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2009年11 月13日 (金)

三大史書(日本書記、古事記、先代旧事本紀)の復元年代は一致

ここで取り上げる古史・古伝は、「古事記」、「先代旧事本紀」、「倭姫命世記」、「秀真伝(ほつまつたゑ)」および「群書類従巻第六十」である。
いずれも、日本書紀に記載された「ニニギ降臨の暗号一百七十九万二千四百七十余歳」(古事記は、ホホデミ580歳)を掲げる書物である。
また、これらは「偽書」といわれている。

偽書かどうかを争う学者の記事は見かけるが、記述の中身、特に暗号を解読した復元年代に関する記事を見たことがない(関係する書物もあるようだが、筆者はパソコン上からだけしか見ていないので、こういう表現になってしまう)。まして、これらに記載された暗号を解読すると、日本書記の復元年代にほぼ一致するのであるが、そのことに関しての見解も見たことがない。(正しい復元年代が示せないのだから、当然のことである。)

正史とされる日本書記の復元年代を明らかにすることは、重要である。」
上記の古史・古伝を一律に扱う必要はないが、少なくとも、日本の古代史を書き残した三大史書ともいうべき「日本書記」、「古事記」、「先代旧事本紀」の復元年代が一致することは、従来の復元年代解明のための考え方及び対応方法に基本的な間違いがあることを示している。

先ず偽書としての扱い方に問題がある。
一般に偽書だとする方には、内容についても信じられないものとして扱うきらいがある。(学者の中には、たとえ偽書だとしても、参考になることが含まれるという意見の方もおられる。)
古事記の場合は、たとえ偽書だとしても、古事記が示す年代と全く異なる「偽書・弘仁私紀序」を以て、古事記を評価、判断することは明らかに間違いである。
「日本書記」、「古事記」、「先代旧事本紀」は、それぞれが持っている創作の動機、目的は異なる。しかし、共通点がある。いずれも、年代に暗号を用いて正しい復元年代を書き残した点である。さらに言えば、上記書物は、一致する復元年代を示すことである。

重要なことは、偽書かどうかの問題ではなく、内容、特に記載年代にとらわれることなく、復元年代に関する内容まで踏み込んだ結果として、信じられるか信じられないかを判断したのか、という点にある
言い換えれば、記紀の復元年代に取り組む方々が、「日本書記」、「古事記」、「先代旧事本紀」に記載された年代の暗号を解読し、復元年代を検討してこなかったことに問題がある。
「古事記は、年代が明確ではないから、歴史書として扱えない。」というような見解を目にすることがあるが、浅はかである。

「古事記」、「先代旧事本紀」が偽書であるかどうかについて、解明すること自体は重要なことである。偽書でないとすれば、作成された時期は、日本書紀の年代と重複することになる。偽書だとすれば、作成された時期や作者や作成の動機が分かれば、判断の参考になる。
「古事記」が偽書だとする見解では、日本書記が献上されてから100年以内、「先代旧事本紀」の場合は、完成が820年代だとすると、やはり、日本書記に遅れること100年程度の書物となる。このような条件のもとで三大史書の関係を推測すると、次のように考えられる。

日本書紀の編者は、正史を作成するために、先ず、正しい年代(復元年代)を作成し、それに基づき、延長した年代を作成した

日本書記の編者は、始めて正史を作成するにあたって、延長した年代を用いた歴史を作り上げた。と、同時に、正しい年代を暗号として書き込んだ。正しい年代を書き残したのは、一編者の思い付きではなく、編纂の方針であった。延長年代と正しい年代を、二重構造として持ち、正しい年代を残すには暗号を用いる以外の方法はない。正しい月日が分るはずもない中で、几帳面に月日まで記載したのは、正しい年代(復元年代)を伝えるための手段(暗号)として利用するためである。手間暇をかけてでも正しい年代を書き残したのは、編纂の方針であり、編纂の責任者および編者の良心である。

日本書紀の編者が持っていた正しい年代は、日本書紀の献上後、どのように扱われたのであろうか。献上と同時に完全に消されてしまったのであろうか。そんなことはあるまい。表には出ないものの、関係者の間には正しい年代に関する情報が残っていたと考えられる。

