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2009年9 月30日 (水)

「古代天皇長寿の謎」を読んで

「古代天皇長寿の謎」(著者:貝田禎造、昭和60年12月15日、六興出版)によって、古代の暦がどのようなものであったかを明確にされたことは、大きな成果であり、素晴らしいことである。しかし、算出された在位および復元年代は間違えている。
物事には功罪が付きまとう。古代の暦を明らかにした成果を「功」とすれば、年代は、「罪」である。暦の成果にひかれ、年代や在位の誤りに気付かないのである。ある意味で氏の復元年代は正しさと誤りを同居させている。理屈に合致する部分があるから、正しく見えてしまうのである。
応神以降の年代は中国史書が誤りであることを示してくれている。筆者は神武天皇の年代から誤りであることを指摘したいが、神武即位年や在位に言及がない。神武天皇の年代を示さず崇神天皇から書き始める例は見かけるが、神武没年のみ示し、綏靖天皇から始まるのは見たことがない。おそらく、神武天皇を書くと、間違いがばれてしまうと思ったのか、それとも神武天皇の年代を解読できなかったのだろう。

筆者が「古代天皇長寿の謎」に関して投稿に踏み切ったのは、貝田氏に対してではなく、間違った復元年代を引用し、お茶を濁すようなちょっとした修正を加えて、同調する多くの著名な学者がいることに憤慨しているためである。後述するが、貝田氏は「日本書記の側に誤りがある」として、「誤りの年数」を書き残してくれている。実際に誤ったのは貝田氏の方なのだが、誤りの年数を計算すると、より正しい年代が読み取れるのである。

貝田氏が証明されたことと証明されなかったこと
貝田氏は、「普通の1年が4倍の4年に引き伸ばされる」ことを証明されたのであるが、
神武天皇から仁徳天皇までの年代が4倍に引き伸ばされている」や「各天皇の在位は4倍に引き伸ばされている」は証明されたわけではなく、神武天皇即位年と開化天皇没年に限れば、年次表の解読でも4倍であり、4倍で一致するだけである。そして個々の天皇の年代や在位に関しては、4倍にはならないのである。筆者の「合成年次表」を見てもらいたい。
また、履中天皇以降においては、「1年が2倍に伸ばされる」ということを根拠に復元された年代が、中国史書の年代と一致しないが、理由は同じである。履中天皇以降の場合は、正しいとされる中国史書の年代があるため、貝田氏の復元年代が否定される。
神功皇后の場合も百済の記事がある。百済の記事の年代は実際と120年の差を持っているが、4倍では記載されていない。それどころか正確に等倍(1倍)である。しかも、一度下った年代は、再び繰り上がるのである。まして、神功皇后の在位69年は復元では存在しないのだから、等倍(1倍)でも4倍でも関係がないのである。古代の暦に関する解釈は正しくても、日本書紀の年代や在位には一律に適用できないのである。

神武の在位は4倍暦ではない
貝田氏が、神武天皇の在位を示さず、また重要なはずの神武即位年も示さなかったのはなぜかを考えればよい。
ちなみに、神武天皇に関しては相当の数のデータがあり、神武東征の7年間には、月日を伴う記事が18件あり、即位から崩御までには76年間のうち、月日を伴う記事のある年は6年分、6件しかない。太歳干支が付与された神武東征が実年(等倍)の7年で記載されていることについても何も述べていない。即位から崩御までの記事のない残りの70年が4倍に引き伸ばされている保証もないのである。これらのことは、「神武在位14年のからくり」に述べたので参照していただきたい。そこでは神武即位から崩御までは5.53倍に伸ばされているとしている。従って、神武天皇に関し一律に記載在位を1/4にして得られた在位は全く意味のない数字にすぎない。
綏靖以降の各天皇の在位は、神武で明らかにしたとおり、4倍ではないのである。神武即位から開化崩御までは以下に述べる通り140年であるが、神武在位が19年ではなく14年であるから、5年分は他の天皇が穴埋めするのである。各天皇の在位は4倍(1/4)を中心にデコボコしているのである。

