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2009年10 月31日 (土)

新発見・・・・日子穗穗手見命五百八十歳の意味

古事記は、「日子穗穗手見命(ホホデミ)は、高千穂の宮に五百八十歳坐しき」と記載する。
「580歳」は、解読できない数字の一つである。
普通に読めば、「ホホデミは高千穂の宮において、五百八十年間、天下を治めた。」となる。580年では長すぎるが、神代のことだから、2倍暦や4倍暦と違い、10倍暦や20倍暦で書かれているのかも知れない。

日本書記には、「ニニギの暗号179万2470余歳」がある。
解読方法は2種類あり、一つ目は、個々の数字を加算し、300余年を得る。それに従えば、580歳は13年または130年となる。
二つ目は、2桁または3桁の数字を加算し、822年を得る。580年は、上記の他に、58年、85年などが得られる。また、それぞれの逆数もありうる。際限がない。

解読方法の新しい発見
解読には、古事記の解読がヒントになる。解読方法の新しい発見があった。
古事記の御年の解読にはいろいろな解読方法が存在する。まともな解読とはいえないと思いながらも、捨てきれない解読例があり、「表93-1  記紀による崇神以降の暗号解読結果(面白い解読の仕方)」に集めている。
その中の一つに、次のような解読方法がある。
古事記の崇神天皇の記載に、「御年一百六十八歳、戊寅の年の12月に崩御」とある。
一百六十八歳を分解した逆数601と18に、12月の12を加算すると、631が得られる。
631とは、神武暦631年であり、日本書記に記載された崇神天皇の崩御の年、ニニギ暦前(西暦前)30年に相当する
。」解読として、復元年代は得られないが、記載年代を正しく示している。

上記の解読方法を「五百八十歳」に適用する。
五百八十歳を分解した逆数805に10を加算すると、815となる。815とは、神武暦であり、ニニギ暦(西暦)155年に相当する。
「五百八十歳」は、日本書記に記載された神武東征の出発年BC667年の復元年代155年を示している
。」

古事記および日本書記の紀年に関係する暗号を纏めると次のようになる。
古事記:「神武天皇の御年137歳」→西暦137年(神武誕生)
古事記:「ホホデミは、高千穂の宮に五百八十歳坐しき」→西暦155年(神武東征出発)
日本書記:「ニニギの暗号179万2470余歳」→神武暦822年→西暦162年(神武即位)
注1)ニニギ暦は、西暦と紀元を同じにする。

2009年10 月26日 (月)

古事記の懿徳天皇と孝昭天皇の御年の出所は、日本書紀である

古事記の懿徳天皇の御年45歳や孝昭天皇の御年93歳の数字がどのようにして得られたかについて、今まで分らなかった、
解読できたので、関係記事「古事記の暗号解読と復元年代」(カテゴリ「古事記の暗号」 2009/10/25改訂)に追加記載した。是非、お読みいただきたい。

神武暦93年次には、神武は59歳である
孝昭天皇の御年93歳は神武93年次を指す。日本書記には76年時までしか記載されていないから93年次など気付くはずもない。しかし神武の年次をそこまで延ばしたのは、神武一族(神武~懿徳)の年次を示すためである。懿徳崩御年が93年次になる。
また、神武の実年齢を伸ばしていくと93年次には59歳になっている。
59歳が懿徳の崩御年代の計算に用いる数字である。

では、懿徳に記載された御年45歳は何を意味するのか?
懿徳天皇の45歳は、綏靖天皇と同じである。45歳で計算すれば当然綏靖の崩御年になるだけで、既に分かっていることである。
この意味は、懿徳の計算においては、「綏靖に注意して計算しなさい」ということになる。
そこで登場するのが、シンメトリックである。神武一族全体に存在する14年のシンメトリックであり、ここでは綏靖の御年45に14年を加算すれば、懿徳の計算に必要な59が得られるということを示唆する。在位に直せば、安寧の在位4年と懿徳の在位10年を加算した数字が14になるということになる。
ここまで分れば、懿徳天皇の年代は、計算するだけである。222年が得られる。

さて、古事記の編者は、「神武93年次、神武59歳」を、どうして知っていたのか?
古事記の解釈に対し、新しい情報が得られた。答えを出すには、まだ早すぎる。もう少し情報を集めた方がよいと思われる。

2009年8 月22日 (土)

仲哀天皇の「年月日の暗号」を解読する

日本書記における仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果を紹介する。
読者の皆さんには、「年月日の暗号」があることは述べてきたが、積極的に紹介することをしてこなかった。
理由は、「年月日の暗号」が極めて原始的な暗号であり、確証が得られるまで発表を控えてきたためである。
他の手法により信頼できる復元年代が得られてきた。やっと、「年月日の暗号」から見た場合にはどのようになっているかを再確認することができるようになってきた。それにより、編者が年代や在位についてどのように考えていたか、より明確にできると考える。

仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果
解読結果は「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に示したので見ていただきたい。

表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読

日本書記解読1と解読2を比較しながら見ていただきたい。
解読1と解読2の結果は、仲哀天皇の崩御年を示すが、これは「年代(数字)のからくり」である。神功摂政1年(201年)が、363年を示唆するための見掛け上の年代を示すものであり、これにより応神の誕生年363年を指定している。
解読2の結果は、仲哀天皇の復元年代における正しい仲哀崩御年380年を示している。
上記の結果は、他の手法、例えば仲哀天皇や応神天皇の個別の年次表および各天皇を集めた合成年次表の結果と基本的に一致する。

記紀間の復元在位の食い違いは仲哀天皇と成務天皇のみである
しかし、古事記の仲哀天皇の崩御の復元年代は380年で、日本書紀の復元年代と一致するが、即位年の復元年代は一致しない。仲哀天皇の場合には、在位が9年なのか7年なのか、記載在位においても日本書記と古事記では異なっているが、復元においても同様に異なっている。
日本書記の仲哀即位年は372年、在位は9年であり、古事記は即位年374年、在位7年である。それに伴い成務の在位も2年異なる。
このような日本書記と古事記の間の在位の食い違いは、仲哀天皇と成務天皇に限られるようである。

日本書記の「神功皇后摂政在位零のからくり」
「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に記したように、日本書紀の復元年代には「年代(数字)のからくり」があり、神功皇后の摂政の在位が零であるすれば、この「見事なからくり」の意味も分るというものである。
解読1で示される結果は、362年の翌年363年に重要な意味がある。記紀の編者は、応神の誕生、363年を明確にした。
解読2は、解読1で仲哀天皇の崩御年が使われてしまったため、正しい崩御年を解読するための暗号を崩御年の「年月日」に仕掛けた。
解読1で得られた応神誕生363年と共に、応神の崩御年齢を在位41年として示唆することにより、応神天皇の復元を可能にしてくれたのである。
ちなみに、応神天皇は、363年誕生、381年19歳で即位、403年41歳で崩御となる。

古事記は日本書紀の解読方法を示唆する
古事記は、日本書記とは異なる暗号をもって仲哀天皇と応神天皇の復元を可能にしている。さらに、古事記は、日本書紀の仲哀天皇の崩御年の解読方法を、応神天皇の事例を用いて示唆してくれる。
古事記の応神天皇の年月日は、九月九日と記載されているが、「九九=八十一(81)」で、応神即位年が381年であることを示す。従って、仲哀天皇の崩御年は前年の380年である。示唆の重要なポイントは「九九の九の段の活用」である。
日本書記の解読に、「九九の九の段」を応用すれば、仲哀崩御年は次のようになる。
「九五=四十五」+「九七=六十三」+九八=七十二」=百八十年(180) から
二百年+百八十年=三百八十年(380年)
[(9×5)+(9×7)+(9×8)=45+63+72=180→200+180=380
なお、計算に用いた二百年とは、日本書記の仲哀天皇崩御の記載年代である。

2009年7 月21日 (火)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(垂仁編)

崇神天皇~仲哀天皇の崩年干支は次のような年代として読み取られている。ここでは干支自体を議論するつもりはないので、年代に置き換える。
崇神崩御年:318年
垂仁崩御年:干支の記載なし→333年
景行崩御年:干支の記載なし→348年
成務崩御年:355年
仲哀崩御年:362年
上記より、垂仁から成務までの合計在位は、37年と計算される。同様に垂仁から仲哀までの合計在位は、44年である。

古事記の崩年干支の欠落の穴を埋める
先ず、垂仁天皇と景行天皇の崩年干支がないため、空白となっている年代の穴を埋めておこう。
垂仁崩御年:333年[318+12+153=333](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、153は垂仁の御年)
景行崩御年:348年[318+12+168=348](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、168は崇神の御年)
以上より、垂仁の在位15年、景行の在位15年、成務在位7年となり、合計在位は37年で、上記の計算上得られる合計在位と一致する。

