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2009年7 月14日 (火)

応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族

仲哀天皇は「国内平定」派
仲哀天皇は372年13歳で即位した。仲哀天皇は父日本武尊の意思を継ぎ、「国内の版図拡大と国内の平定」を目論み、熊襲と戦った。それは、崇神天皇以来の三輪王朝の宿願であった。
372年には、百済からは、平和協定の印として、七枝刀が贈られた。仲哀天皇とその支持者は、半島との関わり合いには消極的で、まして半島への武力による進出には反対であった。
仲哀天皇は380年22歳のとき、記載によれば、「朕(われ)周望するに、海のみありて国なし」と言わせ、神の信託を信じなかったため殺されたという。反対派に殺害されたのであろう。その理由を、神功皇后という架空の人物を通して明らかにしている。「この国に勝りて宝ある国、海の向こうにある新羅の国、まばゆい金・銀・彩色その国にあり。神を祭るなら、その国かならず服するであろう」と、神に言わせている。
注1)上記に内容は記載に基づく。実際の復元年代からすれば、半島の事情も知っていたし、百済との関係も生まれている。

「半島への介入」派が勢力を持ち始める
崇神天皇から仲哀天皇までとは異なる考えを持った新しい勢力であり、応神天皇から始まる河内王朝の各天皇である。河内王朝は、国内に飽き足らず、半島に利権を求めた王朝である。どの程度のもくろみと勝算があったのか不明であるが、新羅のみならず高句麗を相手にしてまで戦ったことからすると、かなり強気の考え方を持っていた可能性がある。
半島への介入を実現させるには、反対勢力の仲哀天皇を亡きものにしなければならなかったのである。

幼少の仲哀天皇皇子も抹殺された
362年、仲哀天皇が殺害されたときには二人の皇子がいた。仲哀天皇が13歳と若くして即位した後、間もなく皇子が生まれたとしても、皇子らは10歳以下(8歳とか5歳)であったと推測される。香坂王(かごさかのみこ)は狩りに出て猪に食い殺されてしまった。残された忍熊王(おしくまのみこ)には、倉見別や五十狭茅宿禰らの支持者が付いていた。
日本書記の記載では、このとき、応神天皇は生まれたばかりであり、母親の神功皇后は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
以上が日本書紀に記載された内容(年齢を除く)である。復元年代を当てはめると、次のようになる。
応神は380年に18歳となっていた。応神を支持する側は、武内宿禰と武振熊に命じて、数万の軍勢により攻め、忍熊王と支持者を殺害した。
仲哀天皇の一族を抹殺し終えた応神は、381年、19歳で天皇に即位した。応神紀には神功が摂政となったことは書かれていない。

神功皇后は「半島への介入」と「応神天皇の正当性」の代弁者
362年に、神功皇后が行ったとされる新羅征討(古事記)、三韓(新羅、高麗、百済)が日本に降伏する記事(日本書紀)は、年代として合致しない。現に、仲哀は380年まで存在し、神功の記事は仲哀崩御直後の362年の出来事として記したもので、年代的にもあり得ない。
日本書記の編者は、神功皇后に、応神天皇が行った新羅征討などの半島への介入に関する代弁者の役割を持たせた。神功の記事は、応神3年次、392年に記載された半島への武力進出の記事を30年間前倒しして、362年としたものである。
同時に、応神誕生から即位までの19年間が上記30年間の中に含まれていて、応神天皇誕生の正当性を持たせた。

2009年7 月 8日 (水)

日本武尊(倭建命)と仲哀天皇の年令を探る

日本武尊はどういう人物であろうか
以下に、日本武尊と皇子である仲哀天皇に関する復元年代について述べるが、先ず、「表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表」を見ていただきたい。
この「表107」は、「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に、日本武尊の年代を付加したものである。

表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表

日本武尊の復元年代では、329年、景行天皇15歳の時に生まれ、日本童男(小碓命)と呼ばれる。
景行27年次(復元7年次)344年、景行天皇の命を受けて、16歳で熊襲征伐に出る。熊曾武を討った時より日本武を名乗る。[「景行27年-16歳日本武」は重要なチェック事項である。年次表が正しいことを証明する事項であるから覚えておいてほしい。]
日本武尊は、景行28年次(8年次)345年、熊襲を平定して西国より帰国する。景行40年次(10年次)347年、19歳のとき再び天皇の命を受けて、東国平定(古事記では、東征)に向かう。景行41年次(11年次)348年に、東国から帰る途中、三重の能褒野(のぼの)において亡くなる。記載では30歳で亡くなったとする。
復元年代は、景行27年次と景行40年次の間に10年間延長が加えられており、これを減じると41年次に20歳で亡くなったことになる。日本武尊が30歳となる年代は、単純計算では51年次に相当するが、景行42年次からは9年間延長されているため、これを減じると、日本武尊は景行60年次に30歳となる。

