Google
 

2009年6 月18日 (木)

日本書紀と古事記の紀年論に関する一考察

記紀の紀年が同じか、それとも異なるかについて述べておく必要がある。
それには、添付資料「表51 神武紀元前紀の記紀比較」を見ていただきながら、下記の記事を読んでいただきたい。

表51 神武紀元前紀の記紀比較

日本書紀は、神武即位年を162年(神武暦822年)とし、神武誕生年を求めると137年(神武暦797年)になる。137年のとき1歳とすると、162年に26歳になる。
古事記の神武の御年は137年であるが、日本書紀の137年と紀年が同じか確認しなければならない。紀年が異なれば、同じ137年でも実際の年代が異なるためである。

神武誕生を137年とすると、137年前には何があるのかを知る必要がある。神武即位年はBC660年であり、このとき52歳(実26歳)であるから、誕生年はBC711年(実BC685年)となる。この実の誕生年BC685年を137年とすると、1年(紀元元年)はBC822年となる。(BC821年も有りうる……後述)
822年は前に説明したニニギ降臨の暗号「822」と同じである。記紀(日本書紀と古事記)の編者は、「822」という暗号を知っていたのである。
記紀の編者はいつものことであるが、「822」に対し全く異なる扱い方をした。日本書紀の編者は、822年=162年を神武の即位年とし、162年前、すなわち神武暦661年=西暦1年をニニギ暦元年とした。日本書紀のニニギ暦元年は西暦1年である。

以下は、「仮説1」である。
古事記の編者は、日本書記とは逆に、BC822年を元年(例えば、御年紀元元年と呼ぶことが出来る)とし、137年後のBC686年を神武の誕生年にした。従って、元年から137年後が神武誕生年であり、さらにその25年後のBC661年が神武即位年となる。
神武即位年は日本書紀BC660年辛酉に対し、古事記BC661年庚申となり、1年食い違う。

先ず、日本書紀を検証する。 
日本書紀の紀年を決めたのは、神武暦822年=西暦162年である。822年が神武暦を指すとすれば、西暦162年は確かであり、動かせない。
筆者は、神武暦前37年=BC697年と神武暦1357年=西暦697年はシンメトリックであり、その中央年である神武暦661年=ニニギ暦(西暦)1年を紀元とした。シンメトリックの片側は697年と696年になっている。要するに、シンメトリックは神武暦660年と661年の両方の中央にあるからどちらかを選択しなければならない。恐らくニニギ暦を考案した編者は、神武即位年を辛酉の年としたと同様に、ニニギ暦の紀元も辛酉の年を選択したと考える。

古事記について検証する。
上記の「仮説1」の説明は、822の解釈を、BC822年としたことにより、BC661年庚申の年が神武即位年となる。
仮に、BC821年を紀元とすると、137年後はBC685年で誕生年、さらに25年後はBC660年で即位年となり、日本書紀と一致する。
また、古事記御年137年が、日本書紀の127年に対応すると考えるなら、神武誕生年はBC711年から10年遡ったBC721年庚申の年になる。元年がBC821年であっても、(BC822年であっても)100年(101年)の差があり、BC721年とBC821年の関係を説明できない。
上記のBC822年を元年とするだけの根拠は、弘仁私紀序も含めて見当たらないので、上記のBC822年を元年とした「仮説1は否定される」。

再度、シンメトリックの関係について、考えてみる。
以下は、「仮説2」である。
中央年は神武暦660年=ニニギ暦1年=BC1年であってもシンメトリックは成立する。
その場合はどのようになるであろうか。
上記の式は、神武暦1年=ニニギ暦前559年=BC660年辛酉の年、となる。
さらに式は、神武暦前1年=ニニギ暦前660年=BC661年庚申の年、となる。
神武暦だけを見ていると考えられないことだが、神武暦をニニギ暦に変換すると、庚申の年が得られる。
上記の式を展開すると、BC822年=ニニギ暦前821=神武暦前162
シンメトリックの基準年を神武暦660年としてニニギ暦を設定すると、ニニギ暦前821年が紀元元年となり、BC822年である。(このような複雑な説明をしなくても、神武暦に対しニニギ暦を1年前に設定したのだから、当然である。)
「仮説2」により、「仮説1が復活する」。