新説古事記復元モデル

古事記の分注崩年干支に関する一考察(応神編)において、仲哀天皇の崩御年は18年遡って設定されていると述べた。
とすると、仲哀天皇の崩御年は、362年に18年を加算すれば、380年になる。応神天皇の即位年は、381年が正しい年代である。
成務天皇の崩御年は、仲哀天皇の在位7年が変わらないとすれば、355年に18年を加算した373年となる。
それでは、この18年は、垂仁、景行、成務の在位と年代に対し、どのような影響を与えるか、古事記に記載の数字を用いて解読する。
仮説は、「古事記記載の御年(および月日)を構成する各数字を加算すると、在位が得られる。」である。
崇神在位:御年一百六十八歳、月日十二月→1+6+8+2=17→17年(318年)
垂仁在位:御年一百五十三歳→1+5+13または1+15+3=19→19年(337年)
景行在位:御年一百三十七歳→1+13+7または1+3+17=21→21年(358年)
成務在位:御年九十五歳→9+5=14→14年(372年、崩御後の373年は空位年)
仲哀在位:御年五十二歳、月日六月十一日→5+2=7、または6+1=7→7年(380年)
注1)( )内は復元年代である
垂仁から仲哀までの合計在位は、61年である。他方、319年から380年までは62年の在位であり、上記の仮説から計算された61年とは1年の誤差がある。
日本書記には、成務崩御後に1年の空位が存在する。この1年を活かすと、合計在位は62年となる。
さらに、成務崩御後に1年の空位年は、神武暦851年(37年の23倍)である。4倍暦で計算される年代は、373.75年で373年と見做すことができる。[851/4+161=373.75]
仲哀崩御380年から逆算すると、仲哀即位年は374年となり、その前年の373年が空位年であるとすると、年代として整合性が取れる。仮説は、正しいことになる。
筆者はこの復元年代を「新説古事記復元年モデル」と呼んでいる。

古事記の暗号は用意周到
古事記の御年と月日の暗号は、用意周到である。
記載された崩年干支に合わせて、崩年干支が欠落している垂仁と景行の崩御年を、解読できるようにした。その上で、正しい年代を導き出す各天皇の在位を、別の方法で計算できるように用意した。知りたいと考える二種類の年代あるいは在位を、暗号が教えてくれるのである。

記紀の解読結果が一致する重み
御年と月日の数は極めて少ない。各天皇に一つ、または二つの数字しかない点で、無理のない解読がなされれば、日本書紀以上に正確な年代や在位が読み取れる。また、古事記から得られた数字は、日本書紀の解読に大きな手掛かりを与えてくれる。記紀の解読結果が一致する年代と在位は、今まで以上に重みがあると考えられる。
古事記の編者は、数字を巧みに操って暗号を作り上げている。今から千数百年前の知識人が、数字とにらめっこしている姿を想像するのは楽しいことである。
古事記に記載された御年や月日は、各天皇の在位や年代を示す暗号である。」という主張も理解していただけるであろう。

古事記は、神功皇后の年代への関与を否定

さて、ここで終わったのでは、単に投稿済み、下記添付の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加) 」および「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」に記載されたことを繰り返し述べたにすぎない。
従来の古事記の分注崩年干支から読み取りされた年代とは異なる、新たな復元年代が存在するということである。新たな復元年代の必要性がなければ、暗号も必要がないはずである。
新たな復元年代は、「神功皇后の年代への関与を否定したもの」である。これが古事記から解読された最も重要な結論である。
注2)表の年代が上記文面と一致しない場合は、修正が間に合わないか、あるいは新たな発見により修正したためで、ご容赦を願いたい。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

2009年7 月20日 (月)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(応神編)

明治時代、那珂博士は、「上代年紀考」において、古事記の分注崩年干支を基に年代を示した。これが今日においても通説とされている。当時としては画期的なものであったようだ。
実際には、倭の五王に関わる年代と中国史紀の年代にかみ合わない部分があるが、それでも日本書記よりは無理なく整合性を取れるとされる。

古事記の復元年代とは

筆者の応神天皇の復元年代を基に、古事記の復元年代に対する考えを述べる。
古事記は、日本書紀の解読書である」と述べてきた。この表現は、誤解を招きやすい。古事記に記載された文言や、系譜まで拡大した意味は持っていない。「古事記は、日本書記の年代に関する解読書である」が筆者の主張である。
「古事記は、日本書紀の文言や系譜に関して、批判を加えたものである」という主張に関しては否定しないが、比較検討していないのでコメントは特にない。

日本書記の復元年代を求めた活動は盛んであるが、古事記の年代解読の記事は見たことがない。「解読書」という表現はあるようだが、年代全般に関するものも見当たらない。
古事記の数字から復元年代を解読できていないのだから、古事記を基に日本書紀の年代を解読するということができるはずがないのは当然である。
筆者は、古事記に記載された「御年(みとし)」、崩年時の「月日」、「治天下の年数」を用いて復元年代を得ることができた。
勿論、古事記だけの情報で復元年代が得られたわけではなく、日本書紀の情報があってのことである。ただし、古事記の復元には古事記の数字しか用いていない。