古事記および先代旧事本紀の編者らは、日本書記の編者が持っていた正しい年代を知っていた古事記および先代旧事本紀の編者らは、自らの動機、目的に従って編纂したが、日本書記が年代を大幅に延長したことにはある種の理解を持っていた。また、日本書紀の記載内容が誤っていたとしても、時代が要請する内容であるなら、同調することができた。例えば、倭の女王卑弥呼、神功皇后による新羅征討や中国への朝貢に関しては日本書紀に追従し、明らかにしようとはしなかった
その結果、古事記および先代旧事本紀も、日本書記と同様に、記載年代と正しい年代の二重構造となり、正しい年代を暗号で記載した

もしかすると、当時の歴史書の編者らは、年代を延長したり、変えたりした場合には、何らかの方法で正しい年代を記載しなければならないという考え方を持っていたのかもしれない。他国の歴史書と根本的に異なる点である。
その後、日本書紀の記載内容が独り歩きをし始め、さらには、暗号は低俗なものとして扱われるようになり、正しい年代の解読方法を失ってしまった

では、なぜ正しい年代が解明できなかったのか?
筆者の考えは、すでに過去の記事に述べてきているので、ここでは省略する。

2009年11 月 5日 (木)

記紀の編者にとって、「九九」は神聖な数字

記紀の編者が重視した数字に、「九九」がある。
まず、「九九」の意味について述べておく。
「九九」の一つ目の意味は、陰陽道に基づくもので、九が陽の数字の中の最も大きな数字であり、九九と二つ重なることから「重陽」あるいは「重九」と呼ばれ、長寿や繁栄を願いあるいは祝う数字である。
「九九」の二つ目の意味は、掛け算の「九九(くく)」であり、その答の「八十一」が、編者が示したかった狙いの数字(隠された数字)なのである。
注1)「九九」と書いて「八十一」と読ませる、あるいはその逆に、「八十一」を「九九」と読ませるような数字の使い方は、万葉集にもあるようで、当時の知識階級なら理解できたようだ。

若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国(わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてる にくくあらなくに)巻十一 2542番

注2)「九九」と書いて「八十一」と読むが「九十九」とは読まない。占いでは、「八十一」以上の数字は「一」と看做すそうであるから、「九十九」という数字は意味を持たない。記紀に記載された場合、単に「99」を示すのか、「九九」なのかを見極める必要がある。

編者が信じた数霊(かずたま)
「日本神話から生まれた話」(平成生き活き教育研究会)の記事に、「九九」について述べられているので紹介する。
「いざなぎといざなみが産んだ神々の合計は、八十一柱となり国造りが完成する。八十一 とは、[九九=八十一]と結びついている。
 掛け算も、[九九=八十一]で完成する。この神様と数の不思議な関係は数霊(かずたま)という学問にもなって日本に伝わっている
。 」

言霊(ことだま)」という言葉と同様に、「数霊(かずたま)」という表現もあるようだ。
また、「数霊占術」ともいわれる。これらが、数字の選択に影響を与えていたことは間違いなさそうである。

日本書記においては、次の記載があるが、「数霊(かずたま)」と見れば同じである。
一書に曰く、大国主神、またの名は大物主神、または国作大己貴命(おおあなむちのみこと)と号す。・・・・・その子すべて一百八十一神有す。」

神のつく3天皇は、「九九(くく)」の神様か?
各天皇の年代解読だけをみると、「九九」による復元年代は奇妙に見えるかもしれない。しかし、神代の数字も「九九」と繋がっていたとすれば、「九九」用いた復元年代が正しいことを証明することになる。
「表108  天皇の即位年、崩御年等に用いられた「九九」の数字」を見ていただきたい。

表108  天皇の即位年、崩御年等に用いられた「九九」の数字

記紀の編者は、主要天皇の年代に「九九」を、徹底的に活用したことが分る。筆者が考えるところはすべて上記表に示されている。

以下に、記紀を解読する中で出会った「九九」について述べてみる。
蛇足であるが、筆者にとっては重要な解読結果である。
先ず、神の付く3人の天皇について、「九九」の観点から見てみよう。説明を楽にさせてもらうため応神天皇から始める。

