、「年月日の暗号」から見た場合にはどのようになっているかを再確認することができるようになってきた。それにより、編者が年代や在位についてどのように考えていたか、より明確にできると考える。

仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果
解読結果は「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に示したので見ていただきたい。

表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読

日本書記解読1と解読2を比較しながら見ていただきたい。
解読1と解読2の結果は、仲哀天皇の崩御年を示すが、これは「年代(数字)のからくり」である。神功摂政1年(201年)が、363年を示唆するための見掛け上の年代を示すものであり、これにより応神の誕生年363年を指定している。
解読2の結果は、仲哀天皇の復元年代における正しい仲哀崩御年380年を示している。
上記の結果は、他の手法、例えば仲哀天皇や応神天皇の個別の年次表および各天皇を集めた合成年次表の結果と基本的に一致する。

記紀間の復元在位の食い違いは仲哀天皇と成務天皇のみである
しかし、古事記の仲哀天皇の崩御の復元年代は380年で、日本書紀の復元年代と一致するが、即位年の復元年代は一致しない。仲哀天皇の場合には、在位が9年なのか7年なのか、記載在位においても日本書記と古事記では異なっているが、復元においても同様に異なっている。
日本書記の仲哀即位年は372年、在位は9年であり、古事記は即位年374年、在位7年である。それに伴い成務の在位も2年異なる。
このような日本書記と古事記の間の在位の食い違いは、仲哀天皇と成務天皇に限られるようである。

日本書記の「神功皇后摂政在位零のからくり」
「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に記したように、日本書紀の復元年代には「年代(数字)のからくり」があり、神功皇后の摂政の在位が零であるすれば、この「見事なからくり」の意味も分るというものである。
解読1で示される結果は、362年の翌年363年に重要な意味がある。記紀の編者は、応神の誕生、363年を明確にした。
解読2は、解読1で仲哀天皇の崩御年が使われてしまったため、正しい崩御年を解読するための暗号を崩御年の「年月日」に仕掛けた。
解読1で得られた応神誕生363年と共に、応神の崩御年齢を在位41年として示唆することにより、応神天皇の復元を可能にしてくれたのである。
ちなみに、応神天皇は、363年誕生、381年19歳で即位、403年41歳で崩御となる。

古事記は日本書紀の解読方法を示唆する
古事記は、日本書記とは異なる暗号をもって仲哀天皇と応神天皇の復元を可能にしている。さらに、古事記は、日本書紀の仲哀天皇の崩御年の解読方法を、応神天皇の事例を用いて示唆してくれる。
古事記の応神天皇の年月日は、九月九日と記載されているが、「九九=八十一(81)」で、応神即位年が381年であることを示す。従って、仲哀天皇の崩御年は前年の380年である。示唆の重要なポイントは「九九の九の段の活用」である。
日本書記の解読に、「九九の九の段」を応用すれば、仲哀崩御年は次のようになる。
「九五=四十五」+「九七=六十三」+九八=七十二」=百八十年(180) から
二百年+百八十年=三百八十年(380年)
[(9×5)+(9×7)+(9×8)=45+63+72=180→200+180=380
なお、計算に用いた二百年とは、日本書記の仲哀天皇崩御の記載年代である。

2009年8 月13日 (木)

武内宿禰とその一族、平群木菟宿禰

武内宿禰(たけうちのすくね)は 、日本書記の記載では、景行天皇25年(95年)~ 仁徳天皇50年(362年)に登場する。この期間だけ見ると267年となり、年齢を想定すると290歳くらいになってしまう。期間が長いだけに、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたことになる。
日本書記の年代は大幅に延長されているから、こういうケースもあるかと思われるが、復元年代に照らし確認してみる。

武内宿禰は、成務天皇と同じ日に生まれたと記載されているから、成務天皇の誕生年335年である。
先ず、景行25年の記事について考えてみる。
武内宿禰は景行25年に、景行天皇の命により、東国を視察する。復元では、景行の在位は21年であり、景行25年は存在しない。景行25歳のときと仮定すると、339年となる。
成務天皇の誕生年と同年の335年に武内宿禰が誕生したとすると、武内宿禰は、339年に5歳で東国視察に出たことになり、東国視察はあり得ないことである。

武内宿禰の東国視察は作り話
武内宿禰は、景行25年次に東国視察に出るが、日本武尊が東征するのは40年次である。その間15年もあるが、復元では、景行25年次は339年で5歳、景行40年次は344年で10歳である。5年の差がある。
武内宿禰の東方視察は、誕生年と日本武尊の東征出発年の中間に設定されたものである。従って、東方視察の年339年を5年(4年)遡れば、成務誕生年335年となる。
東方視察の記事の内容自体と年代は、日本武尊の東征の状況説明のための創作である。
以上より、「武内宿禰は、成務天皇の誕生年と同年の335年に誕生した」との記事を信じ、「東国視察」の記事は創作とする。