主要天皇な年代、在位のみ4倍
1年が4倍の4年に引き伸ばされる」ということは、「4」という倍数が極めて重要な数値であることを示唆する。
編者は個々の天皇とは別に、年代構成上の主要な天皇において「4」という倍数を用いたのである。例えば、崇神の在位が該当し、記載在位68年は、復元在位17年になる。それに伴い神武即位から開化没年(あるいは崇神没年)までの合計在位(空位年を含む)が「4」倍になっている。神武即位BC660から開化没年BC98年までの563年は、復元合計在位としては1/4の140.75年(140年)となる。同様の計算により、神武~崇神の復元在位は157年、神武~仁徳の復元在位は265年となる。
上記に述べたように合計在位が分かっているため、開化没年あるいは仁徳没年が決まれば、自動的に神武即位年あるいは没年が決まる。
筆者は神武即位西暦162年、仁徳没年西暦427年±1年と考えている。貝田氏は仁徳没年を西暦439年とする。その差は12年程であり、誤差±1年から見れば極めて大きな数字の食い違いである。
直接の原因は、履中、反正および雄略の各天皇のから在位を記載通りとみるか、それとも1/2とみるかであり、これらが明確になれば食い違いはほとんど解消する。

各天皇の復元年代の積み重ねは誤差が大きくなる
貝田氏は、というよりほとんどの学者は、推古辺りから各天皇の在位を積み重ねて、神武の年代にたどり着く。誤差が積み重ねられれば、(誤差の±が相殺されればよいが)自づから神武即位年は最も誤差が大きくなる可能性がある。
筆者の場合は神武前紀に記載のニニギ降臨の暗号からスタートしたため、神武の年代が先にあり、順次年代を下ってきた。古事記の年代でも御年の解読(神武137年誕生)により、神武の年代が先に決まっている。筆者の記事を読めばお分かりになることである。従って筆者の場合は、各天皇の在位を積み重ねる必要はなく、年代を記載内容に基づき区分けしているだけなのである。

応神以降の復元年代
貝田氏は、応神、仁徳の各天皇は在位が4倍に延ばされているとし、応神崩御417年、仁徳崩御439年とする。また履中から雄略までを在位が2倍伸ばされているとし、履中崩御442年、反正崩御445年、允恭崩御466年。安康467.5年、雄略崩御479年、とする。
中国史書に記載された五王との関係を見ると、雄略は武、安康該当なし、允恭は興と済が該当、反正は済、履中は該当なし、仁徳は珍と讃、応神は413年の朝貢となる。
この復元年代と朝貢した天皇との関係には問題が多い。復元年代が間違っているため中国史書とは一致しないのである。それも日本書記のいい加減な記載年代よりもさらにひどい復元年代になっている。
1年が2倍に引き伸ばされている」という判断自体を疑わなければならない。

日本書記は、応神は7年、履中・反正は2年、允恭・安康4,5年の誤りを含むか?
貝田氏は、「日本書記は、天皇の没年が、応神は7年、履中・反正は2年、允恭・安康4,5年の誤りを含んでいる。」という。
前後の文章から推測すると、「仁徳~雄略紀は旧暦と太陰暦の資料が混在していて、(日本書紀の編者が)正確に整理できなかったか、それらの資料に誤りがあったからである。」ということらしい。日本書記からの復元は正しいが、中国史書と年代が一致しないのは、日本書記が間違えているから、間違えた復元年代になった、と言っているようでもあり、実際のところ、記述からは正確なことは分らない。

誤ったとされる年数から正しい年代を推定する
さて、上記の「日本書記は、天皇の没年が、応神は7年、履中・反正は2年、允恭・安康4,5年の誤りを含んでいる。」の解釈について、貝田氏は日本書記の編者の側に問題があるとする。多分、ご自身の暦の読みを重視し、上記の数字を日本書記の編者の誤りとしたため、結果正しい復元年代を提案できなかったのであろう。折角、「日本書記の編者が誤ったとする年数」を出されているので、この年数を基に筆者が勝手に推測した年代を紹介する。
貝田氏の算出された応神から安康までの崩御年代に、「日本書紀の編者が間違えたという年数」を修正する。前述したとおり、貝田氏が2倍暦として扱ったことを考慮すると、修正は誤ったとされる年数を遡ることになる。修正結果は次のとおりである。