応神天皇に記載された「九月九日」の意味
①応神天皇は、西暦363年に誕生し、381年に19歳で天皇位に就き、403年41歳で崩御された。
古事記において、応神天皇に記載された「九月九日」の意味の一つ目は、前述の陰陽道に基づくもので、九九は「重陽」あるいは「重九」と呼ばれ、長寿や繁栄を願いあるいは祝う数字である。「重九」が「十九」歳で即位したことを示唆しているとすれば、応神の在位は23年になる。「九月九日」は、即位の年齢を示していたことになる。
また、二つ目の意味は、「九九」は81を示唆する。応神の即位年の下二桁を81とすれば、(3)81年となる。(3)は、300年代のことで、間違えるはずがなく、示す必要がない。
三つ目は、日本書紀と古事記の編者の対応である。両者は同じことを異なる表現で示す。
②に垂仁天皇(実質は崇神天皇)に関して述べるが、「九十九年」とした表現で、「九九」が存在する。古事記では、卯神天皇において「九月九日」と記載して「九九」を示す。

垂仁天皇の在位(年次)「九十九年」の意味
②日本書紀においては垂仁天皇の在位(年次)が「九十九年」である。しかし、この数字は垂仁天皇の数字ではない。日本書紀では垂仁の崩御の年齢を140歳としているが、実際に年次表を追うと、139年にしかならない。1年減じたからである。
垂仁天皇の本来の数字は100年次、140歳であり、九十九年は崇神天皇の数字であって、編者は間違えた振りをしているだけである。
別の見方もできる。「百減・百増」の手法である。神功は[百歳]で崩御したが、「百減」により、残りは零または空となる。神功は年表上では存在しない。垂仁の年次を「百年」とすると、神功の「百減」のこと(垂仁の存在に傷が付くこと)が気になり、これを避ける意味もあった。それで「九十九年」にした、と考えられる。この場合の「九九」は、垂仁自体から生じた副産物のようなものだが、暗号の世界においては目的の「九九」が得られればよかったのである。
従って、垂仁の在位99年は「九九」であって、上記①の「九九」と同じで、81を示唆する。そして81を頭に持ってくれば、81(3)年であり、その逆数の318年が崇神の崩御の年となる。
もしかすると、「九九」は「九が2個」で、「二×九=18」なのであろうか。とすれば、順読みで(3)18年となる。しかし、この解釈は、神の付く天皇であるから、不似合いである。

神武天皇の誕生137年と即位162年に隠された「九九」
③神武天皇即位の復元年代は、162年であり、81の二倍である。ここに表れた81とは「九九」である。展開すると次のようになる。
162=81×2=「九九」×2
このことについては、「記紀編者と陰陽道」に述べているので参照していただきたい。
また、神武天皇の誕生年は、137年である。
「九九」との関係は、次のようになる。
137=7×8+9×9=56+81=「七八」+「九九」
神武においては、表面的には「九九」は現れない。上記の例のように、「九九」の部分は、記載された数字に包含されていると考えればよいのだろう。

「九九」と「九九(くく)の九の段」は格付けか?
④上記の3人の天皇以外にも「九九(くく)」が見られる。神をつけたのが、格付けであるとすると、3人の天皇には「九九=81」を用いたが、その他の天皇には「九九(くく)の九の段」を用いたことになる。②で崇神天皇に「二×九=18」は不似合いと述べた理由である。ただし、綏靖天皇の「九九」は説明がつかない。

2009年10 月21日 (水)

日本書記の年代解読における「1年」の疑問

この記事の疑問は、すでに解決済みであるが、過去に「古事記の年代解読における『1年』の疑問」を投稿しているため、併せて読んでもらった方がよかろうということで、記述した。

この記事を読まれているあなたは、例えば、「日本書記における允恭天皇の崩御が453年である」を知っていることにしよう。(注、例として453年を選んだのには特別な理由はない)
どうして知ることができたのかかと聞けば、「日本書記における允恭天皇の崩御年が癸巳の年に当たるから、西暦に直すと453年である。」と答えるであろう。翌年が太歳甲午と記載されているから允恭天皇の崩御の年は確かに癸巳の年である。西暦と干支との関係は「西暦元年が辛酉の年」であるから、(干支の60年サイクルを別にすれば)そこから読み取れる。

記紀の編者は、3ケタの数字で書かれた年代を知っていたか?
それでは、記紀の編者は「允恭天皇の崩御は453年である」と知っていたのであろうか。
あなたならどう思われるか?
記紀の編者は、干支は60年サイクルで回るため、1400年の長い歴史を創作するには、ある意味で不便と思っていた。そのために神武暦を用いた。そのとき、記載年代は神武暦でよいが、復元年代は読みとり方を変えようという考えが生まれた。それがニニギ暦である。ニニギ暦は1400年の半分の700年で、復元年代を3ケタで表現でき、編者には都合がよかったのであろう。名称は、筆者が勝手につけた呼び名であるから、そういうことにしておいてもらいたい。

ニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)
神武暦は、ご存じのように、西暦でいえばBC660年を紀元とする。
編者らはニニギ暦を設定するにあたって、紀元も復元年代も重要であるから、いろいろと考えたであろう。例えば、ニニギ暦の紀元と神武天皇の復元年代が最良の年になるようにしなければならなかった。ニニギ降臨の年を元年とし、神武即位年が162年になるような年として、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)が選ばれた。(14世紀以降に西暦が成立したとき、西暦元年はニニギ暦元年と同じになった。)

編者らは、復元年代が将来解読されることを期待してか、いくつかの情報を取り込んだ。
一つは、「神武天皇15歳の立太子年神武暦紀元前37年(BC697年)と文武天皇15歳の立太子年神武暦1394年(西暦697年)のシンメトリック」である。
二つ目は、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」である。

質問の「允恭天皇の崩御が453年である」に関し、記紀の編者は、允恭天皇の崩御がニニギ暦(西暦)453年であることを知っていたのである。
記紀編者が知っていたという根拠を挙げれば、ニニギ暦(西暦)元年に当たる垂仁天皇30年次辛酉の年の記事の月日を見ると1月6日となっている。1月6日は暗号であり、ニニギ暦(西暦)61年に当たる垂仁90年次を指すのである。両方の記事が同年であることを意味する。
(1月6日は61年目を意味するなど野暮なことを言わないでほしい。例の選択がまずかったかも。次に、ニニギ暦(西暦)元年のことを述べたかったのである。)
また、697年のシンメトリックは、西暦で表せば見えてくるが、記紀編纂の時期には西暦は存在しない。記紀の編者は、ニニギ暦を持っていたので、「ニニギ暦697年のシンメトリック」を理解していたのである。

さて、この記事の本来の目的は、「ニニギ暦元年は、神武暦660年か、それとも神武暦661年か?」の疑問を、明らかにしたかったのである、選択を誤ると1年の誤差が生じるのである。

シンメトリックの中央年は、2年ある
神武天皇15歳の立太子年BC697年と文武天皇15歳の立太子年697年のシンメトリックの中央年は何時かというと、神武暦660年(BC1年)と神武暦661年(西暦1年)の真ん中にある。これではニニギ暦の元年を神武暦660年庚申の年か、神武暦661年辛酉の年か、どちらかに決めなければならない。選択を間違えると、復元年代が1年の狂ってしまう。
筆者はニニギ暦元年を神武暦661年辛酉の年(西暦1年)とした。
理由一つは、神武即位年が辛酉であるから、ニニギ降臨の年も辛酉であろうという推測による。
理由の二つ目は、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解読結果である。暗号解読の詳細は同名の記事を読んでいただきたい。
暗号解読結果は、『復元時の神武即位年は神武暦822年』である。ニニギ暦で説明しようとすると、この記事のテーマである1年の疑いに触れてしまう。「幸いなことに、神武暦と西暦とは認知されており、相互に年代の変換が可能である。神武暦822年は西暦162年である。」ニニギ暦元年を神武暦661年辛酉の年(西暦1年)としたので、神武暦822年はニニギ暦でも162年になる。

ニニギ暦の事例
もう一度、垂仁天皇の事例に戻る。神武暦661年(西暦1年)には前述した記事があるが、神武暦660年(BC1年)に相当する垂仁天皇29年次には記事の記載がないのである。やはり、ニニギ元年は1年辛酉の年ということになる。
表題の「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」とは、ニニギ元年がいずれの年かという疑問であり、上記の垂仁天皇30年次辛酉の年の記事(月日)によって疑問が解消したのである。
事例を述べようとしたが、例1)のような復元年代を指すのは多く見つかるが、既知の年代の数が少ないため、紹介しにくい。既知の例では、例2)百済武寧王誕生462年なら納得がいくのではなかろうか。
例1神武即位前期戊午年(前663)9月5日はニニギ暦(西暦)159年を指す。(数字の逆読み、神武即位162年の3年前)
例2)雄略5年4月、6月、7月は、百済武寧王誕生、ニニギ暦(西暦)462年(復元年代計算、5×4+5×6+5+7=62→462年)

