日本書記の年代復元モデルのシンメトリック
念願の復元モデルのシンメトリックの図表が出来上がった。日本書記記載年代のシンメトリックの図表とは対をなす。これによって、両方の図表を比較検討することができ、次の点を解明できるかもしれない。図表を添付するので、ご覧いただきたい。
筆者は当初から日本書記の年代に関して、「シンメトリック」を年代解読の手法として活用してきた。その後、編者が用いた「37の倍数」や「月日の暗号」などの手法に気付き、解読を進め、現在に至っている。
今思うのは、「シンメトリック」は、多くのヒントを与えてくれたが、その信頼性から年代を決定するものではなかった。上記に述べた、これからの検討においても同様であろう。重要なのは、解明のヒントが得られれば有難いということである。
復元モデルで気付くことは
1.全体に、34(実際には34~37)の数字がみられる。各天皇の年齢の解読は途中段階にあるが、神武~開化の9人の平均寿命は34.6歳であり、神武~仁徳の16人(神功は除く)の平均寿命は35.9歳である。34の数字は平均寿命と関係している可能性がある。
在位と組み合わせると、世代数や一世代の年数が導き出せると思われる。一般的に一世代(活躍していた年数)を25年くらいとする見方があり、平均年齢からみるともう少し少ない年数になりそうである。仮に一世代(活躍していた年数)を25年とすると、神武~開化まで少なくとも5世代~6世代となる。系図に詳しい方々の4世代という見方は誤りの可能性が高い。
2.年代構成がどのように行われたかを知るためには、「年代の区切り」を探すことになる。
例えば、成務と仲哀との間や、安康と雄略の間には区切りがありそうに見える。日本書記は雄略から書き始めた、という見解とも一致する。
3.シンメトリックは数多くみられる。最も主要なのは210年のシンメトリックである。これを小分けすると、140年と70年になる。正確で、正しい年代と思われる顕宗から推古までの141年が、神武から開化までの140年の正しさを示唆する。同様に舒明から持統までの69年は、崇神から成務までの70年の正しさを示唆する。
なお、シンメトリックを認めるということは、整然とした年代構成が存在するということに繋がる。天皇の崩御の年代が数字で決まるはずがないのは当然のことである。それを受けてランダムな(規則性のない)年代を期待するのは期待外れに終わる。崩御の年代が分かっていなかったとしたら、どうなのかである。また、吉・凶の縁起の悪い年代を用いるだろうか。さらに元資料の段階も、作りこむ過程が何段階かあるとしたら、どうだろうか。そのような状況の中では、編者は陰陽道やある種の数学(シンメトリックを含む幾何学)により決めるしかない。シンメトリックなどの幾何学的な年代構成をもった復元年代は、編者が持っていた、正しい年代であると考える方が妥当と思われる。
日本書紀の前半においても、なにがしかの年代の根拠があったことまでを否定しないが、編者はそれらの情報に基づき、年代の再構成をはかった。即ち、年代は編者によって創作された。しかし、たとえ復元年代が創作だとしても、古代史を見るためには、復元年代が必要なのである。
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