応神:崩御417年-13(=7+2+4)=403年→中国への朝貢なし
仁徳:崩御439年-13(=7+2+4)=426年(在位23年)→讃(413年の朝貢を含む)
履中:崩御442年-6(=2+4)=436年(在位10年)→430年の朝貢
反正:崩御445年-6(=2+4)=439年(在位3年)→438年の珍
允恭:崩御466年-4=462年(在位23年)→443、451年の済と460、462年の興
安康:崩御467年-4=463年(在位1年)→朝貢なし
雄略:崩御479年(在位16年)→477、478、479年の武

允恭は、興と済になり問題がある。上記では「允恭・安康4,5年の誤り」を4年として計算したが、5年の場合は462年の興の朝貢は安康になる。しかし、これ以上推測を加えると、筆者の年代へ誘導することになるので止めておく。
最も重要なことは、「応神崩御403年、仁徳崩御426年(427年?)という復元年代が算出され、応神と仁徳の復元年代は、筆者の復元年代とほぼ一致する。」ということになる。

間違えているのは、日本書紀の編者の側ではなく、貝田氏の方であるのは明らかである。」

2009年9 月27日 (日)

『神武即位822年説』(『神武即位西暦162年説』)に関して

記紀の年代解読は、神武天皇から雄略天皇まで進み、基本的な誤りがないことを確信した。
この説を命名するとすれば、『神武即位822年説』が妥当と思われる。
日本書記の「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解読から、「神武即位:神武暦822年」が読み取れたことによる。
注1) 投稿済みの「ニニギ降臨の暗号『179万2470余歳』の解読」を参照。
  
また、日本書記の年代の始まりである神武立太子年(前697年)と終わりの文武立太子年(697年)がシンメトリックを形成していることから、その中央年をニニギ元年と設定すると、上記立太子年はそれぞれニニギ元年から干支一回り60年の11回りに加算する37年(697年)離れた位置にある。即ち、中央年であるニニギ元年は辛酉の年である。分り易く西暦で示せば、シンメトリックの中央年であるニニギ元年は西暦元年(1)年(辛酉)となる。
厳密には、シンメトリックの中央年は、西暦1年(辛酉)と西暦前1年(庚申)の間にある。記載上の神武即位年が辛酉の年を選択しているため、ニニギ元年は西暦元年(1)年(辛酉)と見做す。
従って、ニニギ元年=西暦1年を基準年としてみると、神武暦822年はニニギ暦(西暦)162年=西暦162年である。
『神武即位822年説(神武暦)』は、西暦に直せば『神武即位西暦162年説』となる

古事記は、上記の正しさを示している
古事記は、神武天皇の御年は137歳であったと記載する。137歳は暗号であり、解読によってニニギ暦(西暦)137年と読む。
ニニギ暦(西暦)137年は、神武天皇の誕生年である。そして、日本書記に記載されているように、二倍暦で52歳、実年で26歳になったニニギ暦(西暦)162年に即位する。
日本書記における神武天皇の誕生年も、当然、ニニギ暦(西暦)137年である。
日本書記と古事記は、神武誕生ニニギ暦(西暦)137年、神武即位ニニギ暦(西暦)162年で一致する。

記紀の復元年代に関し気付いたこと
日本書記は、表面的には(記載上では)神武暦の年代(数字)を用いたが、ニニギ暦を暗号として取り込んだ。古事記はすべてニニギ暦の年代(数字)を用いた。
年代の表現方法は、日本書紀と古事記とでは基本的に異なるが、解読で得られる年代は共通のニニギ暦である。しかも、各天皇に関する復元年代は、一部の天皇において2年差を有することがあるが、基本的に同一の復元年代が得られた。
古事記を、日本書記に記載された神武即位年西暦前660年に合わせて読むことはナンセンスである。古事記の年代は、基準年(例えば137年)に御年の数字を加算した数字が復元年代であり、日本書紀の復元年代なのである。
注2) 古事記の復元年代の計算や結果は、カテゴリ「古事記の復元年代」に投稿済みである。