古事記の分注崩年干支の意味

古事記の分注崩年干支に関して、崇神から仁徳までについて述べる。(仁徳以降は別途述べる)
崇神から仁徳までの分注崩年干支は、崇神崩御と仁徳崩御の干支が正しいだけである。逆にいえば、垂仁から応神までの干支は正しくないということである。このような結果は、古事記の編者が神功の年代をどのように評価し、加味したかによって生じた問題である。
先ず、重要なことは、古事記の編者も日本書記の編者もほぼ一致する正しい復元年代を知っていたということである。
古事記は、神功の年代を設定していない。しかし、古事記の編者は、日本書紀における神功皇后が三韓征伐で活躍し、応神が誕生した仲哀9年362年にこだわりを持たざるを得なかった。恐らく、古事記の編者といえども、当時の時代背景や日本書紀によって作られた神功皇后を称える風潮を打ち破れなかったのか、あるいは日本書記の解読書としての性格から362年が妥当であると考えたのかも知れない。それによって、362年以前の垂仁、景行、成務、仲哀の各天皇の在位を合計で18年前倒しをし、誤った年代を記載した。
注1)日本書紀における200年(201年)は、362年(正しくは、363年)に相当し、応神の正しい誕生年が記載されているため、古事記の編者は日本書記の記載に同調せざるを得なかった。

古事記の正しい復元年代

古事記から、応神天皇の正しい年代を知るには、次のように読み替える必要がある。
古事記は、応神天皇の即位年は、9月9日(九九=81)の381年であり、これが正しい年代であるとする。垂仁から仲哀天皇までの年代で18年前倒しをしたと前に述べたが、仲哀天皇の崩御の年代は362年でなく、9月9日(九+九=18)で、18年を加算した380年が正しい年代である。
古事記は、応神天皇の在位を32年と記載したが、逆数の23年に読み替えて(32年から9年差し引いた23年としてもよい)、即位年381年から計算すれば403年が得られる。
また、古事記は、9月9日の9年を応用して次のように応神天皇の年代を解釈することができる。応神在位32年に9年分の摂政期間があるように、含みを持たせた。その結果、摂政なしの応神の実在位は23年であることを示すが、結果として9年分前倒しになっている。応神崩御394年は、9年遡った年代であり、9年分の年代を下げると応神崩御は403年になる。応神即位381年、崩御403年、在位23年が正しい復元年代であり、日本書記の復元年代と一致する。

古事記は、日本書記の講義に使われたようである。例えば、神功皇后と応神天皇の説明は次のようだったかも知れない。
日本書記は、神功皇后が三韓征伐を行った200年に応神天皇をお産みになられ、69年間摂政につかれた。応神天皇は、即位270年に即位され、310年に崩御、在位41年と記載する。この年代などの数字は延長がなされており、正しい年代ではない。神功皇后の三韓征伐は国威発揚のためであり、応神天皇の記事は応神天皇の正当性を知らしめ、皇室を守るためである。従って古事記においても、日本書紀と同様の記事を載せ、分注崩年干支(年代)を前倒しして、ごまかしているので、古事記の分注崩年干支を見るときには注意しなければならない。」
注2)この記事の冒頭に述べた通説は、まんまとごまかされてしまったのである
注3)筆者は、古事記の新羅征討、あるいは日本書記の三韓征伐と称される戦いがあったことを否定していない。日本書記の記載は、392年の出来事を、応神3年(382年)と仲哀9年(362年)に分割して記載し、後者は30年分前倒しされていると解釈している。

次に、日本書記の解読方法を説明しよう。
「表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細」および「表109 神功皇后の年次表の詳細」を見ながら読まれると理解できるはずである。

表12-2 崇神~仁徳の復元年代の詳細

表109 神功皇后の年次表の詳細

日本書記における神功皇后の記事は、年代を過去に大幅に遡るための設定であり、69年間は無視すればよい
日本書記では、仲哀天皇の即位は192年、崩御は200年、在位9年である。神功皇后は存在しないから、仲哀天皇の年代は下ることになり、即位372年、崩御380年となる。在位9年は変わらない。復元年代は、記載年代に180年を加算することになる。(これに伴い、成務、景行、垂仁の年代も下るが、説明は省略する。)

