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2009年10 月 8日 (木)

応神天皇の年次表の解読する(外交史を含む)

応神天皇については、「応神天皇は、いつ生まれ、いつ崩御されたか?」において、誕生363年、即位381年、崩御403年、在位23年と述べた。編者が想定した応神の年代の基本的な考え方を示したつもりである。

応神の在位は倍暦では計算できない
日本書紀の年次表では、応神在位41年となっている。記載在位41年から復元在位23年を導き出すことは、2倍暦などの普通の計算ではできない。理由は以下の通りである。
応神天皇の年次表のうち記事のある年と記事のない年を分けてみると、記事のある年は23年間で、記事のない年は18年間である。記事が記載された年のみ在位として有効であり、これが在位23年の根拠の一つである。要するに、倍暦の手法は用いず、年数加算の手法を用いているのである。勿論、前提として倍暦は考慮されていると考える。

次に「表26 応神の年次表を解読する(外交史を含む)」および「表26-1 応神の「年月日」解読結果」を見ていただきたい。

表26 応神の年次表を解読する(外交史を含む)

表26-1 応神の「年月日」解読結果

既に、「表25 神功皇后の年次表を解読する(外交史を含む)」において外交関係の記事の年代を示した。それらのうち応神の年代に関係したものを移し替えている。
応神の年次表の一部の記事は、仁徳の年代に関した記事が含まれている。403年以降の百済関係の記事が該当する。記事の量からすればかなり多いが、応神の崩御の年代の誤りではなく、外交記事を神功皇后と応神天皇に集中させたためである。数字の上では120年という年代差が可能にさせたといえる。

応神天皇は中国への朝貢をしていない
中国への朝貢の使者は阿知使主である。阿知使主の関係記事を百済関係の記事と同じく+120年を加えるのは妥当かどうかである。一般的に、百済関係の記事には、「月日」が記載されないが、が記載されているからである。
添付した「表26-1 応神の「年月日」解読結果」に示した通り、阿知使主の関係記事3件に記載された「月日」を見ると、いずれも年代差「120年」を示唆する。添付した「表26-1 応神の「年月日」解読結果をみていただきたい。

応神天皇の崩御の復元年代がおおよそ420年以降になるのは、年代復元というより妄想にすぎない。410年代半ばに解釈される場合は復元の誤差は約10年の範囲にあり、否定するには説明が必要であろう。
対象は、413年の中国朝貢である。応神崩御は403年であるから応神朝貢はあり得ないのである。しかし、例えば応神崩御を413年と考えれば応神が中国へ朝貢したことになる。筆者の知る限り、応神崩御年よりも中国朝貢の年代が先にあり、応神崩御年を合わせ込んだような記事しか見ていない。一言でいうなら、記紀の編者は基本的に朝貢の記事を嫌がっているのである。誰が朝貢したか分らない413年の朝貢など記載対象にはなっていないということである。

日本書記の記載では、阿知使主らが来日したのは応神20年次である。復元年代は409年で仁徳の時代である。百済関係の記事と同様に120年の年代差で見なければならないのである。
「応神37年次、阿知使主を呉に遣わす」とあるが、復元年代では426年になり、425年の中国朝貢を想定したものであろう。
応神41年次の記事は面白い。「阿知使主らが呉より(帰国し)筑紫に至る。武庫に至りて(応神)天皇崩御を知った。間に合わなかった。」とする。阿知使主らの記事を仁徳の年代に移せば、阿知使主らが425年の中国への朝貢を果たして帰国したときには、仁徳天皇が崩御され(427年1月)、生存中に報告ができなかったのである。

「年代(数字)のからくり」(呉国が朝貢してきたので使いを出した)
また、仁徳天皇の58年時の記事に、「呉と高麗国が朝貢してきた。」とあるが、復元年代は425年(または424年)である。「応神37年次、阿知使主を呉に遣わす」という記事と一対になる記事であり、「425年に呉国が朝貢してきたので、426年に呉国に使いを遣わした。」と読み取れる。これが日本書記の編者の考案した「年代(数字)のからくり」であり、編者の考え方が十分に示されているのである。
併せて、阿知使主らの記事に、120年の年代差を意味する「月日」を用いた理由も分るのである。