「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解との整合性
『神武即位822年説』の主要な根拠である「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」は、日本書記以外では「先代旧事本紀」、「倭姫世紀」、「ほつまつたゑ」などに記載されていることがその重要性を示す。また、古事記の「神武天皇の御年137歳」は「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」を即位年から誕生年に変化させたもので同等の重要な暗号である。
多くの方々が、記紀の復元年代を示されているが、上記の暗号の解との整合性を説明していない。暗号を解読していないこと(暗号を無視していること)、復元年代が誤っていることなどが原因である。

2009年9 月19日 (土)

日本書記は、「暗号」と「からくり」を含む「謎解きの書物」

古代を復元するには、編年体で書かれた日本書記を解読しなければならない。日本書記は独特の手法を用いて年代の構成と年代の延長を行っている。それらの主要な手法について以下に述べる。

「ニニギ降臨の暗号」
筆者は、日本書記は暗号を用いていると述べているが、主要な暗号は「ニニギ降臨の暗号」である。この暗号が関わるのは、神武の年代に限られる。しかし、歴史のスタートの部分であるから、暗号の存在は重いものがある。他にも、「年月日などの暗号」がある。

「年代(数字)のからくり」
日本書記には、全編に渡って多くの「年代(数字)のからくり」が存在する。
「からくり(絡繰り)」とは、計略、企み(たくらみ)、仕掛けなどの意味である。「企み(たくらみ)」と捉える方もおられるかもしれないが、筆者は、年代の大幅延長に伴うアイディアであり、豊かな発想の表れと捉える。
「シンメトリック」が多用されているが、「年代(数字)のからくり」の一つと考える。「37年の倍数のシンメトリック」および「697年のシンメトリック」はその典型であり、下記にその意義などを説明する。
孝元天皇、開化天皇の「前天皇を陵に葬る年次」や允恭天皇の「前天皇の濱の年次」は「からくり」と見做すほどのものではないが年代を狂わせている。年代の延長も実年でみれば数年ずつであるが合計すれば数十年になる。筆者は、これらを年代構成上の一つの手法で、年次表を誕生から記載する手法に対し、即位の数年前の年代から記載する手法である。
この手法には、垂仁天皇の皇太子時代の記載、雄略天皇の安康時代の記載なども含まれる。

「37年の倍数のシンメトリック」の意義
「37年の倍数のシンメトリック」の基準年は、天武元年672年であるが、天武2年に太歳干支が付与されている理由と関係づけて考えればよい。本来なら天武2年を元年にすべきところであるが、672年を基準年として設定するためになされたことである。「37年の37倍の1369年前(前697年)」を神武立太子年に設定し、また、「37年の36倍の1332年(前660年)」を神武即位年としたのは明らかである。
注)筆者の古い記事では672年を天智天皇崩御年と記しているが誤りであり、天武天皇元年が正しい。基準年672年(壬申の年)の重要性をもたせるために天武天皇元年としたのである。
なお、上記の説明は記載年代に関してのことであるが、復元年代の構成上の区切りと関係が見られるようである。この点については、今後の課題である。

「697年のシンメトリック」の意義
復元年代を西暦で読むことは、本来であればあり得ないことである。
記紀の編者は神武暦と共に筆者命名のニニギ暦を用いた。ニニギ暦は「697年のシンメトリック」から導き出される。文武天皇即位年(珂瑠皇子立太子年)神武暦1357年(ニニギ暦697年)と神武立太子年神武暦前37年(ニニギ暦前697年)のシンメトリックの中央年である辛酉の年神武暦661年をニニギ暦元年と設定し、ニニギ暦を復元年代に用いた。ちなみに、ニニギ暦137年は復元年代の神武誕生年であり、ニニギ暦162年は神武即位年である。ところが偶然にもニニギ暦元年と同じ紀元をもつ西暦が14世紀になって考案された。記紀編者がニニギ暦を8世紀に考案したのに対し、6~700年後のことである。
ニニギ暦と西暦は紀元が同じであり、復元年代を西暦に置き直して表示しても、結果としては誤りではないのである。