応神天皇の誕生363年、崩御403年の根拠
日本書記では、応神天皇の誕生は、201年である。神功紀の記載では、200年、仲哀9年に生まれたことになっているが、父親不明を避けたごまかしである。日本書記の応神紀では、誕生年(203年、年3歳)と宝算110歳(201年誕生、310年崩御、宝算110歳)が明確にされている。
正しい復元年代は、201年に神武即位年162年を加算した363年である。応神天皇の誕生の記載は神功皇后に記載されたものであり、復元年代は162年を加算すればよいのである。
そして応神の在位41年は、41歳で崩御されたことを示し、363年1歳から計算すると、403年が41歳で、崩御年は403年となる。日本書記が年代と年齢について事実をズバリ書いた珍しい例である。尤も、事実といっても、編者が想定した数字であることに変わりはない。
注4)神功皇后の摂政元年の国内記事は、正しい年代に対し162年のズレを持っている。よく120年ズレているかのように受け取れる主張を見受けるが、神功皇后および応神天皇の中の百済関係の記事が120年のズレを持っていることとごっちゃにしてはならない。

応神天皇の年代差は111年(37の3倍)から93年に変わる
日本書記の記載では、応神即位270年となっているが、古事記で説明したとおり、復元年代は381年である。復元年代に対するズレは、111年(37年の3倍)に設定されている。
注5)神功皇后の摂政69年次、記載年代269年は、復元すると380年である。摂政元年には162年のズレがあったが、摂政69年次、380年には111年のズレに変わる。年代差は162年から111年に低下し、年代のズレ(年代差)は51年消費した(減じた)ことになる。残りの18年が有効年代であり、363年応神1歳から380年18歳までの年数に相当する。

日本書記の応神の即位381年は、神功の在位の69年分が影響し、倍暦の計算では読み取れない。合成年次表で、仲哀の崩御年を読みとって、はじめて応神即位年が読み取れる。古事記が示唆してくれているから分るものの、日本書紀だけでは容易には分らない。従って、応神即位381年を主張する学者の方々を見受けないのは当然のことである。
なお、応神崩御403年の時点の年代のズレ(年代差)は、111年から18年減じた93年になるはずである
記載では、応神崩御310年で、復元では403年であるから、年代差は93年で、上記のとおりである。

応神即位381年の正しさ

仮説として、応神の即位年を381年と設定し、日本書紀の年代解読上の各種手法に当てはめてみれば、その正しさが分るであろう。
(例1)神武、崇神、応神の3天皇は神の文字が入っている。この3天皇の誕生年、即位年または崩御年には、神聖な「九九」の数字が入っている。神武誕生137年(七八56+九九81=137)、神武即位162年(九九81×2=162)、崇神崩御318年(二九=18)、応神誕生363年(七九=63)応神即位381年(九九=81)である。聖帝といわれる仁徳の崩御427年(三九=27)にも入っている。同じ「九九」でも、神武には2組、応神には1組である。しかし他の天皇には「九の段」はあっても「九九」は入っていない。応神天皇は、神武天皇に次いで重要視されていたのである。
注6)「九」は、「極まった数字」であり、「九九」は重節、重九である。

(例2)応神在位は381年から403年までの23年である。他方、仁徳天皇の在位は405年から42年までの23年であり、404年を基準にした23年のシンメトリックを形成する。
注7)本来年代については、神武暦およびニニギ暦を用いて説明しなければならないが、簡略化させてもらい、西暦で説明した。

日本書記の講義の締め括りの言葉

この講義を受けているあなたたち(皇子や貴族の子弟)は、これから国を動かしていく立場にある。従って正しい歴史と解読方法を教えたが、前に述べた理由(国威発揚と応神の正当性)から年代や年齢、文言など誇張して書かれている。あなたたちが知っていれば良く、国民に事実を知らせる必要はない。特に、正しい復元年代の解読方法は、他言無用である。」
というわけで、いつの間にか正しい解読方法は忘れられ、古事記及び日本書紀に記載された通りの内容が国内に広まった。

2009年7 月 3日 (金)

崇神天皇~応神天皇の御年は、在位を表す

垂仁天皇の御年は、一百五十三歳である。153歳としてはいけない。
一百五十三歳を分解すると、一と十五と三となる。十五は逆方向から読んだ値である。
[1+15+3=19]となるが、垂仁の在位は19年であることを示している。
以上は、古事記の解読結果であるが、日本書紀の解読結果も19年となり、一致する。

古事記は、日本書紀の解読書

なぜかと言えば、「古事記は、日本書紀の解読書」であるから、古事記を正しく解読できれば、それは日本書紀の結果が得られたことになるのである。

古事記が表に現した崩年干支による年代は、神功皇后と応神の年代を確保した上で、残った数字319年~362年の44年分を、垂仁在位15年、景行在位15年、成務在位7年、仲哀在位7年(合計44年)に割り振ったものである。上記に解読された復元年代は、神功を非存在とした(カットした)場合である。これは、古事記が裏に隠した秘密であり、正しい復元年代である。引き続き各天皇の正しい在位を述べるが、垂仁から仲哀までの合計在位は、62年である。従って、崩年干支からの読み取り年代は18年分少なくなっている。
年代でみると、仲哀崩御年は崩年干支壬戌362年に対し、380年となるから、18年差である。