2009年9 月13日 (日)

神功皇后の年次表を解読する(外交史を含む)

日本書紀の神功皇后の年次表の解読の基本的なことについて述べる。
神功の記載内容は豊富である。201年から始まり、269年100歳で亡くなるまでの摂政在位69年には中国史書に関係した年代や、百済に関する年代が含まれているためである。現在でもいろいろな解釈が生まれるのは、神功皇后の位置づけが特異なためであるからで、記述に惑わされ、複雑に考えるため在位や年代を見誤るのである。記載された数字について、素直に考えればよいのである。

第一に、神功皇后の在位については、天皇と同等の在位は存在しない。摂政在位69年は架空のものである。
しかし、神功の記述は、応神天皇の誕生が神功皇后摂政元年、記載年代201年、復元年代363年であることを示している。また応神天皇の記載在位41年との関係と、応神崩御記載年代310年は、復元年代403年を示唆する。
関係する天皇の年代と在位については「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に示すので見ていただきたい。

表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細

第二に、日本書記の編者は架空の神功皇后を創作したが、編者が描いた神功皇后の原人物像は年次表の解読によってある程度得られる。神功皇后の存在とそれに伴う摂政在位を信じる学者が主張する年代や在位は、ほとんどがこれに相当するものである。
架空の人物像としての神功皇后に関する解読結果は、「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」に示した。その裏付けとなる「表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果」も添付する。

表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)

表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果

表109 神功皇后の年次表の詳細

架空の神功皇后の原人物像を考える場合の年代や年齢に関する情報は、上記の「表25」の注にポイントとなる事項を述べておいた。
以下に補足説明をさせていただく。

記載年代は二系列に分けられる。
A系列は201年から242年までである。この年代を実年代に直すには162年を加えればよい。
その訳は、仲哀崩御200年が実年代では362年であり、その差が162年であるから、201年に162年を加えるのである。記載年代200年=実年代362年が否定されない限りにおいて、それ以外はあり得ないのである。
B系列は243年から始まる。大半の記事は百済関係であり、実年代に直すには120年を加えればよい。百済関係、特に百済王が記載された年次は120年を加えると百済の歴史にほぼ一致する。また、神功の没年である269年も、実年では120年を加えた389年であり、干支が一致するのは60年の整数倍を加えたのであるから当然である。
中国史書に関する年次239年、240年、243年、266年は、編者が中国史書を見て、それぞれ該当する年に組み入れたものである。

神功皇后の摂政在位について
一つ目は、神功摂政元年は363年、摂政退位は371年、在位9年であり、没年を389年とする考え方である。摂政退位371年の考えの根拠は、51年次(復元年代371年)の記事「朕が存(い)けらむ時の如くに、厚く恩恵を加えよ」を摂政退位の言葉と見るからである。
二つ目は、神功摂政元年は363年、崩御389年とし、在位は27年とする考え方である。
神功崩年100歳(実58歳)に相当する年代である。

日本書記の編者は賢い。創作が簡単に見破られるようなことはしない。古事記の編者も抜かりがない。上記の記事をとらえて、神功皇后の摂政の期間9年分が応神在位に含まれているかのような錯覚を起させた。

神功皇后の年齢について
201年、復元年代363年における神功皇后の年齢は、32歳が読み取れる。モデルが誰なのかの検討に役立ちそうな気がするが、筆者はまだ検討できていない。
ただし、年齢からみて、仲哀天皇が14歳で即位したとき神功皇后は41歳(または25歳)であるから、仲哀天皇の皇后とするのは妥当ではない。古事記に記載された通り、大后である点は間違いがない。

応神天皇崩御後の空位年は編者の腕の見せ所
日本書記の編者は年次表の構成において、神功皇后摂政元年の201年、復元年代363年を応神の誕生年とした点も見事である。
さらに、編者の応神天皇崩御後の空位年の扱い方は抜群である応神天皇の崩御の年齢を在位に見せかけ41年(歳)とし、他方で神功皇后の最終年次として42年次を作ったことである。
42年次、即ち404年は、神功皇后と応神天皇の一連の物語の年代に含まれることを示すことによって、404年が空位年であることを示唆した。それに伴い、仁徳天皇の在位は405年から始まることになるのである。
注)摂政69年次は見掛け上最終年次であるが、復元年代は389年であり、42年次404年の方が下った年代になる。