筆者は、神武暦とニニギ暦の関係を、きめ細かく追いかけることができたが、上記の「シンメトリックのからくり」を知らなければ、容易に到達できるものではない。
古事記の編者あるいは弘仁私紀序の作者は、上記のことを知っていたとしたらどうだろうか。実際に古事記には、御年137年しか記載されていないから、何とでも解釈できる。
古事記には、それ以前の原古事記が存在したという見解がある。現存古事記は文言や系図が改ざんされたが、原古事記以来作り上げられた数字には手が入らなかったと考えられる。
特に、弘仁私紀序のみを考えると、古事記全体の年代に関して述べていると思えない。神武の誕生年および即位年だけ「庚申」が説明できればよかった、と考える。
上記の「復活した仮説1」は、数字を変えずに、解釈だけで「庚申」とすることができるのである。
まだ、弘仁私紀序と古事記の関係は読み切れていない。以上述べたことが解決に結びつくかどうかもわからない。これからの課題である。

2009年6 月12日 (金)

記紀編者が用いた神武暦とニニギ暦

編者が千数百年間の年代をどのように把握していたのか知りたかった。
ニニギ降臨の暗号解読から分かったのは、神武暦の使用である。記紀の編者は、当時の第一級の天文・暦博士である。とすると、編者自身が作成している記紀に神武暦を用いたとしても不思議ではない。
注1) 神武暦(神武天皇即位紀元)は明治5年に定められ、明治6年から施行されたものである。編者が考えた神武暦と同じである。

それだけでなく、日本書紀の「月日」も暗号であり、解読には神武暦やニニギ暦を必要とする。さらに、古事記の「序の年月日」や「御年」においても同様である。
また、干支で何回りとして把握していた可能性もある。
神武暦やニニギ暦の数字と干支の使い分けまでは分からないが、数字は干支に容易に変換できるのであるから、数字でも干支でも同じ結果が得られる。
例1)神武暦822年は、干支27回りと12年である。[822÷30=27余り12である。30は2倍暦の30年である]
例2)神武暦660年は、干支22回りである。従って、神武暦822年は、干支22回りを引くと、5回りと12年となり、ニニギ暦162年になる。[30×5+12=162]

編者は日本書紀の編纂にあたり、歴史の始まりを神武即位からとして、BC660年とすることを考えた。大幅に延長された年代を扱うのには、神武即位年を紀元元年とする神武暦が必須であった。こうして作られたものが、日本書紀である。記載された表の世界である。
また、編者は元資料を持っていた。それは延長前の正しい年代の歴史である。そして、この年代を暗号として日本書紀の中に隠した。用いた暦を筆者はニニギ暦と呼ぶ。陰陽でいう裏の世界である。

年代を大幅に延長したといっても千数百年の歴史である。なぜそのような、異なる二つの暦を用意したのであろうか。
編者が扱った歴史は、表と裏の二つの歴史である。
編者の立場に立てば、日本書紀に記載された物語は「虚」で、隠した事実が「実」である。
想像するに、神武暦は「虚」の世界の暦であり、それを「実」の世界に持ち込むことを嫌ったと考える。
そうすると、明治に定められた神武暦(神武天皇即位紀元)は、「虚」の世界の暦ということになってしまう。

ニニギ歴とは(定義)

ニニギ暦とは、日本書紀巻第三の神武天皇即位前期甲寅年の記事に記載されたニニギ降臨の暗号「129萬2470余歳」の解読により得られたものであり、神武暦、すなわち「神武天皇即位紀元」に対応させれば、「瓊瓊杵尊(ニニギ)降臨紀元」である。
「179萬2470余歳」の暗号は、天祖彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の降臨から御肇国天皇である崇神天皇の即位までの期間が「300余年」であることを意味する。従って、崇神即位年である神武暦962年から300余年遡った年をニニギ降臨紀元元年とする。
注3)「300余年」を二倍暦と見做し、「150余年」と見做し、神武東征の開始年(神武暦155年)から150余年遡った年をニニギ降臨紀元元年とする見方もある。

なお、300余年では年代が不明確であり、定義としては次のとおりとする。
神武天皇の冒頭に記載された、神武立太子の年(神武暦前37年、西暦前697年)と日本書紀最終年に記載の文武(珂瑠皇子)立太子の年(神武暦1357年、西暦697年)をシンメトリックと見做し、その中央年(神武暦661年、西暦元年)をニニギ降臨紀元元年とする。
注4)当初、神武即位の辛酉の年(神武暦元年、西暦前660年)と記紀編纂開始直近の辛酉の年(神武暦1321年、西暦661年)の中央年(神武暦661年、西暦元年)をシンメトリックの基準年とし、ニニギ降臨紀元元年とした。