武内宿禰は三韓征伐の指揮を執る
武内宿禰は、成務3年次、361年に大臣(おおおみ)になった。27歳の時のことである。
仲哀9年、362年の三韓征伐の記事は、年代を30年前倒ししたもので、実際には応神3年次、392年の出来事であり、武内宿禰は58歳である。応神3年次の記載年代は372年であるが、120年ずれがあり、実際には392年となる。
紀角宿禰(きのつののすくね)、羽田矢代宿禰、蘇我石川宿禰、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)らが数万の軍勢を引き連れ、半島に攻め込んだ。上記の人物たちは、武内宿禰の息子達であり、武内宿禰が指揮をとったのであろう。

「広開土王碑」に記された辛卯年の戦い

武内宿禰とその一族が半島に攻め込んだこの戦いは、記紀においては「三韓征伐あるいは新羅征討(古事記)」といわれるが、高句麗の国王・広開土王(好太王)の功績を叙述した石碑「広開土王碑」に記載された戦いでもある。武内宿禰の戦いの相手は広開土王(好太王)であった。
「広開土王碑」には、次のように書かれている。
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民
意味は、「新羅・百済は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、辛卯年(391年)に、倭が海を渡って新羅や百済などを(倭の)臣民とした。」である。

「汝こそは国の長人(ながひと)」
武内宿禰が日本書記に最後に登場するのは、仁徳50年である。仁徳は、即位406年、崩御427年であり、在位は22年になる。仁徳即位を406年とし、仁徳50年を比例計算で割り出すと、仁徳50年は418年となる。
武内宿禰は、335年に誕生し、418年には84歳となり、84 +α歳で亡くなったことになる。
仁徳50年次の記事において、「汝こそは世の遠人(とおひと) 汝こそは国の長人(ながひと)」と、長寿であったと記されているのだから、84歳もあり得ないことではない。

なお、高齢であったことは間違いがないが、仁徳時代の武内宿禰は、過去の出来事の証言者としての登場であり、仁徳50年次の記事が「茨田堤に、雁産めり」という内容であり、年代との関係はなさそうである。茨田堤の築造は仁徳11年次であり409年に相当する。多少サバを読んでいる可能性があるが、それでも80歳位まで長生きしたと思われる。

「月日の暗号」解読結果は、80歳
こういう場合の最後の確認手段として、「月日の暗号」を解読してみる。
仁徳50年次およびその前後の月日は次のように記載されている。
仁徳43年次:9月1日→9+1=10→十
仁徳50年次:3月5日→3+5=8→八
仁徳53年次:5月、仁徳58年次:5月→5+5=10→十
解読結果は、八十(80)となる。
どうやら、編者は「武内宿禰は、80歳まで長生きした人」と考えていたらしい。

武内宿禰の息子に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)がいる。仁徳元年の記載では、
仁徳天皇と平群木菟宿禰の誕生日は同じ日であったという。武内宿禰と成務天皇の誕生日も同じだったというから、偶然というには出来過ぎている。仁徳誕生の復元年代は381年とみているから、武内宿禰47歳のときに生まれたことになる。疑問の残る年令である。
神功紀の復元では、392年に、父親に従い、兄弟と共に三韓征伐に参加した。仁徳誕生の復元年代は381年とみているから、木菟宿禰は392年には11歳ということになる。武内宿禰の子たちの名を連ねて記載することに意味があったのかも知れない。
また、木菟宿禰は、応神16年に精兵を引き連れ、加羅に行き、新羅を攻めている。400年初頭の頃に当たり、404年とすれば24歳である。

日本書記の記載では、同じような事柄を2度記載する傾向がある。なんらかの意味を持っているのであろう。その典型は、雄略記であり、2度同じようなことを記載した記事が数多くみられる。天皇と同じに日に生まれたという記事もその類であろう。
平群木菟宿禰の記事は、武内宿禰の年齢の裏付けとなるかと思ったが、役に立ちそうもない。仮に筆者の年代と年齢の読みが間違えていたとすると、仁徳の崩御年令を47歳ではなく、例えば57歳に変えれば武内宿禰と木菟宿禰の年齢の関係は改善されるが、応神天皇と仁徳天皇の関係は成立しなくなる。平群木菟宿禰に関しては、新たなことが分るまでは、お預けにしておきたい。

2009年8 月12日 (水)

日本書記の年代復元モデルのシンメトリック

念願の復元モデルのシンメトリックの図表が出来上がった。日本書記記載年代のシンメトリックの図表とは対をなす。これによって、両方の図表を比較検討することができ、次の点を解明できるかもしれない。図表を添付するので、ご覧いただきたい。