2009年6 月11日 (木)

「弘仁私紀」序の解釈

古事記が偽書であると主張する大和岩雄氏は、「古事記成立考」(1975年、大和書房)において、古事記の編者は、「弘仁私紀」の作者、多神長らと推測する。他方、「弘仁私紀序」の筆者は別人の多氏一族だとする。ややこしいことである。
「弘仁私紀序」が示す年代に関して、筆者の解読結果は、大和岩雄氏の解釈と異なる点がある。それを紹介し、話の発端にしたい。

弘仁私紀序」には次のように書かれている。
但自神倭天武天皇庚申年、瀲尊第四男、狭野尊也、庚申、天皇生年、
至今然聖主嵯峨弘仁十年一千五百五十七(歳)、御宇五十二帝庶、・・・・略

大和氏は、神武誕生年を221年庚申の年としたうえで、次のような考えを述べている。
日本書紀は讖緯思想に基づく即位年をBC660年辛酉とする。誕生年は45歳甲寅の年の記載からBC711年庚午と推測する。それに対し、古事記は讖緯思想を捨て、当時の要求に合った庚申信仰に基づき、神武誕生年をBC721年庚申の年とした。」

素朴な疑問であるが、「弘仁私紀」序には、神武は52歳で即位したと記載されている。大和氏は127歳と137歳の差の目をつけ、BC721年庚申の年を誕生年とする。そうすると、即位はBC670年辛亥の年になるが、それでよいのだろうか?
何の説明もないが、こういうのを「いいっぱなし」という。(筆者の見解を最後に述べる)

「神武即位年は、庚申の年」の解釈も可能である
上記の「弘仁私紀」序の文面をよく読むと、「神武誕生年は庚申」と読めるが、全く別の解釈もできる。
「天皇生年」は(子供が生まれた、という意味の)誕生年を指してはいない。天皇の誕生の意味である。そうすると、「天皇即位が庚申の年」という意味になる。

「ニニギ暦697年のシンメトリック」の意味
日本書紀では神武即位年を辛酉の年と記載しているが、古事記には即位年に関する記載は何もない。日本書記から復元年代を得るにはニニギ暦を必要とする。ニニギ暦については「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」(カテゴリ「記紀の謎」)で説明しているので見ていただきたい。
その原理は、「ニニギ暦697年のシンメトリック」の中央年を、ニニギ暦元年とする。ところが、中央年は、「神武暦660年庚申の年」と「神武暦661年辛酉の年」の2年あり、どちらかの年に決めなければならない。日本書記の解読では、「神武暦661年辛酉の年」をニニギ元年に設定した。神武即位年が辛酉の年と記載されているのを受けて、辛酉の年を重視したためである。
仮に、「神武暦660年庚申の年」を選び、日本書記の記載を1年前倒しすると、「神武即位年はBC661年庚申の年」となる。そのようなことが許されるかどうかは、別の問題である。
古事記の編者または弘仁私紀序の編者が、この「ニニギ暦697年のシンメトリック」を知っていて、日本書記の記載を無視し、敢えて庚申の年を選んだとすれば、可能なことになる。

弘仁私紀序の暗号解読
しかし、次のような否定される解読結果が得られている。
筆者の解読結果は次の通りである。
日本書紀に記載されたニニギ降臨の「百七十九万二千四百七十余歳」の暗号解読は日本書記を講義する多人長ならできるはずである。「一千五百五十七歳」の暗号は、同様の方法によって作成されたと仮定して、解読してみる。
一千五百五十七(1557)年は、頭の二桁を加算すると、657年となる。
嵯峨弘仁十年は、819年である。
819年から657年遡ると(引くと)、162年が得られるが、162年が神武即位の復元年代である。
別な解読では次のようになる。(実質は上記の解読と同じ。)
西暦819年は神武暦1479年である。上記の657年遡ると(引くと)、822年になるが、ニニギ降臨の暗号の解である822年と一致する。西暦に直せば162年である。
162年は、筆者が解読した古事記及び日本書紀の神武即位の復元年代に完全に一致する。
また「一千五百五十七歳」は「百七十九万二千四百七十余歳」と同様に、それ自体は意味のない数字に過ぎない。