2009年7 月20日 (月)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(応神編)

明治時代、那珂博士は、「上代年紀考」において、古事記の分注崩年干支を基に年代を示した。これが今日においても通説とされている。当時としては画期的なものであったようだ。
実際には、倭の五王に関わる年代と中国史紀の年代にかみ合わない部分があるが、それでも日本書記よりは無理なく整合性を取れるとされる。

古事記の復元年代とは

筆者の応神天皇の復元年代を基に、古事記の復元年代に対する考えを述べる。
古事記は、日本書紀の解読書である」と述べてきた。この表現は、誤解を招きやすい。古事記に記載された文言や、系譜まで拡大した意味は持っていない。「古事記は、日本書記の年代に関する解読書である」が筆者の主張である。
「古事記は、日本書紀の文言や系譜に関して、批判を加えたものである」という主張に関しては否定しないが、比較検討していないのでコメントは特にない。

日本書記の復元年代を求めた活動は盛んであるが、古事記の年代解読の記事は見たことがない。「解読書」という表現はあるようだが、年代全般に関するものも見当たらない。
古事記の数字から復元年代を解読できていないのだから、古事記を基に日本書紀の年代を解読するということができるはずがないのは当然である。
筆者は、古事記に記載された「御年(みとし)」、崩年時の「月日」、「治天下の年数」を用いて復元年代を得ることができた。
勿論、古事記だけの情報で復元年代が得られたわけではなく、日本書紀の情報があってのことである。ただし、古事記の復元には古事記の数字しか用いていない。

古事記の分注崩年干支の意味

古事記の分注崩年干支に関して、崇神から仁徳までについて述べる。(仁徳以降は別途述べる)
崇神から仁徳までの分注崩年干支は、崇神崩御と仁徳崩御の干支が正しいだけである。逆にいえば、垂仁から応神までの干支は正しくないということである。このような結果は、古事記の編者が神功の年代をどのように評価し、加味したかによって生じた問題である。
先ず、重要なことは、古事記の編者も日本書記の編者もほぼ一致する正しい復元年代を知っていたということである。
古事記は、神功の年代を設定していない。しかし、古事記の編者は、日本書紀における神功皇后が三韓征伐で活躍し、応神が誕生した仲哀9年362年にこだわりを持たざるを得なかった。恐らく、古事記の編者といえども、当時の時代背景や日本書紀によって作られた神功皇后を称える風潮を打ち破れなかったのか、あるいは日本書記の解読書としての性格から362年が妥当であると考えたのかも知れない。それによって、362年以前の垂仁、景行、成務、仲哀の各天皇の在位を合計で18年前倒しをし、誤った年代を記載した。
注1)日本書紀における200年(201年)は、362年(正しくは、363年)に相当し、応神の正しい誕生年が記載されているため、古事記の編者は日本書記の記載に同調せざるを得なかった。

古事記の正しい復元年代

古事記から、応神天皇の正しい年代を知るには、次のように読み替える必要がある。
古事記は、応神天皇の即位年は、9月9日(九九=81)の381年であり、これが正しい年代であるとする。垂仁から仲哀天皇までの年代で18年前倒しをしたと前に述べたが、仲哀天皇の崩御の年代は362年でなく、9月9日(九+九=18)で、18年を加算した380年が正しい年代である。
古事記は、応神天皇の在位を32年と記載したが、逆数の23年に読み替えて(32年から9年差し引いた23年としてもよい)、即位年381年から計算すれば403年が得られる。
また、古事記は、9月9日の9年を応用して次のように応神天皇の年代を解釈することができる。応神在位32年に9年分の摂政期間があるように、含みを持たせた。その結果、摂政なしの応神の実在位は23年であることを示すが、結果として9年分前倒しになっている。応神崩御394年は、9年遡った年代であり、9年分の年代を下げると応神崩御は403年になる。応神即位381年、崩御403年、在位23年が正しい復元年代であり、日本書記の復元年代と一致する。