日本武尊は、景行天皇の崩御の年に亡くなった
仮に、記載のとおり30歳で亡くなったとすると、復元年代は358年となり、景行天皇崩御の年と同年である。日本武尊が天皇であったという見方もあるようだが、このことから生じたのかも知れない。しかし、前述したように、日本武尊の誕生年は329年で、景行15歳の時に生まれたのである。太子であったと記載されているが、天皇であった根拠はないし、分身というのも当たらないようだ。
編者は、日本武尊がいつ生まれ、いつ亡くなったか分らなかったので、それならば、ということで、景行15歳の時に日本武尊が誕生したとし、景行崩御44歳のときに合わせて、日本武尊が30歳で亡くなったと設定したのである。
なお、「景行天皇と日本武尊の崩御を同年に設定した」ことには、編者の素晴らしい企み(数字のからくり)が秘められている。(後述する。)

仲哀天皇は、日本武尊が亡くなった翌年に誕生する
成務天皇の復元年代は、成務48年次、359年に即位し、成務60年次、371年に崩御された。仲哀天皇即位前紀には成務48年次に31歳で太子になったと記載する。
[「成務48-31歳仲哀立太子」も重要なチェック事項である。]
また、成務崩御のとき、仲哀は43歳であった。仲哀天皇の即位は44歳で、崩御は52歳、在位9年である。
仲哀天皇の復元年代では、仲哀9年380年に崩御した。「31歳の立太子」を「仲哀の誕生」に読み替えると、仲哀の誕生は359年となり、380年、22歳で崩御したことになる。
仲哀天皇の誕生した359年は、成務天皇即位年であって、景行天皇と日本武尊の崩御の翌年に相当する。日本武尊は1年違いで、すでに亡くなっていることになる。

日本武尊は亡くなり、仲哀天皇として復活する
ここで編者が考えた企みを見よう。
日本武尊は358年に30歳で亡くなったが、仲哀天皇が359年に31歳で引き継ぐ。記載には現れないが、仲哀天皇の誕生と日本武尊の誕生年は同年なのである。
さらに、記載上では仲哀は31歳で立太子となるが、復元においては、立太子は誕生を意味する。すなわち、「日本武尊の年代(および年齢)を仲哀天皇が引き継ぎ、併せて仲哀天皇の誕生として日本武尊は復活する。」日本武尊と仲哀とは同体の如く緊密に繋がっているのである。日本武尊の皇子が仲哀天皇であることは明瞭である。

似て非なること
日本武尊は死んで、血の繋がった皇子の仲哀が誕生する。日本武尊の復活である。
仲哀天皇が死んで、応神が誕生する。仲哀天皇は応神天皇に殺される。さらに仲哀の幼い皇子らも殺される。
日本書記は同じパターンが繰り返されることがあるが、「似て非なること」の代表例である。

諸説に対する見解
日本武尊や仲哀天皇に関しては、いろいろな説が見られる。
日本武尊は複数の人物を集合させた、という見解もある。数字から複数の人物を引き出すことはできない。決定的のおかしいのは、複数の人物の集合体から仲哀天皇が生まれたとでも言うのであろうか。それでも、複数の人物の業績を、日本武尊に集合させた、という意味なら納得できる。現に、東征の際には、吉備の武彦と大友武日連を従えている。

また、「日本書紀では、父日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然な証拠からも、仲哀天皇架空説は根強く言われている。」そうである。36年という数字から判断すると、記載年代の比較らしい。日本書記が大幅に年代延長していること、正しい判断には復元した年代で行うことを知らないとでもいうのであろうか。もっとも、「記載年代においても年代の整合性が採られているはず。」といいたい気持ちは、分らないわけではない。
しかし、「記載年代においても年代の整合性が採られていなければならない。」となり、突き詰めれば、「年代延長という嘘に合わせて、嘘をつき通せ」となってしまう。そこまで考えることでもなかろう。