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2009年6 月 8日 (月)

「歴史発見物時事コラム」の先見性

筆者は、パソコン上で多くの方の記事を見させてもらっている。歴史学者もいれば、アマチュアの方もいる。学者であろうとアマチュアであろうと、共感する記事や新しいことを教えてくれる記事を見つけるとうれしいものである。
筆者が現在、関心のある学者は「日本書紀の真実/紀年論を解く」の著者である倉西裕子氏である。この方を知ったのは、「歴史発見物時事コラム」を読んでからである。史学を勉強され、日本史研究に入られたようであるが、コラムの記事を見て、驚かされた。記紀に取り組んで正味半年の筆者には新鮮に思えた。

第3回歴史発見物コラムで、「神武立太子紀元前697年と文武立太子697年」について述べられているが、「前697年と697年のシンメトリック(対称性)」に気付かれたことはすばらしいことである。しかも、その中央が紀元元年であることにも気づかれている。ところが、「日本書紀が成立した720年の頃には、西暦1年を紀元とする紀年法が伝わっていた可能性を示すことになるからです。」と述べている。なぜ、シンメトリックの中央年を「西暦」に結び付けてしまったのか理解しがたい。720年頃には「西暦」といわれるものはまだ存在せず、まして日本書紀の編者が「西暦」など知るはずもないのに。
筆者は、「ニニギ降臨の暗号」や「BC660年(辛酉)と661年(辛酉)のシンメトリック」など別の観点からシンメトリックの中央年を「ニニギ降臨紀元」としたのであるが、その後このコラムを読んで、「神武立太子紀元前697年と文武立太子697年のシンメトリック」を取り込んだいきさつがある。何しろ筆者がこれを考えた当時は、古事記の推古天皇までしか対象としていなかったので、文武立太子が記載された持統天皇など眼中になかったのである。シンメトリックの中央年に力点を置いて何らかの解釈をされていれば、倉西氏の記紀解読の方向も変わったと思われる。

また、このコラムでは、「日本書紀紀年法に複合的な数学的な構築物としての性格を与えている。」と述べられている。多分「プラスマイナス120年構想」を想定してのことと思われる。筆者は、日本書紀の編者らが「37」という数字にこだわりを持ち、「37の倍数」を利用して年代構成を行ったことを発見した。日本書紀はまさに「数学的な構造物」である。
「歴史発見物時事コラム」で見られた読解力や分析力と豊富な知識は、筆者が数字だけを頼りにしているのと違い、羨ましいくらいすばらしい特性である。その特性を活かされることを期待する。

最後になるが、「日本書紀紀年法には、プラスマイナス120年構想が設定されている」との説は、疑問である。確かに神功皇后と応神天皇に関しては120年という数字が重要であるとしても、日本書紀の紀年法に拡大することはできない。

追記1(2009/03/21)

「ニニギ降臨紀元」が偶然「西暦紀元(キリスト紀元)」と紀元を同じくする。この話をするといぶかる方々がいる。説明するのも面倒になってやめてしまうことになる。仮に「ニニギ降臨紀元」が間違いであったとしても、記紀編纂の数百年後(15世紀か?)にできた「西暦紀元」によって否定されるいわれは全くないのである。
「ニニギ降臨紀元」の元年(西暦元年)は辛酉の年である。神武即位の年BC660年も辛酉の年である。そして、日本書紀の記載年代の範囲は、BC660年から697年までの1353年、あるいはBC667年(最初の太歳干支の年)から697年までの1357年、BC697年(神武立太子年)から697年までの1394年といろいろ解釈できる。仮にその1/2は678年、682年、697年である。以上の年数を697年から遡るか、または神武暦で読めば、神武暦661年(西暦元年)あたりが最も近い辛酉の年に当たるのである。

追記2(2009/11/06)

「日本書紀紀年法には、プラスマイナス120年構想が設定されている」という記事の反論という程のことではない。筆者の備忘録のつもりである。
日本書記の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の記載年代の解釈は、編者の目的によって幾通りかの読み方がある。

応神誕生年および応神崩御年の復元を目的とする場合加算162年
仲哀天皇崩御年200年(仲哀天皇9年次)→+162年⇒362年(古事記の崩年干支の復元
神功皇后摂政元年および応神天皇誕生年201年→+162年⇒363年
(応神崩御年241年→+162年⇒403年)
応神崩御後の空位年242年→+162年⇒404年(空位年の存在を示すため、重要

百済関係の年代(および神功皇后崩御年)の復元を目的とする場合加算120年
243年+120年⇒363年(243年以降の百済の記事全般に適用される)
神功皇后崩御269年→+120年⇒389年

仲哀崩御年および応神即位年の正しい復元を目的とする場合加算111年
(仲哀崩御年269年→+111年⇒380年)
応神即位年270年→+111年⇒381年
注)111の根拠は、[162-69+18=111]および[37年の3倍]

応神崩御年の正しい復元を目的とする場合加算93年
応神崩御年310年→+93年⇒403年
注)93の根拠は、[111-18=93]

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