弘仁私紀の86年の数字は、日本書紀の数字と一致する
冒頭で、BC721年庚申の年を誕生年とする。そうすると、即位はBC670年辛亥の年になるが、それでよいのだろうか?何の説明もないが、こういうのを「いいっぱなし」という。
筆者は次のように考える。
神武の誕生年を10年前に持ってきたのだから、神武の在位(年次)は86年になる。
86年は、日本書記の年代解読、特に神武の解読においてきわめて重要な数字である。
日本書紀では、神武東征開始の年、神武暦紀元前7年、BC667年甲寅に太歳干支が付与されている。一般には即位年に付与されるものであるから特異である。
また、神武崩御後に綏靖が天皇位に就くまで、3年の空位年が存在する。
東征7年、神武在位76年、空位年3年を加算すると、86年になり、上記の数字と一致する。弘仁私紀序は、86年の内容まで踏み込んでいないため、内容を無視すれば(即位に時期を無視すれば)、日本書紀と一致するということだけが残る

さて、大和氏の見解、筆者の解読結果は、ばらばらである。
辛酉と庚申は1年違いである。
おそらく、弘仁私記序の作者には、100年後の時代の変化により神武の属性を変える必要性が生まれたと考える。そのため、弘仁私記序において、古事記に欠落している誕生年や即位年や干支などの属性の情報、即ち、本来古事記が持っていた内容とは異なる属性の情報を示したのであろう。

古事記の5倍暦は、何を意味するか?

既に投稿済みの「古事記自前の復元年代は、5倍暦で解読できる」の続編である。
5倍暦を初めから否定する人には、記紀の年代解読などできるはずがない。5倍暦がどのような意味を持っているかは、遊び心を持って、馬鹿になったつもりで考えなければ答えは得られない。

古事記の編者は、日本書紀の編者が4倍暦を用いたことに対し5倍暦を採用した。
なぜ5倍にしたかは、日本書紀の4倍の数字より大きな数字になるからである。復元在位157年は古事記の編者も分かっていた。5倍にすることで、日本書紀に対し、157年分大きくできたのである。古事記における神武から崇神までの10人の御年(みとし)の合計は、前述したとおり786年である。日本書記は631年であり、その差は155年である。実際には、155年の年数を大きくとることができた。(2年食い違うが、意味はない。実質は1/4または1/5の数字に過ぎないので、勘違いしないように!)
古事記は、155年分の在位(御年)を10天皇に振り分ければ、天皇1人で15.5年分大きくできる。実際には、神武で61年、綏靖から孝昭まで約10年ずつ計43年、孝安21年、孝霊30年、開化3年で合計158年大きくなっている。

今までの解釈では古事記の137年と日本書紀の127年を比較して、古事記の方が日本書紀より10年大きくしたと解釈されるが、単純すぎる。古事記の御年137年は日本書記の127年より10年大きくしたのは「数字」としては確かである。しかし、古事記の御年は「歳」で表示されているが、意味(単位)としては「年」である。従って、厳密には127歳と137年とを比較することはナンセンスである。古事記の137年は、日本書記の在位76年と比較すべきで、在位を61年分大きくしたということを見誤ってはならない。
(61年には意味がないと思われるが、干支一周りの60年でないのは、「弘仁私記序」がいう通り干支が1つ移動することに関係するかも知れない。)

次に、神武の御年137年は5倍暦を解消すると、27.4年となる。間違いなく、神武の在位は27年あったのだ!
日本書記の記載内容を踏まえた神武の年次表を作成し、在位を求めるとき、127歳から100歳を引いた27歳を、年次表の神武27年次に崩御したと位置づけ、27を二倍暦と見做し、27の1/2の13.5年(≒14年)を神武の在位とする。この際、古事記は137年を元に、神武37年次に崩御したとして、同様に計算をすると、在位19年が得られる。多くの方の神武の復元在位が、14年か19年かで分かれるのはそのためである。
ところが、5倍暦は、27.4年(≒27年)という年数を示す。古事記も日本書記と同じに、神武27年次に崩御したことを示唆する。古事記の神武在位は、日本書紀と同じ、14年で正しいのである。
以上が、5倍暦から分かったことである。

