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2010年4 月 6日 (火)

建御名方神の素性

建御名方神の素性を明らかにする。すでに多くの方がいろいろな見解を示されている。筆者なりきに整理し、纏めたものであり、特に新しい発見はない。

先ず、建御名方神と高志国、沼河比売との関係や国譲りについて記紀等の記載を見る。
・『古事記』によれば、八千鉾神(大国主神)は高志国の沼河比売(奴奈川姫)と結ばれる。また、建御名方神は我が子という。ただし、沼河比売との間の子とは明示されていない。国譲りについては、建御雷神が大国主神の子である事代主神と建御名方神を服従させ、大国主神から国譲りをされる。
・『先代旧事紀』によれば、建御名方神は大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子とされる。国譲りについては『古事記』と同じである。
・『日本書記』には、建御名方神は記載されていない。『日本書紀』の一書では、経津主神、建御雷神を遣わして、葦原中国を平定させる。国譲りを催促し、大己貴神(大国主神)、大物主神、事代主神が帰順する。
・『出雲風土記』では、大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子は、神御穂須須美命であり、三保に鎮座されている。建御名方神は記載されていない。
・『諏訪大明神画詞』には建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。『諏訪大明神画詞』については、議論の対象外としたい。
以上から、『先代旧事紀』が、建御名方神を母である沼河比売を通して高志国との結びつきを示すが、それ以外には高志国、沼河比売との関係は明示されていない。それも『出雲風土記』によって否定される。
しかし、『先代旧事紀』と『古事記』の記載を信じれば、国譲りの出来事があった時期に建御名方神が諏訪に入ってきたことになる。本当に、信じてよいのだろうか?

もう一度、諏訪大社に祀られている神についてみる。諏訪大社の主祭神は建御名方命とするが、別称として建御名方富命・南方刀美命・御名方富命がある。
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。

記紀には大きなからくりがある。その一つが建御名方命の扱いである。解明するため、記紀における神武東征を見よう。
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは登美の那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は神武に天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は那賀須泥毘古の妹登美夜毘売を娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については記載されていない。
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を登美白庭邑(奈良県生駒市の北部)に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。

長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうかする見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのはそれなりの理由があるのだ。
また、記紀は出雲の国譲りを効果的に表現するため、神武東征の戦いで健闘した建御名方命を国譲りという別の出来事に登場させ、敗れた武将として記載し、神武東征においては長髄彦として扱ったのである


一層明確にするには系図が重要になるが、信頼できる宝賀寿男氏の見解を参考にする。詳細は、「長髄彦の後裔とその奉斎神社  宝賀寿男」を参照のこと(パソコンで検索可能)。
上記資料から次の一文を紹介する。[ ]内は筆者の記載。
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
このことは、大国主神と大物主神は別神であることを示している。極めて重要な示唆であり、前に述べたとおり、出雲の国譲りと神武東征の登場人物を明確に区分けしなければならない


建御名方命が実在した時期は、上記に示したいずれの見方の場合も、神武即位西暦162年頃のことで、今から1850年程前である。
諏訪に入ったのが建御名方命自身か、その一族かは分らないが、入諏した時期は上記の年代からそれほど離れない時期であろう。
注)筆者は、神武即位年を西暦162年とするが、宝賀寿男氏は西暦175年とし、13年異なる。しかし、多くの歴史家の中では、筆者の解読した年代に最も近い。

2010年3 月 7日 (日)

建御名方神の入諏時期

ここ数年『古事記』や『日本書紀』の記載から古代の年代を明らかにできたらと考え、記紀に記載された数字を基に年代解読を進めてきた。また、筆者はかって諏訪・茅野に住んでいたことがあり、諏訪大社や建御名方神に関する歴史にも興味をもっていたが、具体的には何もしてこなかった。最近、建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期に関する記事を見て、なんとなく腑に落ちないところがあり、調べてみようと思うようになった。
とりあえず、パソコン上で得られれた情報をもとに、自分なりに整理してみようと思う。

 

茅野市にある神長官守矢史料館には、「建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期を今から千五百~千六百年前」とする紹介の記事が張り出されている。おおよそ西暦400~500年となる。
諏訪大社由緒略誌では、「御鎮座の年代は千五、六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられる」としている。
御鎮座の年代は、西暦元年から西暦500年の間となる。
千五、六百年前は両方の共通点であるが、諏訪大社由緒略誌は、大きな幅を持っている。それぞれ何が根拠になっているのだろうか。