景行天皇は、一百三十七歳である。同様に計算すると、[1+13+7=21]で、在位21年である。
成務天皇の御年は、九十五歳であるから、[9+5=14]で、在位14年である。
仲哀天皇の御年は、五十二歳であるから、[5+2=7]で、在位7年である。
仲哀天皇の場合は、ご丁寧にも、崩御の月日が、六月十一日になっている。ここは頭を柔らかくしないといけない。[6+1=7]と読まなければならない。多分、日本書紀の仲哀の在位が9年であるため、「9年ではなく、7年である。」と強調したかったのであろう。
応神天皇の御年は、一百三十歳であるが、これを計算しても在位にはならない。月日は、九月九日になっている。[1+13+9=23]で、在位は23年である。
最後になったが、崇神天皇の場合は、御年は一百六十八歳で、月日は、十二月となっている。[1+6+8+2=17]で、在位17年である。
崇神の説明を後回しにしたのは、冒頭から、月日を説明するのが面倒なためであった。
仁徳については、応神の後に2年の空位があることは分るが、在位については1年食い違うため、よく分らない。

上記の在位を合計すると101年となる。1年だけ、成務の後に空位年があるため、加算すると、102年となる。
崇神の即位年を、仮に302年とすると、応神崩御年は403年になる。
検算は、[403-302+1=102]である。

詳細は、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

さて、日本書紀の年代解読結果は、上記の在位と完全に一致する。順次、天皇ごとに解読した結果を投稿していく。
上記の結果を信じられない方は、筆者の他の投稿記事を読んで、頭を柔らかくした方がよい。それでも理解できなければ、自ら年代を復元しようなどと思わない方がよい。記紀の編者の素晴らしい、自由な発想や考え方を理解できないからである。

少し興味をもたれた方は、次の問題を解いてみませんか
古事記の垂仁から仲哀までの崩年干支の年代は44年であるが、正しくは18年加算した62年となる。差は18年(9年×2)である。また、古事記の応神在位は32年であるが、日本書紀は41年とする。その差は9年である。古事記の応神の崩御年は、甲午の年394年であるが、正しくは403年で、その差は9年である。以上の例は、「9」が絡む。
さて、もっと重要なところで、「9」が関係するが、それは何であろうか?
この記事の中に答えは隠されている。お気づきであろうか。

2009年6 月26日 (金)

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅱ)

投稿済みの同名記事(Ⅰ)において「十二月」は「+2年(2年を加えなさい)」の意味であると述べた。「十二月」の意味はそれだけではない。さらに重要なことが「十二月」に秘められているので、引き続き述べる。

古事記では崇神崩御年が干支で示された最初の天皇であり、その干支によって西暦318年を知ることになる。では古事記の編者は、何を根拠にその年代を特定したのであろうか。古事記の編者にしても何も根拠のない年代を適当に決めたわけではないだろう。多分このあたりの年代だろうと推定して年代を決めようとしたのは当然である。実際に、編者が年代を決めるために行った方法について述べる。

崇神は、神武から逃れられない
日本書紀は、神武から始まる年代は四倍暦(厳密には、2×二倍暦)で書かれている。そして始馭天下之天皇である神武の特性が神武~開化の年代の選定に反映されている。二人目の御肇國天皇である崇神天皇において初めて神武とは関わりのない記述になるはずと思われる。しかしそのようには成り切れず、崇神においても神武から逃れられないことがあった。それが崇神の年代である。

崇神崩御318年の根拠

神武は39歳で崩御した。編者にとって、「39年」は重要な数字であった。39年を四倍(暦)にした156年を崇神の年代にしたのである。実際には神武即位162年に156年を加えた318年を崇神の崩御年に選定したのである。言い換えれば、神武即位162年を基準として、崇神崩御を156年(「39の4倍」)後の318年とした。。[162+39×4=318

では、古事記の「十二月」はどのような関係にあるかであるが、古事記の崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。168と12は本来一つの数字であり、168から12を引かなければならない。答は156[168-12=156]となり、上記に説明した156年である。即ち、「十二月」は「-12年(12年を引きなさい)」の意味である。
繰り返しになるが、崇神の崩御の年代は、[神武即位年162+崇神御年168-「月日」12=318年]で示される。