古事記は、日本書記の講義に使われたようである。例えば、神功皇后と応神天皇の説明は次のようだったかも知れない。
日本書記は、神功皇后が三韓征伐を行った200年に応神天皇をお産みになられ、69年間摂政につかれた。応神天皇は、即位270年に即位され、310年に崩御、在位41年と記載する。この年代などの数字は延長がなされており、正しい年代ではない。神功皇后の三韓征伐は国威発揚のためであり、応神天皇の記事は応神天皇の正当性を知らしめ、皇室を守るためである。従って古事記においても、日本書紀と同様の記事を載せ、分注崩年干支(年代)を前倒しして、ごまかしているので、古事記の分注崩年干支を見るときには注意しなければならない。」
注2)この記事の冒頭に述べた通説は、まんまとごまかされてしまったのである
注3)筆者は、古事記の新羅征討、あるいは日本書記の三韓征伐と称される戦いがあったことを否定していない。日本書記の記載は、392年の出来事を、応神3年(382年)と仲哀9年(362年)に分割して記載し、後者は30年分前倒しされていると解釈している。

次に、日本書記の解読方法を説明しよう。
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」を見ながら読まれると理解できるはずである。

表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細

表109 神功皇后の年次表の詳細

日本書記における神功皇后の記事は、年代を過去に大幅に遡るための設定であり、69年間は無視すればよい
日本書記では、仲哀天皇の即位は192年、崩御は200年、在位9年である。神功皇后は存在しないから、仲哀天皇の年代は下ることになり、即位372年、崩御380年となる。在位9年は変わらない。復元年代は、記載年代に180年を加算することになる。(これに伴い、成務、景行、垂仁の年代も下るが、説明は省略する。)

応神天皇の誕生363年、崩御403年の根拠
日本書記では、応神天皇の誕生は、201年である。神功紀の記載では、200年、仲哀9年に生まれたことになっているが、父親不明を避けたごまかしである。日本書記の応神紀では、誕生年(203年、年3歳)と宝算110歳(201年誕生、310年崩御、宝算110歳)が明確にされている。
正しい復元年代は、201年に神武即位年162年を加算した363年である。応神天皇の誕生の記載は神功皇后に記載されたものであり、復元年代は162年を加算すればよいのである。
そして応神の在位41年は、41歳で崩御されたことを示し、363年1歳から計算すると、403年が41歳で、崩御年は403年となる。日本書記が年代と年齢について事実をズバリ書いた珍しい例である。尤も、事実といっても、編者が想定した数字であることに変わりはない。
注4)神功皇后の摂政元年の国内記事は、正しい年代に対し162年のズレを持っている。よく120年ズレているかのように受け取れる主張を見受けるが、神功皇后および応神天皇の中の百済関係の記事が120年のズレを持っていることとごっちゃにしてはならない。

応神天皇の年代差は111年(37の3倍)から93年に変わる
日本書記の記載では、応神即位270年となっているが、古事記で説明したとおり、復元年代は381年である。復元年代に対するズレは、111年(37年の3倍)に設定されている。
注5)神功皇后の摂政69年次、記載年代269年は、復元すると380年である。摂政元年には162年のズレがあったが、摂政69年次、380年には111年のズレに変わる。年代差は162年から111年に低下し、年代のズレ(年代差)は51年消費した(減じた)ことになる。残りの18年が有効年代であり、363年応神1歳から380年18歳までの年数に相当する。

日本書記の応神の即位381年は、神功の在位の69年分が影響し、倍暦の計算では読み取れない。合成年次表で、仲哀の崩御年を読みとって、はじめて応神即位年が読み取れる。古事記が示唆してくれているから分るものの、日本書紀だけでは容易には分らない。従って、応神即位381年を主張する学者の方々を見受けないのは当然のことである。
なお、応神崩御403年の時点の年代のズレ(年代差)は、111年から18年減じた93年になるはずである
記載では、応神崩御310年で、復元では403年であるから、年代差は93年で、上記のとおりである。