表S1-1 日本書紀の在位のシンメトリック

表S1-2 日本書紀の復元モデルのシンメトリック

筆者は当初から日本書記の年代に関して、「シンメトリック」を年代解読の手法として活用してきた。その後、編者が用いた「37の倍数」や「月日の暗号」などの手法に気付き、解読を進め、現在に至っている。
今思うのは、「シンメトリック」は、多くのヒントを与えてくれたが、その信頼性から年代を決定するものではなかった。上記に述べた、これからの検討においても同様であろう。重要なのは、解明のヒントが得られれば有難いということである。

復元モデルで気付くことは
1.全体に、34(実際には34~37)の数字がみられる。各天皇の年齢の解読は途中段階にあるが、神武~開化の9人の平均寿命は34.6歳であり、神武~仁徳の16人(神功は除く)の平均寿命は35.9歳である。34の数字は平均寿命と関係している可能性がある
在位と組み合わせると、世代数や一世代の年数が導き出せると思われる。一般的に一世代(活躍していた年数)を25年くらいとする見方があり、平均年齢からみるともう少し少ない年数になりそうである。仮に一世代(活躍していた年数)を25年とすると、神武~開化まで少なくとも5世代~6世代となる。系図に詳しい方々の4世代という見方は誤りの可能性が高い。
2.年代構成がどのように行われたかを知るためには、「年代の区切り」を探すことになる。
  例えば、成務と仲哀との間や、安康と雄略の間には区切りがありそうに見える。日本書記は雄略から書き始めた、という見解とも一致する。
3.シンメトリックは数多くみられる。最も主要なのは210年のシンメトリックである。これを小分けすると、140年と70年になる。正確で、正しい年代と思われる顕宗から推古までの141年が、神武から開化までの140年の正しさを示唆する。同様に舒明から持統までの69年は、崇神から成務までの70年の正しさを示唆する。

なお、シンメトリックを認めるということは、整然とした年代構成が存在するということに繋がる。天皇の崩御の年代が数字で決まるはずがないのは当然のことである。それを受けてランダムな(規則性のない)年代を期待するのは期待外れに終わる。崩御の年代が分かっていなかったとしたら、どうなのかである。また、吉・凶の縁起の悪い年代を用いるだろうか。さらに元資料の段階も、作りこむ過程が何段階かあるとしたら、どうだろうか。そのような状況の中では、編者は陰陽道やある種の数学(シンメトリックを含む幾何学)により決めるしかない。シンメトリックなどの幾何学的な年代構成をもった復元年代は、編者が持っていた、正しい年代であると考える方が妥当と思われる。
日本書紀の前半においても、なにがしかの年代の根拠があったことまでを否定しないが、編者はそれらの情報に基づき、年代の再構成をはかった。即ち、年代は編者によって創作された。しかし、たとえ復元年代が創作だとしても、古代史を見るためには、復元年代が必要なのである。

神武天皇在位14年の根拠(まとめ)

神武の在位が、14年か19年か、長い間争われている。両方に何らかの根拠があるからだろう。ここが定まらないと、綏靖、安寧などの年代も決められない。
筆者も14年と19年の間を行ったりきたりしてきたが、現在では「神武在位14年」の考えに落ち着いた。
神武の即位年162年や、崇神崩御年318年は変わらないのだから、どうでも良いのかもしれない。筆者の場合、最近は年代の復元よりも記紀の年代の構成についての方に関心が移ってきていて、結構楽しみながら解読を進めているのである。

本題の「神武在位14年の根拠」についてであるが、次の点に問題があり、在位19年を否定できないでいた。
日本書紀の各天皇の解読結果からは、
・天皇の崩御の最終年次が崩御年である。
・在位もこの崩御年に絡む。(主要な天皇において、在位は、最終年次年数の1/4である)
神武崩御の最終年次は76年であり、上記の考えに従い、仮に76年が四倍暦とすると19年が在位になる。
神武こそ主要な天皇の頂点にいるのだから、上記の考えに対し、納得できる根拠がなければ在位14年は成立し難いのである。
筆者は、この答を得ることが出来たので説明する。
「日本書紀には何人の神武がいるか」において述べたように、三人あるいは四人の神武が読み取れる。いろいろな要素を神武に託したのであろう。それに比べ、他の天皇は二人の人物しか読み取れない。一人は即位までの年齢分を前天皇の記載に組み入れた、延長された人物であり、宝算の崩御年齢を有する。
特に、神武の宝算は、神武即位前の51歳と即位後の76歳を加算し、127年としたものであり、100歳を超える宝算は天皇の偉大さを示すには手頃な数字だったのだろう。それ以上の意味はない。
二人目の神武は、即位元年、1年次を誕生とし、最終年次年数が崩御の年齢となる人物である。これについて検討をしていく。