「個々の数字の吉・凶」
さらに陰陽道などの宗教的な面から来る「個々の数字の吉・凶」が考慮されている。「九九の九の段」が用いられているが、「九九=81」は最も重要な数字であり、神武即位年162年(81の2倍)と応神即位年381年に用いられている。
「九九の九の段」が用いられている天皇には、神武、応神以外では、崇神、仁徳、雄略、天武の各有力天皇がいる。

「正しい在位の記載」
以上に挙げた「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」、その他のアイディアが組み合わさって、日本書紀の年代は創作されている。しかし、それらをより有効に機能させるため、仲哀天皇と安康天皇については、年代こそ異なるが、「編者が想定していた正しい在位」が記載されている。ただし、仲哀天皇に関しては、日本書記の編者は在位9年、古事記の編者は在位7年としている。「年代(数字)のからくり」は前後の天皇に存在するため、復元を考慮して、さらに年代や在位を複雑にすることを避けたと考える。また、「九九の九の段」の「八九=72(372年)」の扱いに関わる問題でもあり、記紀の編者によって成務と仲哀天皇の位置付けに対する見解が割れたと考えられる。

日本書紀の復元年代を明らかにする場合に、「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」などの究明抜きでは、表面的な解読しかできず、正しい解読はできない。
年代構成や年代延長に関わる各種手法を、「表111 日本書記の年代構成上の各種手法」に挙げた。各種手法の分類や名称などはまだ整理できていないが、いろいろな手法が用いられていることを知ってもらいたいためである。なお、主要な手法はすでに記事や年次表上に明らかにしているので読んでいただきたい。

表111 日本書記の年代構成上の各種手法

日本書記の年代解読ができなかった理由
日本書記の編者が考え、取り込んだアイディアは豊富である。しかし、ほとんどのアイディアは、既に年代解読に挑戦された方々によって明らかにされている。それが正しい解読に結びつかないのは理由がある。
一つ目は、暗号の解読を無視したことである。「ニニギ降臨の暗号」は極めて単純な暗号である。多少の年代に関する知識、例えば『神武暦』などを知っていれば解読できる。それを、「国史に暗号など用いるはずがない」とか、「語呂合わせのような解読結果は認められない」、といった解釈をするようだが、「編者の時代と編者が考えたこと」を理解できていない。
二つ目は、アイディアを一律に適用させようとするためである。明らかにされたアイディアは一部に用いられただけで終わる。次には別のアイディアが登場する。編者は「一律」をバカ者、脳なしと考えた。発見された日本書紀記載における多くのルールを、ある批評家が、ルールの数が多すぎる、一つのルールの適用範囲が狭すぎると評したが、このような批評家に日本書記の解釈を任せられないということである。
三つ目に欠けているのは、多くのアイディアが「年代(数字)のからくり」や「数字の吉・凶」などによって纏め上げられているのに気付かないことである。編者が行った年代構成を明らかにしない限り、何も見えてこない。筆者の作成した「合成年次表」を見れば一目瞭然である。大袈裟な表現かもしれないが、絵になり、芸術的である。そのように見えない個所(年代)はまだ答えになっていないのかもしれない、と思いたくなる。

復元年代の構成から見える編者の思いや考え(思想)
日本武尊と仲哀天皇の年代の関係は、編者の思いや、考え(「思想」といってもよさそう)が垣間見える。
神功皇后の数字は異なる要素を巧みに取り込み、きめ細かく設定している。
編者が作り上げた年代構成の内容には編者の思い、考えが込められている。筆者は文才がないからうまく表現できない。日本武尊や神功皇后に関する年次表をじっくりと見ていただければ、編者の思いや考えが分るはずである。

日本書記の編者の良心
日本書記は、以上に述べたとおり、「暗号」、「からくり」、「個々の数字の吉・凶」を含む「謎解きの書物」である。
重要なことは、編者は、解けるだけの情報を記載の中に潜ませていることである。他国の古代の歴史書においても記載年代が延長された例が見られるが、正しい年代が用意された歴史書があるかどうか知らない。この辺りが、日本書記の特異な点であり、編者の良心というものであろうか。日本書記および編者に関するこの事実を見失ってはならないし、日本書記の評価を誤ってはならない。」

2009年9 月16日 (水)