応神即位381年の正しさ

仮説として、応神の即位年を381年と設定し、日本書紀の年代解読上の各種手法に当てはめてみれば、その正しさが分るであろう。
(例1)神武、崇神、応神の3天皇は神の文字が入っている。この3天皇の誕生年、即位年または崩御年には、神聖な「九九」の数字が入っている。神武誕生137年(七八56+九九81=137)、神武即位162年(九九81×2=162)、崇神崩御318年(二九=18)、応神誕生363年(七九=63)応神即位381年(九九=81)である。聖帝といわれる仁徳の崩御427年(三九=27)にも入っている。同じ「九九」でも、神武には2組、応神には1組である。しかし他の天皇には「九の段」はあっても「九九」は入っていない。応神天皇は、神武天皇に次いで重要視されていたのである。
注6)「九」は、「極まった数字」であり、「九九」は重節、重九である。

(例2)応神在位は381年から403年までの23年である。他方、仁徳天皇の在位は405年から42年までの23年であり、404年を基準にした23年のシンメトリックを形成する。
注7)本来年代については、神武暦およびニニギ暦を用いて説明しなければならないが、簡略化させてもらい、西暦で説明した。

日本書記の講義の締め括りの言葉

この講義を受けているあなたたち(皇子や貴族の子弟)は、これから国を動かしていく立場にある。従って正しい歴史と解読方法を教えたが、前に述べた理由(国威発揚と応神の正当性)から年代や年齢、文言など誇張して書かれている。あなたたちが知っていれば良く、国民に事実を知らせる必要はない。特に、正しい復元年代の解読方法は、他言無用である。」
というわけで、いつの間にか正しい解読方法は忘れられ、古事記及び日本書紀に記載された通りの内容が国内に広まった。

2009年7 月14日 (火)

応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族

仲哀天皇は「国内平定」派
仲哀天皇は372年13歳で即位した。仲哀天皇は父日本武尊の意思を継ぎ、「国内の版図拡大と国内の平定」を目論み、熊襲と戦った。それは、崇神天皇以来の三輪王朝の宿願であった。
372年には、百済からは、平和協定の印として、七枝刀が贈られた。仲哀天皇とその支持者は、半島との関わり合いには消極的で、まして半島への武力による進出には反対であった。
仲哀天皇は380年22歳のとき、記載によれば、「朕(われ)周望するに、海のみありて国なし」と言わせ、神の信託を信じなかったため殺されたという。反対派に殺害されたのであろう。その理由を、神功皇后という架空の人物を通して明らかにしている。「この国に勝りて宝ある国、海の向こうにある新羅の国、まばゆい金・銀・彩色その国にあり。神を祭るなら、その国かならず服するであろう」と、神に言わせている。
注1)上記に内容は記載に基づく。実際の復元年代からすれば、半島の事情も知っていたし、百済との関係も生まれている。

「半島への介入」派が勢力を持ち始める
崇神天皇から仲哀天皇までとは異なる考えを持った新しい勢力であり、応神天皇から始まる河内王朝の各天皇である。河内王朝は、国内に飽き足らず、半島に利権を求めた王朝である。どの程度のもくろみと勝算があったのか不明であるが、新羅のみならず高句麗を相手にしてまで戦ったことからすると、かなり強気の考え方を持っていた可能性がある。
半島への介入を実現させるには、反対勢力の仲哀天皇を亡きものにしなければならなかったのである。

幼少の仲哀天皇皇子も抹殺された
362年、仲哀天皇が殺害されたときには二人の皇子がいた。仲哀天皇が13歳と若くして即位した後、間もなく皇子が生まれたとしても、皇子らは10歳以下(8歳とか5歳)であったと推測される。香坂王(かごさかのみこ)は狩りに出て猪に食い殺されてしまった。残された忍熊王(おしくまのみこ)には、倉見別や五十狭茅宿禰らの支持者が付いていた。
日本書記の記載では、このとき、応神天皇は生まれたばかりであり、母親の神功皇后は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
以上が日本書紀に記載された内容(年齢を除く)である。復元年代を当てはめると、次のようになる。
応神は380年に18歳となっていた。応神を支持する側は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
仲哀天皇の一族を抹殺し終えた応神は、381年、19歳で天皇に即位した。応神紀には神功が摂政となったことは書かれていない。