1)合成年次表の作成
筆者は、日本書記の復元年代を求めるため、さまざまな角度から解読をしてきた。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」(合成年次表)を診ていただけば分かるはずである。
「合成年次表」は、それらをすべて取り込み、集大成したものである。ポイントを述べれば次のようになる。
①神武即位年は、即ち神武元年、BC660年は神武の誕生年である。
神武即位52歳を2倍暦と見做し、実26歳で即位したとする。従って、仮の復元年代(第1次復元年代)として、神武26年次、BC635年を神武即位年とする。
②復元年代は、神武即位年を西暦162年としている。
根拠は、神武紀に記載されたニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の解読結果による。
③チェック事項の拾い上げ
年代(年次)および年齢に関係する記載内容、例えば、誕生、即位、崩御の年代および年齢を拾い上げた。
年齢は2倍暦で記載されていることを前提として、実年齢を加えた。
また、年代(年次)と年齢に基づき、天皇間の年齢関係を重視し、年次表の正しさを確認するためのチェック事項とした。(例、神武42-14綏靖立太子)

2)神武崩御年を探る
神武紀および綏靖紀には、綏靖立太子の年代と年齢に関する記事がある。上記の例に記した[神武42-14綏靖立太子]である。例に示すように、年代、年次、歳などは記載していない。例の場合、[神武42-14綏靖立太子]の正解は、年次表によれば、記載神武42年次(神武の記載年齢42歳、実年齢34歳、復元年代170年)のとき、綏靖が記載年齢14歳(実年齢7歳)であることを示す。
年次表をたどれば、綏靖が実14歳に達したとき即位したことになる。「立太子」は「即位」に読み替える必要がある。立太子の記載年齢14歳は実の数字であることが分る。
神武崩御年に関しては、綏靖の即位年代が神武56年次、記載年齢56歳、実年齢41歳、西暦177年であり、在位31年(実16年)であることから、それより前であることが分る。これによって、神武の実在位19年はあり得ないことになる。
記載内容から、神武崩御の後に記載3年(実1.5年)空位があること、神武宝算127年の百減は27であることから、神武崩御は神武52年が在位27年に相当することが分かる。
年次表から、52年次と53年次が同年であり、神武実年齢39歳、実在位14年と判断される。

●綏靖立太子の記載年齢14歳が正しく、立太子を即位と読み替えてよい。
 合成年次表によると、即位157年の前年156年に14歳となっている。
 綏靖前紀の記載でも、即位の前年に兄神八井耳命が神渟名川耳尊(綏靖)に天皇位を譲ると書かれていて、解読結果と一致する。

3)シンメトリックによる在位の確認
①神武~懿徳の34年のシンメトリック
「神武の時代」とは、狭い意味では神武と綏靖である。日本書紀の年代構成上のことであるが、神武の崩御年(神武79年次)と綏靖の崩御年とは同年である。綏靖は神武の分身のようである。
「神武の時代」をもう少し広い意味で捉えると、懿徳までである。懿徳崩御34歳(34年)は懿徳の誕生年を基準としたシンメトリックからなる。
シンメトリックの一方の先端は神武即位元年、BC635年であり、基準年はBC602年とBC601年の間にある。シンメトリックの他端はBC568年である。基準年に対し34年[635-602+1=34と601-568+1=34]のシンメトリックである。
また、復元前の数字であり、2倍暦である。従って、34年のシンメトリックは、合計68年であり、実年に復元すると34年となる。復元では神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示している。

●別角度からの補足
神武即位年のBC635年は、復元年代に置き換えれば西暦162年である。
懿徳崩御年のBC568年は、懿徳34年次のBC477年と同じである。懿徳崩御の復元年代は神武から懿徳までの合計在位34年から求めた西暦195年となる。[162+34-1=195]
なお、懿徳崩御の翌年の空位年はBC476年で、神武暦に直すと185年になり、「37の5倍」となる。年代の区切りであることを示している。
なお、上記のシンメトリックからは、神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示すが、直接的に神武在位14であることを示してはくれない。

②神武の14年のシンメトリック
神武は26年次26歳で即位し、神武52年次39歳で崩御された。14年の在位である。[52/2-26/2+1=14、または39-26+1=14]
他方、53年次39歳から79年次52歳までの神武崩御後の仮想の在位計算は14年となる。[79/2-53/2+1=14、または52-39+1=14]
これは、神武復元在位と仮想の延長在位のシンメトリックである。神武の復元在位は、14年となる。