建御名方神は、『先代旧事本紀』において、大国主神と高志沼河姫との間に生まれた子とされる。
建御名方神は、『古事記』において、葦原中国平定に関する大国主神の国譲りに繋がる記事として次のように記載されている。
建御名方神は、大国主神の子で、国譲りに反対し、建御雷神と戦い、敗れた建御名方神は、科野国の州羽(諏訪)に追い詰められて「この地以外の他所には行かない」と約束し、降伏した。
建御雷神は『古事記』の表記であるが、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。雷神は剣の神でもある。神武東征において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下の倉に自身の分身である佐士布都神という剣を落としたとされる。

以上の『古事記』および『日本書紀』の記載を信じれば、建御名方神が諏訪に入った時期は、神武即位(筆者の年代解読結果は西暦162年)以前となり、現時点(西暦2010年)から見れば、少なくとも1850年前となる。
しかしながら、建御名方神に関する『先代旧事本紀』や『古事記』の記載(建御雷神との戦い)は、作者の創作とする見方がある。そうだとすれば、上記の1850年前とする年代も根拠のないものとなる。ただし、創作として片付けるのは容易なことであり、筆者としては同調できない。(この件についてはさらに詳細を述べるつもりである。)

 

さて、諏訪地方には『諏方大明神画詞』以外にも種々の資料があり、冒頭に記した千五六百年という年代(西暦400~500年)の根拠に何があるのかを確認してみよう。

『諏方大明神画詞』などの伝承によれば、古来諏訪地方を統べる神として洩矢神がいた。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。

上記の説明では、年代については皆目わからない。もう少し関係する記事を挙げてみる。
1)守矢家の七十八代を継承された守矢早苗さんの「守矢神長家のお話し」には、『この塚(神長官裏古墳)について、祖母の生前、「用明天皇の御世の我が祖先武麿君の墳墓です。」と説明をしていた』と書かれている。
この塚とは、神長官裏古墳と呼ばれ、茅野市教育委員会により、築造年代は7世紀頃と推定されている。また、武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。そうすると、物部守屋没年(587年)と神長官裏古墳の年代を7世紀前半と見做せば、ある程度年代が合ってくる。
また、守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのことであり、仮にそれが正しいとすると、洩矢神と戦った建御名方神の入諏は西暦600年代初期となり、今から千四百年前になって、千五、六百年前の表現はさらに百年も後にずらさなければならない。

2)『諏訪大社由緒略誌』には、その御神徳として「当大社は古来より朝廷の御崇敬がきわめて厚く、持統天皇五年(西暦691年)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願なされたのをはじめ、歴代の朝廷の御崇敬を拝戴してきました。
 また、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られた。」としている。
上記の持統天皇五年の勅使に関しては、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。
三韓出兵は『古事記』によれば西暦362年とされる(筆者は392年の出来事と見做す)。上記の伝承が正しいならば、建御名方神は西暦300年代末には既に諏訪大社に鎮座されていたことになる。従って、「神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり」という記載と『諏訪大社由緒略誌』における「御鎮座の年代は千五六百年前」は年代として矛盾し、最低でも100年前に修正し、千六、七百年以前としなければならない。
さらに、白雉3年(652年)朝廷が綿を諏訪明神に奉る。(出所:未確認)
大化元年(645年)本田善光が諏訪明神の神勅により寂光寺より仏を諏訪郡真志野村善光寺に移し、後に、長野に移されたとされる。(出所:未確認)

3)諏訪氏は、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族である。
 その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴(おとえい)は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
注1)金弓は、舎人として欽明天皇(539~571年)の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とする。金弓の子・は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられ、諏訪評に進出した。用明天皇(585~587年)の時、麻背は子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせた。

上記3)の場合、乙頴が上社の大祝となった時点で諏訪大神を祭ったことになるが、祭神は建御名方神であったと推測される。ということは、建御名方神の入諏はそれ以前の出来事であったはずである。

上記1)と3)を違いは、上社の大祝家の出自が異なることである。1)では、建御名方命の後裔と称し、2)では神八井耳命の後裔となっている。
それぞれの大祝の出現した年代は用明天皇(585~587年)の頃で一致するが、詳細を見ればかなり異なる点がある。
1)の場合の建御名方命の入諏は用明天皇の年代よりも後でなければ説明がつかない。
3)の場合には洩矢神と建御名方神の戦いの有無と年代が不明であるが、年代としては用明天皇(585~587年)の年代以前となり、場合によっては数百年も遡る可能性を有している。

 

 