神功皇后は「半島への介入」と「応神天皇の正当性」の代弁者
362年に、神功皇后が行ったとされる新羅征討(古事記)、三韓(新羅、高麗、百済)が日本に降伏する記事(日本書紀)は、年代として合致しない。現に、仲哀は380年まで存在し、神功の記事は仲哀崩御直後の362年の出来事として記したもので、年代的にもあり得ない。
日本書記の編者は、神功皇后に、応神天皇が行った新羅征討などの半島への介入に関する代弁者の役割を持たせた。神功の記事は、応神3年次、392年に記載された半島への武力進出の記事を30年間前倒しして、362年としたものである。
同時に、応神誕生から即位までの19年間が上記30年間の中に含まれていて、応神天皇誕生の正当性を持たせた。

2009年7 月13日 (月)

神功皇后の年代に関わる在位はゼロである

神功皇后の扱いについて、日本書紀は一巻を神功に充てている。特異なのは神功摂政元年と39年と崩御の69年に太歳干支が付けられていることである。また、神功については100歳(一百歳)で亡くなったこと以外に神功自身の年代に関する記載はない。
古事記は仲哀の一部として記載している。古事記が神功を無視しているわけではない。それどころか仲哀の記事の大半は神功と応神の誕生と太子に関する記事である。
現在、筆者は神功が存在しないという観点で古事記および日本書紀の復元年代を引き出した。その根拠は、「百増、百減の法則」に従えば、神功の一百歳から百を減じると、零または一しか残らないからである。零だとすれば神功の年代は無かった。一なら1年だけ摂政の位に就いたことになる。応神の即位の年代を181年と見ており、そのときの応神の年齢は19歳であるから摂政は不要であるし、応神紀には摂政の記事は存在しないため、1年の摂政もあり得ないとした。

太歳干支の異常さ
日本書紀における太歳の使い方も異常である。太歳は一般に即位年にのみ付されるが、神功においては摂政元年と中間の39年次と69年次の崩御年の3か所に太歳が付されている。太歳付与の解釈は次のとおりである。
太歳が付与された元年から69年次の崩御年まで、すなわち神功の69年のすべての年次が無いものであることを示している。
もう一つの太歳付与年である39年次は、記載年代が239年であり、魏志倭人伝の記事が記載されている。「魏志倭人伝を引用した記事の年代は、そのまま直読しなさい]という意味で、239年が最初の記事になるための注意を促す印であると考える。
注)その他の記事の年代は、記載年代に162年または120年を加算する。「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」に詳細を述べているので見ていただきたい。

神功皇后の存在についての疑問

当初、筆者は神功の存在について疑うこともなく、362年の新羅征討の根拠を示された学者の記事を評価した。しかし、神功の存在に疑問を持つと、摂政在位69年自体と362年の出来事も無理な解釈であると疑問を持つようになった。それらの疑問について述べてみる。

神功皇后はどの天皇の摂政か
一つは、神功には摂政という役を与えられている。決して天皇になったのではないし、卑弥呼のように女王になったのでもない。「摂政は天皇と同じ意味である]というような記事にお目にかかったことがあるが、それなら他の多くの女性天皇と同様に天皇とすればよい。神功紀として扱っているのは日本書紀で、古事記は仲哀紀の一部にすぎない。天皇である筈がない。
摂政というからには天皇が存在しなければならない。日本書紀の記事によれば、摂政になったとされる神功摂政元年の363年は仲哀が崩御した翌年であり、応神が生まれた年であって、天皇は存在しない。応神は神功3年の365年に太子となる。応神が胎内天皇と呼ばれたとしても、3歳になって立太子を行っていて、まだ天皇位には就いていない。胎内天皇なんて言葉に惑わされてはいけない。
従って、日本書記の摂政の記載は、天皇不在の架空の話に過ぎないのである。