4)神武太歳干支付与年を基準とした4倍(4倍暦)の計算
一般に太歳干支は、各天皇の即位年に付与されている。しかし神武の場合には、太歳干支は即位年には付与されていない。東征出発の年に付与されている。他に見られない特異な太歳干支の付与の仕方である。この東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。
くどいようだが、21年は神武の在位ではなく、神武が東征に出発した年から崩御の年までの期間である。
ところが、東征の期間7年間は実年(記載の1年は実際の1年)で書かれているから、神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。

●上記の説明は、分り易く神武の在位76年として話を進めた。
 実際には、合成年次表の解読から77年と捉えた方が正しい。77年には空位3年のうち1年目が該当する。神武76年次と空位1年目は2二倍暦で同年である。本来なら神武77年に当たるが、76年(春年)に崩御したと記載したため神武77年次(秋年)は表向き存在しなくなり、空位年とされた。本当の空位年は2年目および3年目の2年間が、2倍暦で書かれていて、実1年の空位年になる。

●上記の文面を正しく表現し直すと、次のようになる。
 「東征出発の年から崩御年までの期間は84年(BC667年からBC584年)であり、84年の1/4は21年である。神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。
 従って、小数点以下の問題は解消する。

●神武天皇の年次表に関しては「1年が4倍の4年になっている」部分と「1年が1年のまま」の部分が合成されている。言い換えれば、神武即位後の76年間は4倍ではなく、約5.53倍になっている。[76÷13.75=5.53] 77年間とすれば、5.5倍である。[76÷13.75=5.53] 

なお、この倍率には特別な意味はない。

2009年8 月 6日 (木)

日本書記の「神武の時代」を推理する

日本書記の年代を復元しようとすると、推理をしなければならいことが多々ある。
そのうちに、日本書紀自体が推理小説ではないかと思うこともある。それも下手な推理小説家では真似すら出来そうもない素晴らしい内容を持っている。そのような事例を紹介しようと思う。といっても、これから小説を書くわけではない。日本書紀の編者が創作した推理小説のポイントを述べるだけである。
参照「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

追記(2009/10/29)
参照として添付した「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、新しい情報を加え、さらに整理されてきた。基本的な内容は全く変わっていないが、以下の説明では分りにくくなっている。
また、記事を読むと、筆者の年代復元における苦労話になってしまっている。本来述べなければならないことがおろそかになっている。次の投稿記事を読んでいただきたい。
綏靖、安寧、懿徳の各天皇の崩御年は同じ年」(カテゴリ「記紀のからくり」)

神武天皇在位14年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)
神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)

1)神武天皇が崩御して、皇子の綏靖が天皇になるのだが、綏靖即位まで3年の空位期間がある。よくあることだが、皇子の間で跡目争いがあったのだ。
復元年代として神武崩御年が決まると、次は綏靖が即位するのだが、「綏靖は神武42年次に立太子となり、このとき(計算上)14歳であった。」を基に、綏靖の誕生年が分る。綏靖誕生は、神武29年次(神武実27歳)である。
神武が崩御した神武76年次(神武実51歳)には、綏靖は48歳(実24歳)になっている。3年の空位期間があって即位するから、綏靖は52歳で即位したことになる。
あれ! 綏靖も神武と同じ52歳(実26歳)で即位したのか、と思わせる。何となく解読が正しそうな感じがしてくる。

2)実際には、神武76年次(神武実51歳)や綏靖48年次(綏靖実24歳)は年代延長による架空の年次である。神武が実際に崩御した神武52年次(神武実39歳)まで年代を遡って見ると、綏靖24年次に相当し、実12歳である。空位3年があるとすると、綏靖は177年に実14歳で即位したことになる。どうやら正解にたどり着いたようだ。

3)ところが、筆者は面倒なことは嫌だから、合成年次表の作成において、綏靖の誕生年を直接、空位3年分ずらして表を作成した。
その結果、綏靖は、神武76年次には綏靖45年次(23歳)になり、神武79年次に綏靖48年次(24歳)になる。3年分ずらしたのだから当然のことである。175年の神武崩御のときは綏靖実11歳、177年には綏靖実13歳で即位したことになる。
一体、どっちが正しいのだろうか。13歳でも14歳でもどっちでもいいじゃないか、と思いたくなる。
どちらの場合も、即位の前に空位3年を入れたつもりでいたが、違うようだ。同じ3年ずらしたつもりが、年次表の年代は2倍暦を基本にしているから、1.5年分しかずらしていないのであり、0.5年の食い違いが1歳の違いとして表れるのだ。