古事記自前の復元年代は、5倍暦で解読できる

「新説古事記復元モデル」(「記紀復元モデルの比較」2009/06/09 投稿の記事を参照)は、日本書紀の講義において復元年代を紹介するのに便利に出来ている。ちょっとしたメモさえあれば、各天皇の年代がその場で計算でき、復元年代の結果も日本書記とほとんど同じになるからである。
そのため、日本書紀の手を借りない古事記自前の復元年代は存在しないと思っていた。最近、神武東征から崇神までの間の各天皇の年代が古事記の御年のみで復元されることが分かったので紹介する。

表題に示した通り、各天皇の御年は5倍暦で書かれている。大体、5倍暦など使われるはずがないと思われるのは当然である。筆者も同様であったが、やはり5倍暦である。
常に記紀(古事記と日本書紀)の編者は同じことはしないと述べてきた。日本書記は4倍暦を基本にしているが、古事記は5倍暦であり、「同じことはしない」とは、まさにこのことである。
以下に古事記が5倍暦でできている根拠を述べる
神武から崇神までの10人の天皇の御年を加算すると、合計は886年となるが、崇神の御年168年は100年を引いた68年とする。合計は786年である。
次に、786年を5倍暦の年数と見做し、1/5を求めると157.2年≒157年が得られる。
崇神崩御年は既知の318年であるから、157年遡ると、神武即位年は、162年となる。
[318-(157-1)=162]

また、日本書紀のニニギ降臨の暗号「179万2470余年」から得られる822年は神武即位年を指したが、古事記においては、次の式が示すとおりの意味である。
[786+37-1=822]
上記の式の37(実質36)は5倍暦で、7.4年(実質7.2年)を意味する。即ち162年から東征開始年7.4年を引くと154.6年(実質154.8)で、155年とすると日本書記の東征開始年であり、太歳干支付与の年である。
(なお、弘仁私記序に現れるBC738年は4倍暦の数字であるから、ここには現れない。)

次に、各天皇の在位を求める。古事記には御年しか記載がなく、その数字は5倍暦であるから、御年を1/5にすると在位になる。
神武:137年×1/5=27.4年。 綏靖:45年×1/5=9年。 以下同様に計算する。
在位の合計は、合計在位で計算した在位157年となる。
古事記自前の復元年代は、日本書紀の復元年代や「新説古事記復元モデル」と一致しない。上記の内容から推測すると、この5倍暦は、神武の在位と神武~崇神崩御の期間に対してのみ適用されるらしい。

この古事記自前の復元年代から分かることは、神武即位162年と崇神崩御318年の関係を明らかにしてくれたことである。
参考として、「表94 古事記の5倍暦復元年代」を添付する。

表94 古事記の5倍暦復元年代

追記(2009/10/17)
最近になって、古事記の復元年代が5倍暦でできていることをチェックした結果、新しい発見があったので、その内容を述べる。

筆者は、「古事記自前の復元年代は、5倍暦で解読できる」の記事では次のように述べた。
「神武から崇神までの10人の天皇の御年を加算すると、合計は886年となるが、崇神の御年168年は100年を引いた68年とする。合計は786年である。
次に、786年を5倍暦の年数と見做し、1/5を求めると157.2年≒157年が得られる。
崇神崩御年は既知の318年であるから、157年遡ると、神武即位年は、162年となる。[318-(157-1)=162]
(崇神崩御年318年から御年の合計年数を遡ると、786年はBC467年となる。また、886年はBC567年となる。)」

少し説明が不足している。(新しい発見があり、補足する。)
「神武から崇神までの10人の天皇の御年を加算すると、合計は886年となる。
古事記の崇神崩御年は既知の318年であるから、886年遡ると、神武即位年は、BC567年となる。[318-(886-1)=-567]
日本書記の神武即位年BC660年には100年不足する。」

「上記の5倍暦の計算では、崇神の御年168年を68年としたが、100年減じるだけなら崇神と決めつける必要はない。神武の御年137歳を37歳と見做し、100年を減じても同じである。では、この100年は何を意味するかであるが、4倍暦で実25年を意味する。
上記の5倍暦の計算では、100年減じた数字を用いて、崇神崩御年の318年から計算し、神武即位年の162年を得た。100年を4倍暦とし、25年を加味すると、137年になる。」

古事記の年代を纏めると次のようになる。
古事記の御年の年数を在位年数と見做し、既知の崇神崩御年は318年から遡ると、記載上の神武誕生はBC567年、即位はBC467年となる。
神武誕生年から即位年までの期間は100年で、4倍暦と見做すと実年数は25年となる。
神武即位年から崇神崩御年までの期間は、786年で、5倍暦と見做すと実157年となる。
崇神崩御年から実年数を遡ると、神武即位年は162年、誕生年は137年となる。
復元された神武即位年および誕生年は、日本書紀の復元年代と一致する
。」