天皇不在18年間の摂政はあり得ない
二つ目は、神功元年の363年に仲哀天皇の皇子である香坂王、忍熊王と争い、勝利して、摂政となったとされる。それならば、誕生したばかりの応神の摂政となるはずであるが、上記に記したように応神はまだ天皇にはなっていない。年代がずれていると考える必要がある。
復元年代では、363年は成務天皇の時代が始まったばかりの年代である。(成務在位359年~371年)
380年に仲哀が崩御した(殺害された)とき、応神も成長し18歳になっていた。仲哀崩御の翌年に応神は仲哀の皇子を殺害し、天皇になるのである。
前に述べたように、応神3歳までどころか18歳になるまで天皇不在のまま摂政がいるという矛盾した歴史が書かれていることになる。要するに神功の年代に関わる在位はゼロである。

新羅征討あるいは三韓征伐は、30年遡っている
三つ目は、神功皇后による362年の新羅征討あるいは三韓征伐を誇張するために記載された。広開土王碑に記録された新羅、高句麗との戦いは392年の出来事であり、応神が行った朝鮮への出兵である。392年の出来事を30年遡って記載したと考えることができる。
392年以降の数回の半島への出兵の中において、神功皇后のモデルとなる伝承があったのかもしれない。この点まで否定するつもりはない。

応神天皇の復元年代の根拠

もう一つの結論は、応神の在位41年に関してであるが、363年の誕生から41年目の403年が応神の崩御の年である。応神の即位や崩御の年齢は何ら記載されていない。上記の数字が正しいかどうかでではなく、編者が年代構成上からそのように設定したのである。
神功の69年の在位は、162年の年代差を持つ年代と120年の年代差を持つ年代に区分される。前者は201年から242年の42年間であり、後者は243年から269年の27年間である。
42年間は、応神在位41年間と崩御後の空位1年間を加えた年数である。従って神功の年代と162年差を持って重なり合い、応神崩御は403年と計算される。[241+162=403]
応神即位年の方は、41年の在位が二倍暦とすると、実在位は20.5年であり、383年となる。ただし復元年代では381年としている。(この年代の食い違いに関しては別途説明したい。)
120年の年代差を持つ27年分は、「神功皇后と応神の外交史」に記載したので見ていただきたい。

神功皇后は応神天皇の誕生年を伝える道具
神功皇后の摂政としての在位を9年や17年などとする見方がある。古事記の崩年干支と神功皇后の存在を信じれば、確かにそのように解読できる。神功が存在しないとするなら、これらの年数を他の天皇に割り振ることになる。年代としてはそれほど大きな変化ではない。垂仁と景行の年代は詰まった感じがするし、成務は国造関係の業績からすると7年では短すぎる。実際には、古事記崩年干支の年代から計算される在位に比較し、垂仁と景行で10年分、成務で8年分増加し、各天皇の在位は19年、21年、15年(日本書紀13年)となる。仲哀天皇の在位は7年(日本書紀9年)と応神天皇の在位年23年である。
要するに、神功皇后は、「応神天皇の誕生年を伝えるための出しに使われた」のである。

江戸時代末期に、国論は「攘夷」と「開国」の考え方に分かれ争われた。仲哀天皇(三輪王朝)と神功皇后(河内王朝)との関係は、「国内版図拡大・平定」と「半島への進出」の衝突である。これについては、改めて述べることとする。

2009年6 月27日 (土)

神功皇后は女王卑弥呼ではない

神功皇后が卑弥呼である、という主張は昔からあるようだ。神功皇后の記事に卑弥呼の朝貢の記事があるためである。記事を読むと、神功が卑弥呼であるというより、「魏志倭人伝に倭の女王が魏に大夫難斗米らを遣わすという記事がある。」という他人事のように書かれている。さらに、266年の朝貢は、卑弥呼が死んだ後の年代で、壹与の朝貢と考えられる記事も記載している。要するに、卑弥呼と壹与を区別していない。従って、記事からは神功が卑弥呼を想定したとは全くいえない。神功の年代も300年代後半であるから、当然である。