4)前述の1)において、綏靖誕生は、神武29年次(実27歳)であると述べた。上記の2)も、綏靖誕生が、神武29年次(実27歳)になっている。上記の3)は、綏靖誕生が、神武32年次(実29歳)になっている。文章で書くと長ったらしくなるから、それぞれの年次のときの年令を( )内に記した。これでお分かりいただけただろうか。
綏靖誕生は、神武29年次ではなく、神武実年齢29歳のときであった。」要するに[年次]から[年齢]への変換が必要だったのである。
合成年次表のチェック次項として見た場合、[神武29-綏靖誕生]であって、「29年次とか29歳というように、単位をつけてはいけないのである。」これが、年代解読のポイントである。

解読手段としての合成年次表の威力
在位や年齢および年代の解読手段として合成年次表は、威力を見せ付けてくれ、綏靖の解読に大きな役割を果たした。
前述した投稿記事は、年代の復元に関する貴重な情報で与えてくれるので、お読みいただきたい。
また、合成年次表は、以上の他にも面白いことを教えてくれる。

5)安寧の即位は、安寧29年次(実15歳)である。綏靖の崩御181年と同年になるため、元年は182年である。
さて、安寧29年次から、安寧の実29歳は何があるのだろうか。日本書紀には安寧の宝算が57歳と記載されている。年次表上で計算される宝算は67年で10年異なり、57歳という記載は間違いである。しかし、57歳が意味をもっていたとしたらどうだろうか。
57歳の記載は、綏靖、安寧、懿徳の3天皇の崩御年を同じにするために必要だった」のである。
神武の時代が終わる195年以降にどのような数字があったとしても全く意味のない数字である。「編者は、それを承知の上で安寧の宝算をわざと間違えた振りして記載した。」仮に、この宝算の改変を編者以外の人物が行ったとしたら、編者が考えた「からくり」を1年と狂いなく知っていたことになる。

安易に、「編者が間違った」としてはならない
「編者が間違いをした」と指摘する学者がよくおられるが、上記のような結果を想定すれば、間違いを犯したのは編者ではない。訳も分らず改変するのは、許されない。
また、綏靖の場合の195年の年次は48年であった。記載された宝算は84歳である。逆数を用いただけなのだ!しかし、安寧の場合と同様に、195年に33歳で崩御されることを示唆する為になされたことである。
こういうことも知っておかないと、日本書記の編者を理解していないことになり、復元はできないのである。

2009年8 月 4日 (火)

日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察

日本書記の年代復元を行なうためには、倍暦に関する解明がなくして解明することはできない。試行錯誤はあったもののある程度の精度で「在位」を読みとることができた。

Wikipedia の「日本書紀」の注釈に次のようなことが記載されているのに気づいた。
『三國志』魏書 東夷伝 倭人にある裴松之注に引用される『魏略』逸文に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す)との倭の風俗記事があることから、1年を2倍にして年次を設定したとする2倍暦説がある。しかし2倍暦で『書紀』紀年の該当期間が矛盾なく説明できる訳ではないことから、学界では支持するものは少ない。(筆者も同じ見解である。)

筆者の年代解読は、神武即位年から開化崩御年までを「n×二倍暦」と見做し、解読を行ってきた。「n×二倍暦」も基本は「二倍暦」である。上記の「2倍暦」が文字通りの意味なら、「n×二倍暦」とは異なる。
「n×二倍暦」が用いられている神武即位年から開化崩御年までを該当期間とし、在位と年齢の倍暦について考察する。

「n×二倍暦」とは
各天皇の在位や年齢は、単純2倍暦を基礎とし、その上に延長分が加算されている。延長分は天皇ごとに異なるため、「n×二倍暦」として示している。すなわち「n」は各天皇固有の数値を持つ。ただし天皇全体では、「n=2」となり、「4倍」あるいは「4倍暦」と見做せる。

1.在位と年齢の解読と倍暦
各天皇の在位と年齢を復元する。その復元を通じて、「n×二倍暦」がどのように用いられているかを明らかにする。説明のため、事例として孝昭天皇の数字を用いる。
1)在位や年齢の解読には、日本書記に記載された宝算c、即位年齢d、立太子年齢eおよび最終年次年数(=崩御年齢)f、が必要になる。
注1)筆者の従来の記事では「崩御年齢」と表示してきたが、実の崩御年齢もあり、紛らわしいので「宝算」と呼ぶ。
  注2)最終年次年数は、崩御年齢である。(ただし2倍暦の数字である。)
それぞれの年齢は、直接記載されていない場合があるが、立太子年と立太子年齢から求める。孝昭天皇の数字を次に示す。
宝算c=114歳、即位年齢d=32歳、立太子年齢e=18歳、最終年次年数(=崩御年齢)f=83年(歳と読み替える)

