神功皇后の年次表を解読する(外交史を含む)
日本書紀の神功皇后の年次表の解読の基本的なことについて述べる。
神功の記載内容は豊富である。201年から始まり、269年100歳で亡くなるまでの摂政在位69年には中国史書に関係した年代や、百済に関する年代が含まれているためである。現在でもいろいろな解釈が生まれるのは、神功皇后の位置づけが特異なためであるからで、記述に惑わされ、複雑に考えるため在位や年代を見誤るのである。記載された数字について、素直に考えればよいのである。
第一に、神功皇后の在位については、天皇と同等の在位は存在しない。摂政在位69年は架空のものである。
しかし、神功の記述は、応神天皇の誕生が神功皇后摂政元年、記載年代201年、復元年代363年であることを示している。また応神天皇の記載在位41年との関係と、応神崩御記載年代310年は、復元年代403年を示唆する。
関係する天皇の年代と在位については「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に示すので見ていただきたい。
第二に、日本書記の編者は架空の神功皇后を創作したが、編者が描いた神功皇后の原人物像は年次表の解読によってある程度得られる。神功皇后の存在とそれに伴う摂政在位を信じる学者が主張する年代や在位は、ほとんどがこれに相当するものである。
架空の人物像としての神功皇后に関する解読結果は、「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」に示した。その裏付けとなる「表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果」も添付する。
架空の神功皇后の原人物像を考える場合の年代や年齢に関する情報は、上記の「表25」の注にポイントとなる事項を述べておいた。
以下に補足説明をさせていただく。
記載年代は二系列に分けられる。
A系列は201年から242年までである。この年代を実年代に直すには162年を加えればよい。
その訳は、仲哀崩御200年が実年代では362年であり、その差が162年であるから、201年に162年を加えるのである。記載年代200年=実年代362年が否定されない限りにおいて、それ以外はあり得ないのである。
B系列は243年から始まる。大半の記事は百済関係であり、実年代に直すには120年を加えればよい。百済関係、特に百済王が記載された年次は120年を加えると百済の歴史にほぼ一致する。また、神功の没年である269年も、実年では120年を加えた389年であり、干支が一致するのは60年の整数倍を加えたのであるから当然である。
中国史書に関する年次239年、240年、243年、266年は、編者が中国史書を見て、それぞれ該当する年に組み入れたものである。
神功皇后の摂政在位について
一つ目は、神功摂政元年は363年、摂政退位は371年、在位9年であり、没年を389年とする考え方である。摂政退位371年の考えの根拠は、51年次(復元年代371年)の記事「朕が存(い)けらむ時の如くに、厚く恩恵を加えよ」を摂政退位の言葉と見るからである。
二つ目は、神功摂政元年は363年、崩御389年とし、在位は27年とする考え方である。
神功崩年100歳(実58歳)に相当する年代である。
日本書記の編者は賢い。創作が簡単に見破られるようなことはしない。古事記の編者も抜かりがない。上記の記事をとらえて、神功皇后の摂政の期間9年分が応神在位に含まれているかのような錯覚を起させた。
神功皇后の年齢について
201年、復元年代363年における神功皇后の年齢は、32歳が読み取れる。モデルが誰なのかの検討に役立ちそうな気がするが、筆者はまだ検討できていない。
ただし、年齢からみて、仲哀天皇が14歳で即位したとき神功皇后は41歳(または25歳)であるから、仲哀天皇の皇后とするのは妥当ではない。古事記に記載された通り、大后である点は間違いがない。
応神天皇崩御後の空位年は編者の腕の見せ所
日本書記の編者は年次表の構成において、神功皇后摂政元年の201年、復元年代363年を応神の誕生年とした点も見事である。
さらに、編者の応神天皇崩御後の空位年の扱い方は抜群である。応神天皇の崩御の年齢を在位に見せかけ41年(歳)とし、他方で神功皇后の最終年次として42年次を作ったことである。
42年次、即ち404年は、神功皇后と応神天皇の一連の物語の年代に含まれることを示すことによって、404年が空位年であることを示唆した。それに伴い、仁徳天皇の在位は405年から始まることになるのである。
注)摂政69年次は見掛け上最終年次であるが、復元年代は389年であり、42年次404年の方が下った年代になる。
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