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2010年4 月 9日 (金)

日本三大桜の樹齢

「日本三大桜」と呼ばれる桜がある。

山高の神代桜(山梨県北杜市武川町山高・エドヒガンザクラ・推定樹齢1,800年・根回り約12m・目通り幹周り10.6m)

根尾の淡墨桜(岐阜県本巣市根尾板所・ヒガンザクラ・樹齢1,500余年・根回りは11.3m・目通り幹回り9.91m)

三春の滝桜(福島県田村郡三春町・エドヒガン系紅枝垂れ桜・樹齢1,000年以上・幹周り8.1m(地上高1.2m))

「日本三大桜」は、1922年(大正11年)10月に国の天然記念物に指定されている。

いずれの桜も、上記に示した通り、樹齢は1,000年以上~1,800年の古木であり、幹回りからも巨大な桜であることがわかる。古木で、巨大であるだけに風雪の被害や幹の老化が著しいが、多くの方々の保護により維持されているようだ。

日本最古といわれる山高の神代桜がある寺が実相寺である。 自宅のあった茅野市からはそれほど遠くなかったので、時期には何度か訪れた。高遠の桜とともに愛着のある桜である。

住職のHPの記事に、「長い歳月の風雪等の被害で中央幹、南北の枝は折れ、東西の枝も半分以上朽ち、昔のおもかげはありませんが、日本一を誇る貫禄を示しております。」とあるが、数本の若い枝が育ち、樹形を取り戻すにはあと50年~100年は必要なのかもしれない。 

最近、テレビで各地の桜の紹介をやっていて、神代桜についても何度か放映されている。

記紀の年代復元をやっていると、テレビで樹齢2,000年と説明されることに多少違和感を覚える。

神代桜HPには、「2,000年もの間、ただ一度さえ休むことなく花を咲かせてきた山高神代桜は日本三大桜のひとつ。日本武尊が東夷征定の折りにこの地に留まり、記念にこの桜を植えたといわれている。」とある。しかし、「境内立て札では1,800年以上と記載する。」

2,000年前としたら、西暦元年である。邪馬台国で有名な卑弥呼ですら西暦200年頃から247年(または248年)の人物である。それ以前に、第12代の景行天皇やその子の日本武尊が存在しないのは明らかなことである。

日本書記の古代の年代は大幅に年代を引き延ばしている。

日本書紀に記載された日本武尊の東夷征定の時期は、景行天皇40年次=西暦110年となっているが、年代は引き伸ばされているから、正しい年代ではない。

世の中には、今でも日本書記の年代を正しいと考える人もいるようだから、仮に日本書紀の年代が正しいとするなら、今(西暦2,010年)から1,900年前に植樹されたことになる。従って、1,800年以上前と表現しようと、2,000年と云おうとどうでもよいことかも知れない。

筆者が面白いと思うのは、このように日本書紀の引き伸ばされた古代の年代をそのままに用いるということである。(古いことを強調するために日本書紀の年代を使えば、当然古くなる。古く見せようとする場合によく用いる手法である。)

日本書紀は神武天皇の即位年を820年ほど前に引き上げ、西暦前660年とした。景行天皇の年代も引き上げられているから日本書記の数字をそのまま利用するのは無理がある。

幸いなことに、古事記は崇神天皇崩御を西暦318年、成務天皇崩御を西暦355年と記しているので、日本武尊の東征の時期は、ほぼ西暦340年~350年と推測される。伝承が正しいとすれば、樹齢は1,660年となる。1,800年以上前とか2,000年前というのは誇張しすぎる表現であり、そんなことをしなくても、神代桜を見ればその幹回りなどから古さについて十分納得するはずである。

淡墨桜(うすずみざくら)とは、岐阜県本巣市(旧・本巣郡根尾村)の淡墨公園にある樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木である。蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花びらの色にちなむ。樹齢は1500余年と推定され、継体天皇お手植えという伝承がある。

愛知県一宮市の真清田神社ゆかりの土川家で発見された古文書『真清探當證』の記述によると、次のように記載されているそうである。

「男大迹王は、皇位継承をめぐり、雄略天皇から迫害を受けたという。男大迹王は、僅か生後50日で養育係を勤めていた草平・兼平夫婦に預けられ、災いを避けるために真清田神社のある尾張一宮から更に美濃の山奥へ隠れ住んだ。この間には、筆舌に尽くしがたい生活を強いられたが、長じて29歳の時、都から使者が迎に遣わされ、男大迹王は都に上がり、第26代継体天皇として即位された。男大迹王がこの地を去る時、檜隈高田皇子(第28代宣化天皇)の産殿跡に1本の桜の苗木を植えた。このとき次の詩を詠まれた。