記紀(日本書紀と古事記)の復元年代に関する裏付けデータ

記紀の年代、在位などの復元の結果は、カテゴリ「最新の復元年代と裏付け」に収めた「記紀(日本書紀と古事記)の最新の復元年代」に記載した。最新の復元年代は、次の「表3 記紀の復元年代の比較」を見ていただきたい。
追記(2009/11/11)
新たに、先代旧事本紀の復元年代の解明ができたので、「表3・・・」に加えた。

表3 記紀の復元年代の比較

復元年代に関する裏付けは多岐にわたる。大半の記事が復元の根拠に関する関係記事であるが、分りにくいと思われる。裏付けとなる主要な資料・データを纏めたものを下記に示した。

日本書記の復元年代の解読結果とその裏付け

日本書記の年代などの復元に関する主要な裏付け資料としては、各天皇の情報を合わせた「合成年次表」がある。「合成年次表」は、日本書記に記載された各天皇の年代、在位、年齢に関する情報を、総合的な年次表としてまとめ、それらのデータ間の整合性を図り、年代、在位、年齢を復元したものである。
以下の解読資料(合成年次表)で、復元年代などが確認できるはずである。
「表12-1 神武~崇神の復元年代の詳細」
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」

表12-1 神武~崇神の復元年代の詳細

表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細

次の解読資料は、各天皇の復元年代の正しさを側面的に証明するものである。
神功皇后に関する年代解読:「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」

表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)

表109 神功皇后の年次表の詳細

日本武尊(古事記:倭建命)と仲哀天皇に関する年代解読:「表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表」

表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表

さらに各天皇の詳細を見る場合は、「○○天皇の年次表を解読する」の記事(個別年次表)を見ていただきたい。「個別年次表」から、記載された個々の記事の復元年代が、ある程度の精度(±1年程度)で得られる。

古事記の復元年代の解読結果とその裏付け

古事記に記載された御年などの数字はすべて暗号であり、復元年代を示している。古事記の数字の数は少なく、単独では解読できないが、日本書紀に照らすと復元年代が容易に得られる。同時に、そこで得られた年代は日本書記の解読を助け、解読の正しさを明らかにする。古事記の年代などの復元に関する主要な裏付け資料は、次のとおりである。
表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)
表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

2009年9 月13日 (日)

神功皇后の年次表を解読する(外交史を含む)

日本書紀の神功皇后の年次表の解読の基本的なことについて述べる。
神功の記載内容は豊富である。201年から始まり、269年100歳で亡くなるまでの摂政在位69年には中国史書に関係した年代や、百済に関する年代が含まれているためである。現在でもいろいろな解釈が生まれるのは、神功皇后の位置づけが特異なためであるからで、記述に惑わされ、複雑に考えるため在位や年代を見誤るのである。記載された数字について、素直に考えればよいのである。

第一に、神功皇后の在位については、天皇と同等の在位は存在しない。摂政在位69年は架空のものである。
しかし、神功の記述は、応神天皇の誕生が神功皇后摂政元年、記載年代201年、復元年代363年であることを示している。また応神天皇の記載在位41年との関係と、応神崩御記載年代310年は、復元年代403年を示唆する。
関係する天皇の年代と在位については「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に示すので見ていただきたい。

表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細

第二に、日本書記の編者は架空の神功皇后を創作したが、編者が描いた神功皇后の原人物像は年次表の解読によってある程度得られる。神功皇后の存在とそれに伴う摂政在位を信じる学者が主張する年代や在位は、ほとんどがこれに相当するものである。
架空の人物像としての神功皇后に関する解読結果は、「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」に示した。その裏付けとなる「表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果」も添付する。

表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)

表25-1 神功皇后の「年月日」解読結果

表109 神功皇后の年次表の詳細

架空の神功皇后の原人物像を考える場合の年代や年齢に関する情報は、上記の「表25」の注にポイントとなる事項を述べておいた。
以下に補足説明をさせていただく。

記載年代は二系列に分けられる。
A系列は201年から242年までである。この年代を実年代に直すには162年を加えればよい。
その訳は、仲哀崩御200年が実年代では362年であり、その差が162年であるから、201年に162年を加えるのである。記載年代200年=実年代362年が否定されない限りにおいて、それ以外はあり得ないのである。
B系列は243年から始まる。大半の記事は百済関係であり、実年代に直すには120年を加えればよい。百済関係、特に百済王が記載された年次は120年を加えると百済の歴史にほぼ一致する。また、神功の没年である269年も、実年では120年を加えた389年であり、干支が一致するのは60年の整数倍を加えたのであるから当然である。
中国史書に関する年次239年、240年、243年、266年は、編者が中国史書を見て、それぞれ該当する年に組み入れたものである。