2)宝算c、即位年齢d、立太子年齢eおよび最終年次年数(=崩御年齢)fの関係は次のようになっている。
宝算は、次に示す通り、即位の前年の年齢に最終年次数を加算した値である。
宝算c=(即位年齢d-1)+最終年次年数f
先ず、1)で求めた数字が正しいか、事例について確認する。
[宝算c114=即位年齢d32-1+最終年次年数83=114(数字の整合性が取れている)]

解読に用いる数字が正しく整合性を持った数字であるか確認することは重要である。事例の孝昭天皇の場合は正しい数字と確認されたが、同様のことを各天皇の数字に対し行うと、安寧天皇の宝算は記載では57歳となっているが、67歳の誤りである。ただし、以下に述べるとおり、宝算自体意味の薄い数字であり、実の年齢や在位には影響しない。

3)上記の宝算c、即位年齢d、最終年次年数f、の数字は2倍暦の数字である。あらかじめ実の数字である1/2の数字を求める。
実宝算c/2=114/2=57(歳)
実即位年齢d/2=32/2=16(歳)
実最終年次年数f/2=83/2=41.5(≒42)→f/2を実崩御年齢に読み替える42(歳)

4)実在位を求める。
実在位=実崩御年齢f/2-実即位年齢d/2+1
事例に当てはめると、次のようになる。
[実在位=実崩御年齢42-実即位年齢16+1=27(年)]

5)事例の場合の実数を基に、記載値の倍数を求める。
宝算の倍数=c/(f/2)=114/42=2.71倍
崩御年齢の倍数=f/(f/2)=83/42=(84)/42=2(2倍暦である)
注3)83年に空位1年を加算し、84年と見做す。
在位の倍数=83/27=3.07倍(n=1.54)

6)実立太子年齢e/2=18/2=9(歳)
注4)実立太子年齢は、実即位年齢と比較し、2倍暦か実年かを見極める。

7)孝昭天皇の事例に基づき考察する。
宝算について
日本書記は年次における元年を即位年と位置付けた記載をしているため、元年における年齢(即位時の年齢)を示さざるを得ない。
日本書記は、即位時の年齢に、実年齢の2倍暦の数字を用いることを基本としている。これを可能にするため、前天皇の年次表上に立太子の時期と年齢を設定している。宝算は、即位時の年令を基に最終年次まで延ばされた年齢である。

従って、孝昭天皇の宝算114歳は、即位年の年齢32歳に最終年次年数83歳を加え、1年減じた数字である。上記の説明では即位前年の年齢31歳に最終年次年数83歳を加えているが同じことである。
宝算を2倍暦とすると、57歳になるが、年次表の作成上から生まれた数字であり、それ以上の意味はない。ただし、100歳を超える年齢を想定して決めたシステムと考えることができる。宝算の倍暦2.71倍も特に意味をもたない。

年齢と在位について
年次表が2倍暦を基本にできている。
従って、即位年齢は、実年齢を2倍にした年齢としている。
同様に、最終年次年数は、実崩御年齢を2倍にした年齢に相当する。年次は年齢と考えればよい。
孝昭天皇の実即位年齢は、記載即位年齢36歳の1/2の16歳であり、実崩御年齢は、最終年次年数83歳の1/2の42歳である。
在位は、上記の実即位年齢と実崩御年齢から計算すればよい。

2.年次表における2倍暦
上記1.において、日本書紀に記載された数字から実年齢と実在位を解読した。年次表は2倍暦で作られていると述べたが、実感が湧かないであろう。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を添付するので見ていただきたい。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

孝昭天皇を例に説明する。
左側には、記載年代を書いている。年代の始まりをBC635年=神武26年次から始まるようにしているのは、この年代を即位年にすると解読しやすいからであって、最終的には,BC635年=神武26年次は、復元年代の西暦162年に移動する。左から5列目に移動先の西暦が示されている。
重要なことは、記載年代は1年ごとに書かれているが、復元年代に相当する西暦の年代は1年が記載年代の2年分に相当するように書かれている。すなわち、記載年代は2倍暦で書かれていることを示している。
孝昭天皇の年齢欄には、(二倍暦の年令)/(実年齢)の両方が書かれている。
復元年代と年齢欄を照らすと次の結果が得られる。
孝昭即位196年、32歳(実16歳)
孝昭崩御222年、83歳(実42歳)、在位27年
上記1.で得られた即位年齢と崩御年齢のときの復元年代が得られる。
表12-1から、日本書記の記載年代が2倍暦でできていることが証明される。
なお、神武即位年が、西暦162年であることに関しては、日本書紀に記載された「ニニギ降臨の暗号」の解読から得られた年代である。