ニニギ暦は、西暦と同じとなるが、全くの偶然によるものである。ニニギ暦が考案されたのは、西暦が考案された時期(15世紀)より800年以上前である。

ニニギ暦元年のその他の根拠は、添付の「表1 神武暦とニニギ暦の関係」(「表1-1 主要事項の年代対比表」を含む)を参照していただきたい。

表1 神武暦とニニギ暦の関係

2009年6 月 8日 (月)

「歴史発見物時事コラム」の先見性

筆者は、パソコン上で多くの方の記事を見させてもらっている。歴史学者もいれば、アマチュアの方もいる。学者であろうとアマチュアであろうと、共感する記事や新しいことを教えてくれる記事を見つけるとうれしいものである。
筆者が現在、関心のある学者は「日本書紀の真実/紀年論を解く」の著者である倉西裕子氏である。この方を知ったのは、「歴史発見物時事コラム」を読んでからである。史学を勉強され、日本史研究に入られたようであるが、コラムの記事を見て、驚かされた。記紀に取り組んで正味半年の筆者には新鮮に思えた。

第3回歴史発見物コラムで、「神武立太子紀元前697年と文武立太子697年」について述べられているが、「前697年と697年のシンメトリック(対称性)」に気付かれたことはすばらしいことである。しかも、その中央が紀元元年であることにも気づかれている。ところが、「日本書紀が成立した720年の頃には、西暦1年を紀元とする紀年法が伝わっていた可能性を示すことになるからです。」と述べている。なぜ、シンメトリックの中央年を「西暦」に結び付けてしまったのか理解しがたい。720年頃には「西暦」といわれるものはまだ存在せず、まして日本書紀の編者が「西暦」など知るはずもないのに。
筆者は、「ニニギ降臨の暗号」や「BC660年(辛酉)と661年(辛酉)のシンメトリック」など別の観点からシンメトリックの中央年を「ニニギ降臨紀元」としたのであるが、その後このコラムを読んで、「神武立太子紀元前697年と文武立太子697年のシンメトリック」を取り込んだいきさつがある。何しろ筆者がこれを考えた当時は、古事記の推古天皇までしか対象としていなかったので、文武立太子が記載された持統天皇など眼中になかったのである。シンメトリックの中央年に力点を置いて何らかの解釈をされていれば、倉西氏の記紀解読の方向も変わったと思われる。

また、このコラムでは、「日本書紀紀年法に複合的な数学的な構築物としての性格を与えている。」と述べられている。多分「プラスマイナス120年構想」を想定してのことと思われる。筆者は、日本書紀の編者らが「37」という数字にこだわりを持ち、「37の倍数」を利用して年代構成を行ったことを発見した。日本書紀はまさに「数学的な構造物」である。
「歴史発見物時事コラム」で見られた読解力や分析力と豊富な知識は、筆者が数字だけを頼りにしているのと違い、羨ましいくらいすばらしい特性である。その特性を活かされることを期待する。

最後になるが、「日本書紀紀年法には、プラスマイナス120年構想が設定されている」との説は、疑問である。確かに神功皇后と応神天皇に関しては120年という数字が重要であるとしても、日本書紀の紀年法に拡大することはできない。

追記1(2009/03/21)

「ニニギ降臨紀元」が偶然「西暦紀元(キリスト紀元)」と紀元を同じくする。この話をするといぶかる方々がいる。説明するのも面倒になってやめてしまうことになる。仮に「ニニギ降臨紀元」が間違いであったとしても、記紀編纂の数百年後(15世紀か?)にできた「西暦紀元」によって否定されるいわれは全くないのである。
「ニニギ降臨紀元」の元年(西暦元年)は辛酉の年である。神武即位の年BC660年も辛酉の年である。そして、日本書紀の記載年代の範囲は、BC660年から697年までの1353年、あるいはBC667年(最初の太歳干支の年)から697年までの1357年、BC697年(神武立太子年)から697年までの1394年といろいろ解釈できる。仮にその1/2は678年、682年、697年である。以上の年数を697年から遡るか、または神武暦で読めば、神武暦661年(西暦元年)あたりが最も近い辛酉の年に当たるのである。

追記2(2009/11/06)

「日本書紀紀年法には、プラスマイナス120年構想が設定されている」という記事の反論という程のことではない。筆者の備忘録のつもりである。
日本書記の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の記載年代の解釈は、編者の目的によって幾通りかの読み方がある。

応神誕生年および応神崩御年の復元を目的とする場合加算162年
仲哀天皇崩御年200年(仲哀天皇9年次)→+162年⇒362年(古事記の崩年干支の復元
神功皇后摂政元年および応神天皇誕生年201年→+162年⇒363年
(応神崩御年241年→+162年⇒403年)
応神崩御後の空位年242年→+162年⇒404年(空位年の存在を示すため、重要