この結果が、古事記の解読に関係するか、まだ検討できていない。

2009年6 月10日 (水)

古事記の年代解読における「1年」の疑問

筆者は古事記に記載された御年の数字をもとに年代を解読しようとしている。また古事記には、弘仁私紀「序」との関係も見ていかなければならない。
古事記自体には、御年をはじめ、月日や治天下年数の数字があるが約60のデータがあるに過ぎない。そこから読み取れることには限界がある。
それでもかなり正確に復元年代の解読ができてきたと考えるが、疑問が一つある。謎といってもよい。
筆者の記事を読まれる方なら、知ってもらった方がよいのではないかと思い、敢えて述べることにした。
疑問を具体的に述べれば、「日本書紀の年代解読のために設定したニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)であるが、そのまま古事記に適用できるか? 」である。
言い換えれば、古事記のニニギ元年は神武暦660年庚申の年(西暦BC1年)かも知れないし、神武暦662年壬戌の年(西暦2年)かも知れないのである。

当初から、古事記の数字をいろいろと展開する中で、「1年」の食い違いが生じることがある。
例えば、「表51 神武紀元前紀の記紀比較」を見ていただきたい。

表51 神武紀元前紀の記紀比較

この表は、日本書紀と古事記の関係を見ている。古事記の年代については、記述を基に日本書紀の神武の年代に移行させている。言い換えれば、表に書かれた古事記の年代は、シンメトリックを利用したもので、実の年代に対し、虚の年代を示している。
ここで問題なのは、日本書紀の「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解読結果、前822年に対し、前821年という1年違いの年代が見られることである。いずれの数字も虚の数字である。
シンメトリックとして反転させると、日本書紀の822年(辛酉)に対し、古事記は821年(庚申)となりと即位年が1年異なる。
その原因は、いろいろ考えられる。単純に考えれば、シンメトリックを用いて紀元を求めることに意味があるのか、ということである。
次に考えられることは、137年の意味をニニギ降臨の年代を、誕生と読み替え、年齢を計算するような計算方法が間違いであり、古事記の御年137歳は、神武誕生の前に137年間が存在すると解釈すればよいのかもしれない。
結局のところよく分らないので、「1年」の食い違いの疑いは解消しないのである。

以上に述べたように、解釈次第で無視することもできるし、さらにこの「1年」を認めると、他の結果と齟齬を来す面もある。筆者の設定に何か問題があるのか、気にはなったが、古事記の年代解読結果から見て、「古事記の年代の紀元は、日本書記と同じに考えてよい。」とした。即ち、「古事記と日本書紀の年代解読のために設定したニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)であるが、古事記の年代にも適用される。」としている。

疑問を持ち始めたのは、弘仁私紀序を見てからである。序には神武の誕生は庚申と読める内容が記載されているからである。しかし、現時点では、古事記に対する疑いというよりは、弘仁私紀序により強い疑いを持っている。
筆者は古事記の偽書説に関しては興味がない。偽書ではないと言っているのではなく、どっちでも構わないと考えているからである。
古事記の年代は、暗号でできている。また、鳥越憲三郎氏は、「古事記と弘仁私紀序の両書は同じ編者の作かも知れない」と述べている。とすれば、弘仁私紀序も古事記と同様に暗号を用いていると考えられる。解読してみると、記載された見掛けの内容と異なる結果も得られている。その中には、筆者の古事記に対する考えと同じ結果も見られる。解読結果の一部は既にカテゴリ[偽書と弘仁私紀」に投稿済みであるが、結論はまだ纏まっていない。

弘仁私紀序を読むと、日本書紀に対する解釈自体が、100年後には変わったという印象を受ける。あるいは、古事記本文の解釈に対しても同様に変わったのか、それとも弘仁私紀の作者が古事記を書いたとすれば、・・・・。
弘仁私紀序の記述だけでなく、他にも解釈が異なるものがあるようだ。
北畠親房が編纂した「神皇正統紀」(1339年)には、「神武は五十一にて辛酉の年に皇位についた。」と記される。

追記
「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」を読まれると、参考になると思う。