学者の中に、崇神崩御の年代に干支258年や318年以外とする見解が見られるが、編者がなぜその年代を選定したか、説明が全くない。編者は、318年以外の年代は想定していないのであるから、説明できるはずがない。
勘ぐれば、倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼か壹与にしたいためである。倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼が仮託されているのが分らないのだ。卑弥呼と壹与は別にいる。
筆者の「卑弥呼と壹与」に関する記事を読んでいただきたい。

崩年干支が記載されない垂仁と景行の復元年代
次に、三つ目の「十二月」の意味を述べる。
古事記の崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。
「十二月」とは、「+12(12を加えなさい)」の意味である。何に12を加えるのかというと、御年の168である。そうすると180が得られる。
180という数字も重要な数字である。元々180という数字は日本書紀のニニギ降臨の暗号「179万2470余年」を解読すると得られる840に由来する。神武暦紀元前840年はニニギ暦(西暦)180年であり、この180年と共通の180年である。開化までの年代の復元において、基準年として137年が用いられたが、同様に基準年として180年が用いられたとしても不思議ではないのである。
古事記においては、崇神には崩年干支があり、年代が読める。しかし、垂仁と景行には崩年干支が記載されていないため年代が不明である。これらの年代は、崇神の崩年318年と成務の崩年355年の間にあることが分かるだけである。
解読は次のようにすればよい。
①崇神の御年は168歳(年)であり、180年(168+12=180)を加えると348年となる。348年が景行の崩御年である。
②垂仁の御年は153年であり、180年を加えると333年となる。333年が垂仁の崩御年である。
①②の年代を古事記の崩年干支の読み取り年代の空白に加えると、垂仁在位は15年、景行在位15年が得られる。

上記の復元年代は、崩年干支が空白の垂仁と景行の復元年代である。編者は用意周到である。そのような要求に応えるために、編者は、「遊び心」を持って、予め用意した。
しかし、崩年干支から読み取った年代は破綻を来している。上記の結果も同様の運命にある。
古事記の正しい復元年代は、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を参照いただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅰ)

崇神の崩御に関して、古事記では戊寅の年の「十二月」と記されている。日本書記では六十八年の冬十二月の戊申の朔壬子(五日)とある。
年が食い違っていることは、ここでは問題としない。月日の食い違いである。古事記は十二月とし、日本書紀は十二月五日とする点である。

日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味
まず、日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味を述べておく。
日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」が正しい月日であるはずがない。年代ですら疑問なのに、まして月日など分からないのであり、編者の創作である。「十二月五日」は、「月日の暗号」であり、崇神の在位17年[12+5=17]を意味する。

古事記の崇神に記載された「十二月」を解読する
本題の古事記の「十二月」について述べる。
学者は、単純に古事記が月までしか書かなかった、というかも知れない。古事記を出鱈目という方々は、日本書紀を写しただけ、というだろう。いい加減にしろといいたいが、筆者にも分からないことがあるので遠慮しておこう。
古事記が「十二月」としか書かなかった理由はもっと別のところにあるはず。敢えて、古事記の編者が「十二月」と記載したのは、古事記の編者が日本書紀の内容を知っていて、何らかの意味を「十二月」に付与したと考える。以下に解読結果を紹介する。

「十二月」は、「プラス2年(2年加算しなさい)」の意味
古事記の解読に関しては、「表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)」において述べており、開化の崩御年を次のように計算する。
開化崩御301年[(137+163-1)+2=301]
上記計算式の、137年は神武の御年137歳から解読された年代である。
163年は、開化の御年63歳に100年を加算した163年である。筆者は「百増」と呼ぶが、年代を100年以上を補正する場合の編者のルールである。孝元においてもこのルールが用いられている。
計算式の最後の2年の加算が、「十二月」から導き出された「プラス2年(2年加算しなさい)」である。

2年の加算の理由について
筆者は当初から(旧ブログにおいて)、日本書紀における開化と崇神の年代は在位との関係において、年代が不足していると述べてきた。その後、年代の食い違いは、2年とした。従って、不足している2年分を補正しなさいという意味でとらえてきた。
しかし、さらに解読が進み、日本書記の復元年代は、開化301年が得られるようになった。
年代の不足は生じていない状態になった。
2年不足していたと考えていたときは、その不足を補うためと説明ができた。現状ではその理由もなくなり、2年加算の根拠は分らなくなってしまった。