百済関係の年代(および神功皇后崩御年)の復元を目的とする場合加算120年
243年+120年⇒363年(243年以降の百済の記事全般に適用される)
神功皇后崩御269年→+120年⇒389年

仲哀崩御年および応神即位年の正しい復元を目的とする場合加算111年
(仲哀崩御年269年→+111年⇒380年)
応神即位年270年→+111年⇒381年
注)111の根拠は、[162-69+18=111]および[37年の3倍]

応神崩御年の正しい復元を目的とする場合加算93年
応神崩御年310年→+93年⇒403年
注)93の根拠は、[111-18=93]

2009年6 月 6日 (土)

古事記の御年(みとし)が示す紀年論と復元年代

古事記の紀年に関して述べる。
すでに、日本書紀の復元年代に関しては、「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」において述べたが、御年137歳(年)は、神武誕生年137年で一致する。
137年を基準に、137年遡った紀元元年は、ニニギ暦(西暦)元年に当たる。
神武の御年だけなら、偶然の一致と思われても仕方がない。しかし、各天皇の御年も年代に関わる数字である。

古事記の御年が暗号であり、御年を用いて復元年代を求める方法を次の記事で紹介した。
「古事記の復元年代の算出方法(まとめ)」(分類:古事記の復元年代)
復元年代を得るための基本となる計算式は次のとおりである。

復元年代=基準年+(「御年」、「月日」、「治天下年数」の組み合わせ)-1

先ず、解読に当たって、編者がよく用いる「百減」や「百増」の法則について述べておく。御年は百歳を超える天皇が何人もいる。「百減」は、御年から百を引いた残りの数字が意味を持っていると見做す。「百増」は、その逆の意味である。さらに、「百増」には、復元年代が大きな数字になってくると、御年などの数字の他に百を加算することもある。
神武の場合も百を引いた37を神武の在位(二倍暦)と看做す見解も見られる。ここでは、それとは違った意味の「百減」について述べる。「百減」を応用し、綏靖から40年、安寧から40年、懿徳から20年、合計100年を減じてみる。

神武の御年、一百三十七歳→神武誕生1歳、ニニギ暦(西暦)137年
綏靖の御年、四十五歳→40を引く→15歳(神武立太子)、151年[137+15-1=151]
安寧の御年、四十九歳→40を引く→19歳(東征開始)、155年[137+19-1=155]
懿徳の御年、四十五歳→20を引く→25歳(東征終了)、161年[137+25-1=161]
日本書紀の復元年代と同じになる。

卑弥呼死す、壹与立つ

御年が、神武の成長過程の年令だとすると、誕生年137年に成長した時の年数を加算すれば、その時の年代が得られる。神武の成長過程が各天皇の御年と見做せばよいのである。
綏靖の御年、四十五歳→綏靖崩御年は、181年[137+45-1=181]
安寧の御年、四十九歳→安寧崩御年は、185年[137+49-1=185]
懿徳の御年、四十五歳→懿徳崩御年は、190年[137+54-1=190]
または、195年[137+59-1=195]
孝昭の御年、九十三歳→孝昭崩御年は、229年[137+93-1=229]
孝安の御年、百二十三歳→孝安崩御年、248年[137+112-1=248](女王卑弥呼死す
孝霊即位年、―――――――――――、249年[137+113-1=249](女王壹与立つ
孝霊の御年、百六歳→孝霊崩御年、267年[162+106-1=267]
孝元の御年、五十七歳→孝元崩御年、295年[(137+157-1)+2=295]
開化の御年、六十三歳→開化崩御年、301年[(137+163-1)+2=301]
崇神の御年、百六十八歳→崩御年、318年[162+168-12=318]または317年

上記によって得られた復元年代は、日本書紀の解読で得られた年代とほぼ一致する。ただし、孝安崩御年(孝霊即位年)は一致していない。

2009年6 月 5日 (金)

日本書紀の紀年論と復元年代の紀元

大辞林によれば、紀年とは、ある紀元から数えた年数、と説明される。筆者は、延長された年代で記載された日本書紀の復元年代の紀元を明らかにすること、それを論じることを紀年論と理解していた。
日本書紀の紀年および紀年論について述べようとしたら、別の意味があるようだ。
「日本書紀の真実…紀年論を解く」の著者、倉西裕子氏の紀年論を借用させてもらう。
「明治時代の活発な紀年論争の過程において『紀年論』という研究分野が形成された。『紀年論』とは、日本書紀の編年の構造を解明し、史実に基づいた紀年と実年代との関係を再構築していこうとする学問領域のことです。」
ということで、歴史の専門家の解釈と多少異なるかも知れないが、筆者の紀年論を述べることとする。