神功崩御の月日は卑弥呼が死んだ年

さらに記事をよく読むと、266年の次の269年(神功紀としては最後の年)の記事に、神功が100歳で崩御したと記載しているが、その月日は4月17日となっている。
4月17日は、(四月十七日→四十七年)で、247年を意味し、卑弥呼の死んだとされる年である。神功紀には、魏志倭人伝の「卑弥呼死す」の247年に記事がないのは、神功の崩御に合わせて、卑弥呼の死んだ年を記載した、と考えることができるし、2度も死なすわけにはいかなかったのであろう。
また、神功皇后を記載年代の247年に亡くなったとしなかったのは、前述したとおり、「神功皇后は卑弥呼ではない」からであるが、まだ248年以降269年までの出来事を書くために生きていてもらわなければ困るのである。
編者は、数字遊びを楽しんでいるのだ。「月日は正しい」なんて主張する人に対しては、間違いなくおちょくっている。

筆者は、孝昭・孝安の年代が、卑弥呼の年代と一致するという考えを持っている。魏志倭人伝に記載された通り247年に卑弥呼が死んだとして、孝昭即位の196年に卑弥呼が壹与と同じ13歳で女王になったと仮定すると、卑弥呼は64歳で亡くなったことになる。
同様に、孝安即位223年の場合を計算すると、卑弥呼は37歳で亡くなったことになる。
魏志倭人伝には、「年巳長大(年すでに長大)というのだから、卑弥呼が196年に女王になった推測できる。

また、魏志倭人伝では卑弥呼の朝貢が景初2年(238年)にあったと記載されているが、実際には239年ではないかとの考え方が存在する。神功皇后の年次から卑弥呼の最初の朝貢が239年にあったことが分かる。他方で、崇神7~10年次の年代解読では最初の朝貢は238年になっている。編者の見解も割れていたのかもしれないが、239年という数字があることは、景初3年(239年)が正しいということを示唆していると考えてよさそうである。

2009年6 月13日 (土)

応神天皇は、いつ生まれ、いつ崩御されたか?

日本書紀には、応神天皇の誕生から記載されているので、年齢も分かりやすいはずなのであるが、疑問が一つある。

応神天皇はいつ誕生されたか

日本書紀の記載において、神功は仲哀9年(362年)に応神を出産するのであるから、この年、応神1歳である。数え年の場合、例え年末に生まれたとしてもそのとき1歳であり、次の年の正月になれば2歳である。神功摂政3年(365年)には4歳になっている。ところが、応神紀においては、神功摂政3年(365年)に応神立太子3歳と記載する。応神の年令に1歳食い違いがある。
神功の相手、応神の父親が仲哀でないことは間違いがないことであるが、新羅征伐が362年ではなく363年春であるという説もあり、新羅から帰ってきて応神を生んだとすると、363年になる。
また、4歳で立太子はありえない。4歳という凶の年に立太子を行うはずがない。
仮に、応神の立太子年における年令が3歳で正しいとすると、応神は神功元年(363年)に生まれたことになる。仲哀の崩御の1年以上後のことである。

注1)応神天皇即位前紀に、「天皇、(神功)皇后の新羅を討ちたまひし年、歳次庚辰(仲哀9年)の冬十二月を以て、筑紫の蚊田に生まれませり。・・・・・・。皇太后の摂政三年に、立ちて皇太子と為りたまふ。時に年三。」とある。前の文では仲哀九年(362年)に生まれたとするが、後の文では、神功摂政三年(365年)に三歳としている。
同様に、新羅征伐も、あったとすると、1年ずれた363年になる。(それも疑問であるが)

応神天皇はいつ崩御されたか
日本書紀の編者は、神功において嘘を書きすぎた。「罪滅びし」のためか、つい応神の記述に本音が出てしまい、崩御の年齢を記載した。
応神在位41年であり、41歳で崩御された。
尤も、これくらいの情報を残してくれないと、いくら解読しろと言われても、解読できない。と、思って、再度日本書記に目を通すと、「宝算一百一十歳(110歳)」と書いてあるではないか。
201年(復元363年)に誕生し、110歳(復元41歳)となった310年(復元403年)に崩御されたのである。

応神の在位については、381年即位、403年崩御となり、在位23年となる。古事記においても同じである。