建御名方神の入諏時期
とりあえず、パソコン上で得られれた情報をもとに、自分なりに整理してみようと思う。
諏訪大社由緒略誌では、「御鎮座の年代は千五、六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられる」としている。
御鎮座の年代は、西暦元年から西暦500年の間となる。
千五、六百年前は両方の共通点であるが、諏訪大社由緒略誌は、大きな幅を持っている。それぞれ何が根拠になっているのだろうか。
建御名方神は、『古事記』において、葦原中国平定に関する大国主神の国譲りに繋がる記事として次のように記載されている。
建御名方神は、大国主神の子で、国譲りに反対し、建御雷神と戦い、敗れた建御名方神は、科野国の州羽(諏訪)に追い詰められて「この地以外の他所には行かない」と約束し、降伏した。
建御雷神は『古事記』の表記であるが、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。雷神は剣の神でもある。神武東征において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下の倉に自身の分身である佐士布都神という剣を落としたとされる。
しかしながら、建御名方神に関する『先代旧事本紀』や『古事記』の記載(建御雷神との戦い)は、作者の創作とする見方がある。そうだとすれば、上記の1850年前とする年代も根拠のないものとなる。ただし、創作として片付けるのは容易なことであり、筆者としては同調できない。(この件についてはさらに詳細を述べるつもりである。)
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。
1)守矢家の七十八代を継承された守矢早苗さんの「守矢神長家のお話し」には、『この塚(神長官裏古墳)について、祖母の生前、「用明天皇の御世の我が祖先武麿君の墳墓です。」と説明をしていた』と書かれている。
この塚とは、神長官裏古墳と呼ばれ、茅野市教育委員会により、築造年代は7世紀頃と推定されている。また、武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。そうすると、物部守屋没年(587年)と神長官裏古墳の年代を7世紀前半と見做せば、ある程度年代が合ってくる。
また、守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのことであり、仮にそれが正しいとすると、洩矢神と戦った建御名方神の入諏は西暦600年代初期となり、今から千四百年前になって、千五、六百年前の表現はさらに百年も後にずらさなければならない。
また、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られた。」としている。
上記の持統天皇五年の勅使に関しては、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。
三韓出兵は『古事記』によれば西暦362年とされる(筆者は392年の出来事と見做す)。上記の伝承が正しいならば、建御名方神は西暦300年代末には既に諏訪大社に鎮座されていたことになる。従って、「神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり」という記載と『諏訪大社由緒略誌』における「御鎮座の年代は千五六百年前」は年代として矛盾し、最低でも100年前に修正し、千六、七百年以前としなければならない。
さらに、白雉3年(652年)朝廷が綿を諏訪明神に奉る。(出所:未確認)
大化元年(645年)本田善光が諏訪明神の神勅により寂光寺より仏を諏訪郡真志野村善光寺に移し、後に、長野に移されたとされる。(出所:未確認)
その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴(おとえい)は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
注1)金弓は、舎人として欽明天皇(539~571年)の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とする。金弓の子・は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられ、諏訪評に進出した。用明天皇(585~587年)の時、麻背は子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせた。
それぞれの大祝の出現した年代は用明天皇(585~587年)の頃で一致するが、詳細を見ればかなり異なる点がある。
1)の場合の建御名方命の入諏は用明天皇の年代よりも後でなければ説明がつかない。
3)の場合には洩矢神と建御名方神の戦いの有無と年代が不明であるが、年代としては用明天皇(585~587年)の年代以前となり、場合によっては数百年も遡る可能性を有している。
参考2)崇神天皇(302~318年)の時代に建五百武尊、科野国造となる。(下社大祝の祖)
用明天皇(585~587年)の時代に、科野国造麻背君(五百足君)の子・乙穎(一名神子くまこ、熊古)、湖山麓に社壇を構え、諏訪大神と百八十神を千代田の斎串を立てて奉斎。(諏訪大神大祝)(『阿蘇家系図』)