説明は略させていただく。「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」を読んでいただきたい。

3.「n×二倍暦」の説明の中で、次のように述べた。
「n×二倍暦」の「n」は各天皇固有の数値を持つ。ただし天皇全体では、「n=2」となり、「4倍」あるいは「4倍暦」と見做せる。
このことについて、説明をする。
神武天皇から開化天皇までの記載された期間を、合計在位(空位を含む)としてみると、BC660~BC98年は、563年になる。神武暦の年代と同じである。
4倍暦と見做すと、140.75年(140年)である。
さて、復元された在位は、9人の天皇の復元された実在位をすべて加算すると、139年になる。神武崩御後の西暦176年は空位年である。空位年を含む合計在位は140年となる。
即ち、神武から開化までの期間(在位)140年は、復元された合計在位と同じになり、記載在位563年は復元在位の4倍になっている。
注4)記載在位から計算された140.75年は、141年としてはならない。編者の数字の見方は、「小数点以下は切り捨て」を原則としている。この場合、記載された崇神即位年BC97年は神武暦564年であり、1/4は141年となる。

4.孝昭天皇以外の天皇の在位と年齢
日本書記が2倍暦で書かれていることを孝昭天皇の例に基づき述べた。他の天皇も基本的に同じである。
在位計算は、
実在位=実崩御年齢f/2-実即位年齢d/2+1
である。この計算式[在位=f/2-d/2+1]を標準計算式と呼ぶ。
この標準計算式は、神武天皇から開化天皇までの、2倍暦で記載された天皇にしか適用できない。
また、当たり前のことだが、実崩御年齢f/2と実即位年齢d/2は、記載された情報から得られている。
「表6-1 天皇の在位計算(神武~開化)」および「表7 天皇の実年齢」を見ていただきたい。

表6-1 天皇の在位計算(神武~開化)

表7 天皇の実年齢

大半の天皇は、標準計算式に基づき、実崩御年齢、実即位年齢や在位が得られる。
標準計算式で直接得られない場合も、次のように読み替える必要がある。
綏靖天皇の場合、即位年齢52歳が4倍になっているから、1/4の数字13歳を用いる。
孝元天皇の場合、実崩御年齢を宝算116歳に読み替えればよい。(最終年次57歳は在位の2倍暦の数字である)
神武天皇は、多少説明を加えなければならないため、「神武天皇在位14年の根拠(まとめ)」を読んでいただきたい。

2009年8 月 1日 (土)

古事記は、日本書紀の解読書(あるいは参考書)である(反正天皇の事例)

既に投稿した記事において、「古事記は、日本書紀の解読書(あるいは参考書)である」という事例をいくつか述べてきた。
筆者の日本書記の年代解読の手の内を明かすことになるが、つい最近の事例を紹介する。
允恭天皇の5年次の記事に、反正天皇の濱(もがり)の記事がある。倉西裕子氏の研究によると、一般に濱は崩御後半年以内に行われるとのことである。そのことから允恭天皇の年次に何らかの操作がなされていると推測される。

筆者は、既に解読済みの古事記の復元年代をチェックしてみた。
古事記の復元年代は、既投稿の「古事記の暗号解読と復元年代(まとめ)」に添付した「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。
古事記の復元年代は、反正天皇の在位が7年となっている。古事記の崩年干支から読み取った年代から計算される反正天皇の在位は5年であり、2年長くなっている。日本書紀に記載された反正天皇の在位も5年である。
以上より、日本書記の復元年代と在位が古事記の復元年代と同じになるかを検討してみると、全体として整合性のある、採用できるレベルの結果が得られた。日本書記における反正天皇の復元された即位年は433年、崩御年は439年、在位7年であり、古事記の結果と全く同じである。
筆者の日本書記の復元年代には、以上のようにして得られた反正天皇の年代と在位を採用している。詳細は、既投稿の「履中天皇~雄略天皇の年次表の解読」を読んでいただきたい。

反正天皇の在位は、特異である

考えてみると、ほとんどの天皇の記載在位は延長されているから、復元在位と記載在位と比較すると、復元在位の方が短い。その点で反正天皇の在位は記載より2年長く、特異である。
多くの学者の反正天皇の復元在位を見ると、5年のままか、5年以下に短くされている。反正天皇の在位を長くした例は筆者の記憶にない。
これほど特異な例であるから、日本書紀だけ見ていても解決できないのは、上記の説明でお分かりいただけるであろう。

筆者にしても、古事記の情報がなければ、多分、多くの方々と同じであったかも知れない。
それにしても、反正天皇の在位を短くする方々は、何を根拠にされているのだろうか。
1985年に発行された貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」から脱皮できないのかもしれない。この書物は、功罪二つが同居したものである。他の方の書かれた書物の批評などしたくないが、いつか、述べなければならないのかも知れない。
それに比べ、古事記は多くのことを示唆してくれる。