神武暦とニニギ暦の関係

まず、次の仮説を見ていただく。
日本書紀の編者は、編纂にあたって年代を大幅に延長した。その際に用いた紀元は、神武即位BC660年(辛酉の年)であった。「神武天皇即位紀元」である。
それに対して、日本書紀の復元年代(実年代)の紀元は、ニニギ降臨の暗号に記載されていることから、「神武天皇即位紀元」(以下、神武暦と呼ぶ)に対応させ、「瓊瓊杵尊降臨紀元」(以下、ニニギ暦と呼ぶ)とする。

日本書紀の表に現れた年代、即ち記載年代は神武暦で示されているが、裏に隠された復元年代はニニギ暦で示される。陰陽道における、陰と陽である。
なぜ、660年しか違わない二種の暦を用いたのか、一言で言うなら、編者らは虚の世界(延長した年代)に用いた紀元を、実の世界(正しい年代)には用いたくなかったのである。(詳細は別途述べる。)

上記の仮説に基づき、ニニギ暦元年の年代が具体的に何時なのかを順次明らかにする。
1) ニニギ降臨の暗号「179万2470余年」の解読結果として、「822」が得られる。「822」とは、神武暦822年を意味する(西暦162年である)。この年を神武即位の年と見做す。
暗号の解読結果及び解読方法については、「ニニギ降臨の暗号『179万2470余年』の解読」を参照してください。
2) 日本書記の人代は、神日本磐余彦尊(神武)が15歳になったときの立太子年から記載され、年代は神武暦前37年(西暦BC697年)である。
他方、日本書紀の記述は、珂瑠皇子(文武)が15歳になったときの立太子(即位)年で終わる。神武暦1357年(西暦697年)である。
日本書紀の編者は、数字に関わるいろいろなアイディアを採用したが、特に「シンメトリック(対称性)」には強い関心を示している。上記の二人の立太子の年代はシンメトリックであり、その中心は、神武暦661年(辛酉の年、西暦元年)である。
3) 日本書紀の編者は、シンメトリックの中心の神武暦661年を「瓊瓊杵尊降臨紀元」として設定した。神武暦661年は、ニニギ歴元年となった。
ニニギ降臨の暗号「179万2470余年」を解読し、得られた822年は神武暦であり、ニニギ暦(西暦)では162年である。162年は、神武即位年に当たる。

ニニギ暦と西暦の関係

日本書紀の編者は、「西暦」の存在を知らない。
上記1)、2)の文中で、参考として西暦の年代を記した。大凡の年代を理解してもらうためである。実際には、記紀編纂の西暦700年頃に西暦は存在しない。西暦が形をなすのは14世紀以降である。西暦はイエス・キリスト生誕紀元である。
ニニギ暦と西暦は、神武暦661年を紀元とする。偶然同じ紀元なのである。いずれも、辛酉の年を紀元としたための一致であろう。ニニギ暦は上記のような明確な根拠がある。胡散臭いと思われるなら、西暦の紀元がなぜ辛酉の年なのか、を疑ったほうがよい。
それよりも、ニニギ歴と西暦が一致していることは何かと便利なことである。

「仮説」を取り除かなければならない。冒頭に述べた倉西裕子氏の「紀年論」の「史実に基づいた紀年と実年代との関係」を明らかにすることができればよいのだが、神武即位年の史実ということになると意味がわからない。
結局のところ、「仮説」が確かであることを、多くの事例を集め確認していかなければならない。主要な事例を紹介し、その他は個別の記事で取り上げていくこととする。
1) 神武の年代は次のように解読される。年代は、ニニギ暦(西暦)であるが、略す。
神武誕生:137年、1歳
神武立太子:151年、15歳
神武即位:162年、26歳(記載52歳は2倍暦で、実年は26歳)
神武崩御:175年、39歳
古事記の神武御年は137歳である。神武誕生を示し、137年であり、上記と一致する。
2) 「179万2470余年」の暗号の解読から、「300余年」または「150余年」が読み取れる。天祖瓊瓊杵尊(ニニギ)の降臨から御肇国天皇である崇神の即位までの期間が300余年であること、あるいはニニギ降臨から神武の東征までの期間が150余年であることを意味する。
神武東征開始:155年、19歳
崇神即位:302年

「表1 神武暦とニニギ暦の関係」を参照してください。

表1 神武暦とニニギ暦の関係