    身(み)の代(しろ)と遺(のこ)す桜は薄住(うすずみ)よ
         千代にその名を栄盛(さか)へ止(とど)むる  


日本書紀によると、継体天皇の即位は西暦507年とされる。この年に淡墨桜を植えたとすると、今(2,010年)から1,503年前に当たる。また、宣化天皇が雄略天皇11年(西暦467年)に生まれたとみなされることからから、淡墨桜を植えた年代を同年とすると、今から1,543年前に当たる。

しかし、継体天皇と宣化天皇の年代、特に生年には問題があり、上記の伝承の即位年齢とも合致しない。即位507年についても確定したものではないが、大きな狂いがあるとは思えない。「樹齢は1,500余年と推定され、」とは、上記の状況を考慮したものであるといえる。

2010年4 月 6日 (火)

建御名方神の素性

建御名方神の素性を明らかにする。すでに多くの方がいろいろな見解を示されている。筆者なりきに整理し、纏めたものであり、特に新しい発見はない。

先ず、建御名方神と高志国、沼河比売との関係や国譲りについて記紀等の記載を見る。
・『古事記』によれば、八千鉾神(大国主神)は高志国の沼河比売(奴奈川姫)と結ばれる。また、建御名方神は我が子という。ただし、沼河比売との間の子とは明示されていない。国譲りについては、建御雷神が大国主神の子である事代主神と建御名方神を服従させ、大国主神から国譲りをされる。
・『先代旧事紀』によれば、建御名方神は大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子とされる。国譲りについては『古事記』と同じである。
・『日本書記』には、建御名方神は記載されていない。『日本書紀』の一書では、経津主神、建御雷神を遣わして、葦原中国を平定させる。国譲りを催促し、大己貴神(大国主神)、大物主神、事代主神が帰順する。
・『出雲風土記』では、大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子は、神御穂須須美命であり、三保に鎮座されている。建御名方神は記載されていない。
・『諏訪大明神画詞』には建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。『諏訪大明神画詞』については、議論の対象外としたい。
以上から、『先代旧事紀』が、建御名方神を母である沼河比売を通して高志国との結びつきを示すが、それ以外には高志国、沼河比売との関係は明示されていない。それも『出雲風土記』によって否定される。
しかし、『先代旧事紀』と『古事記』の記載を信じれば、国譲りの出来事があった時期に建御名方神が諏訪に入ってきたことになる。本当に、信じてよいのだろうか?

もう一度、諏訪大社に祀られている神についてみる。諏訪大社の主祭神は建御名方命とするが、別称として建御名方富命・南方刀美命・御名方富命がある。
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。

記紀には大きなからくりがある。その一つが建御名方命の扱いである。解明するため、記紀における神武東征を見よう。
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは登美の那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は神武に天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は那賀須泥毘古の妹登美夜毘売を娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については記載されていない。
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を登美白庭邑(奈良県生駒市の北部)に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。

長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうかする見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのはそれなりの理由があるのだ。
また、記紀は出雲の国譲りを効果的に表現するため、神武東征の戦いで健闘した建御名方命を国譲りという別の出来事に登場させ、敗れた武将として記載し、神武東征においては長髄彦として扱ったのである


一層明確にするには系図が重要になるが、信頼できる宝賀寿男氏の見解を参考にする。詳細は、「長髄彦の後裔とその奉斎神社  宝賀寿男」を参照のこと(パソコンで検索可能)。
上記資料から次の一文を紹介する。[ ]内は筆者の記載。
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
このことは、大国主神と大物主神は別神であることを示している。極めて重要な示唆であり、前に述べたとおり、出雲の国譲りと神武東征の登場人物を明確に区分けしなければならない


建御名方命が実在した時期は、上記に示したいずれの見方の場合も、神武即位西暦162年頃のことで、今から1850年程前である。
諏訪に入ったのが建御名方命自身か、その一族かは分らないが、入諏した時期は上記の年代からそれほど離れない時期であろう。
注)筆者は、神武即位年を西暦162年とするが、宝賀寿男氏は西暦175年とし、13年異なる。しかし、多くの歴史家の中では、筆者の解読した年代に最も近い。