神功皇后の摂政在位について
一つ目は、神功摂政元年は363年、摂政退位は371年、在位9年であり、没年を389年とする考え方である。摂政退位371年の考えの根拠は、51年次(復元年代371年)の記事「朕が存(い)けらむ時の如くに、厚く恩恵を加えよ」を摂政退位の言葉と見るからである。
二つ目は、神功摂政元年は363年、崩御389年とし、在位は27年とする考え方である。
神功崩年100歳(実58歳)に相当する年代である。

日本書記の編者は賢い。創作が簡単に見破られるようなことはしない。古事記の編者も抜かりがない。上記の記事をとらえて、神功皇后の摂政の期間9年分が応神在位に含まれているかのような錯覚を起させた。

神功皇后の年齢について
201年、復元年代363年における神功皇后の年齢は、32歳が読み取れる。モデルが誰なのかの検討に役立ちそうな気がするが、筆者はまだ検討できていない。
ただし、年齢からみて、仲哀天皇が14歳で即位したとき神功皇后は41歳(または25歳)であるから、仲哀天皇の皇后とするのは妥当ではない。古事記に記載された通り、大后である点は間違いがない。

応神天皇崩御後の空位年は編者の腕の見せ所
日本書記の編者は年次表の構成において、神功皇后摂政元年の201年、復元年代363年を応神の誕生年とした点も見事である。
さらに、編者の応神天皇崩御後の空位年の扱い方は抜群である応神天皇の崩御の年齢を在位に見せかけ41年(歳)とし、他方で神功皇后の最終年次として42年次を作ったことである。
42年次、即ち404年は、神功皇后と応神天皇の一連の物語の年代に含まれることを示すことによって、404年が空位年であることを示唆した。それに伴い、仁徳天皇の在位は405年から始まることになるのである。
注)摂政69年次は見掛け上最終年次であるが、復元年代は389年であり、42年次404年の方が下った年代になる。

2009年9 月 4日 (金)

孝元天皇~崇神天皇の年次表を解読する

筆者は、「各天皇に、『年代(数字)のからくり』が少なくとも1件は存在する」と主張してきたが、孝元天皇から開化天皇の年代には『年代(数字)のからくり』が見つかっていなかった。さまざまなからくりの仕組みが解読できてきたことから、再度見直しをした結果、孝元天皇と開化天皇の年次表に記載された前の天皇の陵に葬る年次を見ると、孝元天皇にあっては6年次になっていること、開化天皇においては5年次になっていることに気付いた。それぞれの天皇の復元年代、この場合は即位の年代、の位置付けを6年あるいは5年ずらしてみなければならないということであった。
追記(2009/10/14)従来の年次表「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を修正したので見ていただきたい。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

新しい復元年代と在位は、次のとおりである。
孝元崩御:293年、在位26年(従来:296年、在位29年)
開化崩御:301年、在位8年(従来:301年、在位5年)
これにより、各天皇のチェック事項における1年ずれおよび開化天皇と崇神天皇の接続の問題が解消した。

開化天皇と崇神天皇の年代の接続
最大の収穫は、孝元天皇~崇神天皇の記載された事項(チェック事項を含む)と復元年代が一致したことである。
特に、開化天皇および崇神天皇において、年代の接続が悪かった従来の復元年代が、整然とした。従来、2年のズレがあり補正が必要としたり、2倍暦と実年記載の切り替わる年代で調整する考え方を示してきた。
上記の新しい解読方法では、2倍暦が用いられたのは開化崩御301年まであり、崇神即位302年から実年による記載に切り替わる。筆者の主張する「2倍暦と実年記載の切り替わる年代が開化と崇神の間にある」という考え方は活かされていて、一層明確な解決となった。