参考1)『日本の苗字7000傑』の姓氏類別大観では、饒速日命を祖とする物部守屋の後裔武麿を宮道氏(物部氏より分かれる)とする。ただし、諸説あるが、武麿が諏訪に逃れた記載はない。
参考2)崇神天皇(302~318年)の時代に建五百武尊、科野国造となる。(下社大祝の祖)
用明天皇(585~587年)の時代に、科野国造麻背君(五百足君)の子・乙穎(一名神子くまこ、熊古)、湖山麓に社壇を構え、諏訪大神と百八十神を千代田の斎串を立てて奉斎。(諏訪大神大祝)(『阿蘇家系図』)

2009年10 月11日 (日)

諏訪大社の鹿食免(かじきめん)

久しぶりに、上諏訪に立ち寄った。一杯やりながら、鹿肉の串焼きを食べたが、店主がいろいろな話を聞かせてくれた。
日本中、鹿や猪が増えてしまって、困っているようだが、食ってしまうのが解決策となるという。冷凍ではないから、美味いでしょう、という。以前にも何度か食べたことがあるが、ほとんどが冷凍であったと記憶している。
諏訪では、諏訪大社に伝わる食文化を現代に生かすため、鹿食免(かじきめん)振興会を設立し、諏訪産鹿肉料理の普及に取り組んでいる。諏訪湖温泉旅館組合の協力で、ホテルでは一般向けの食事会「鹿食免昼会席」を実施したり、鹿肉料理の可能性を探り、飲食店や宿泊施設向けの調理技術講習や試食会を行って、新しい肉材としてアピールしようとしているそうである。

諏訪大社の分社は一万有余社を数え、お諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、全国に分布する。筆者が諏訪に住んでいたころ、どなたか言ったか覚えていないが、日本中に多くの分社がある理由を、「仏教の伝来に伴って、肉食をタブーとする考えが出てきて、肉食を禁止するおふれが出された。しかし、シカ・イノシシなどの獣肉を堂々と食べることができた。それには、諏訪大社が狩猟の神であり、神に捧げる狩猟は許され、お下がりを食することができた。肉を口にしてしまえば、そのおいしさに、たびたび食べたくなる。そこで各地の領主や武将はこぞって、自分の国に分社してもらい、肉を食べることができた。」と説明してくれた。肉食に偏った見方であるが面白い。確かに、日本書記の天武4年次(675年)に、「・・・牛・馬・犬・猿・鶏の宍(しし、肉)を食らうこと莫(まな、禁止を表す、食ってはいけない)。・・・若し犯すこと有らば罪せむ」と記されている。

米国が、牛肉を日本に大量輸出しようとした時の話とまるで同じである。「牛肉を一度食べさせてしまえば、そのうまさに病みつきになる。」といったとか。

諏訪大社の分社に対する説明は、少し違う。
「御射山祭という神事がある。鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧ケ峯一帯で武芸を競わせたりして祭事を賑わしめ、参加した武将は諏訪大神の御分霊を拝戴して任地に赴き、御分社を奉齋した。」
祭神は武家の守護神と尊ばれた。それ以外にも、雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰を有する。また水の信仰が海の守り神となるなど幅広い信仰と結びついていることが、日本各地に広がった理由としている。

鹿食神事
本来の祭神は出雲系の建御名方ではなく、ミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるとされる。なお、上記の神々は現在では神性が習合・混同されているが、神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。
鹿食神事は、神楽殿において宮司、神職たちによって執り行われる。周囲の灯火が消され、殿内のわずかな明かりの中で祭事が進行する。神饌として、かつては鹿の頭が供えられていたが、現在では茄子を鹿の頭に見立てて供えられる。国家安泰、五穀豊穣を祈る神事である。

鹿食免とは
仏教の教えが肉食を禁じていた時代(江戸時代)に、諏訪大社が肉食の免罪符として「鹿食免」というお札を発行していた。このお札を持っていると、シカ・イノシシなどを獲って食べても罰せられなかった。免罪符のようなものである。
信濃毎日新聞の記事によると、現代版のお札は、「鹿食免」の文字を記し、諏訪大社の焼き印が押されている。また、神職からは、鹿食免の札などを収めた「神棚」を調理場に祭ってほしいとの提案もあったそうだ。

追記(2010.3.1

近くまで来たので、諏訪大社に寄ってみた。上記の記事通りに、「鹿食免」のお札を売っていた。お札には次の勘文(諏訪のはらえ)が記されている。

諏訪の勘文

業儘(人遍なし)有情(ごうじんのうじょう)

雖放不生(はなつといえどもいきず)

故宿人身(ゆえにじんしんにやどりて)

同証仏果(おなじくぶっかをしょうせよ)

諏訪の勘文の意味

前世の因縁で宿業の尽きた生物は

放ってやっても長くは生きられない定めにある

従って、人間の身に入って死んでこそ

人と同化して成仏することができる