開化の宝算の数字はバラバラである
古事記の開化の御年は63歳(宝算114歳)であり、日本書紀の60歳(宝算111歳)に比して3歳大きい。一云には宝算115歳の例が記載されている。仮に2年不足しているのであれば、開化の御年を63歳に固守せずに、65歳にしさえすれば、何も問題はなくなるはずである。63歳にそれほどの根拠があると思えないからである。
ただし、古事記の解読からは、「御年は年齢ではない」としている。暗号であるとすれば、開化崩御年は、「御年63歳」と「十二月」の組み合わせとして設定された、と考えられる。

つづく

2009年6 月16日 (火)

古事記の御年(みとし)の暗号とは何か

古事記の御年(みとし)の暗号とは何か
古事記を読むと、各天皇の記事の末尾に御年が記載されている。
神武の例では次のようになっている。
「神倭伊波礼毘古天皇の御年(みとし)、一百三十七歳。御陵(みはか)は畝火山の北の方の白檮の尾の上にあり。」
誰でも、御年を崩御の年齢と考えるであろう。
実は、御年で示された数字は年齢ではなく、年代と解釈しなければならない。神武の場合は、ニニギ暦(西暦)137年に神武が誕生したという意味になる。

上記のような驚くべき解釈は、古事記単独では読めるはずがない。そのように解読できるのは、日本書紀の紀年と併せて捉えた時に初めて可能になるのである。
ここでは、古事記の紀年に関して述べる。
日本書紀の復元年代に関しては、「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」において述べたが、御年137歳(年)は、神武誕生年で一致する。
137年から137年遡った元年は、日本書紀でいうニニギ暦元年に当たる。
神武の御年だけなら、偶然の一致と思われても仕方がない。しかし、各天皇の御年も年代に関わる数字なのである。

前置きはこの辺でやめにして、古事記の復元年代の算出方法を紹介する。
復元年代の算出においては、神武の御年137歳は重要な基準年となる。
綏靖から開化までの各天皇に御年が記載されている。復元年代は基本的には次の式で表される。

復元年代(崩御の年代)=137年+御年-1年

綏靖の場合は、御年45歳であるから、181年が崩御の年になる。[137+45-1=181]
安寧の場合は、御年45歳であるから、185年が崩御の年となる。[137+49-1=185]
1年を引くのは、年令と年令を足すと1年多くなるという考えからである。
日本書紀の記述から得られた復元後の数字を借用した例を示す。
神武の即位は、26歳であるから、162年となる。[137+26-1=162]

素直に読めるのはここまでであるが、基準年は137年→162年→362年→500年と変わっていく。また、御年だけでなく、月日の数字、治天下年数が加わり、神武から推古までのすべての天皇の年代が解読される。解読された年代は、ほぼ日本書紀の復元年代と一致する。

古事記には年代などに関する数字は極めて少ない。従って、復元年代が隠されているとは考えない。しかし、記載されたわずかな数字には、とんでもない、しかし、すばらしい「からくり」があった。
特に、卑弥呼と壹与の年代が隠されていたのは驚きである。
古事記の御年(みとし)が示す紀年論と復元年代」を見ていただきたい。

2009年6 月10日 (水)

古事記の暗号解読と復元年代(まとめ)

古事記の崩年干支は、既に学者によって年代が示され、通説とされているが、御年しか記載されていない天皇の在位や年代については不明であった。スタートは年代が不明な個所を明らかにするつもりであった。しかし、崩年干支の示された天皇も含めて全く新しい復元年代が得られたので紹介する。
古事記に記載された「御年」、「月日」や「治天下年数」はすべて暗号である。復元年代は、これらの暗号解読に基づくものである。
復元年代の算出方法は、投稿済みの「古事記復元年代の算出方法」を参照していただきたい。

神武から崇神まで、神武の御年である「137」を基準に用い、各天皇の御年をいろいろと組み合わせた数字を加算している。それで復元年代が解読できるとは、誰も思わないであろう。そもそも古事記の僅かなデータから復元年代を読み取ろうとした人間はいない。日本書紀の解読すら出来ていない現状からすれば、当然である。古事記の御年を暗号と考え、解読方法が分かってみれば、極めて素直な暗号である。
「表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読(神武~開化)」を添付する。

表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読

古事記の暗号を信じる気になられたであろうか?
古事記の御年が暗号であることと解読結果が日本書紀と一致することを見ていただいたが、信じる、信じないはご自由である。
綏靖天皇、安寧天皇は基準年137年に御年の数字そのものを加算したものである。また、孝元天皇、開化天皇は、基準年137年に「御年の数字に百を加えた値」を加算しただけである。神武天皇から崇神天皇までの古事記の解読結果は日本書記の復元年代とすべて一致する。暗号として腑に落ちないと思われるのは懿徳天皇であるが、それでも日本書記の解読結果と一致している。
特に、孝安天皇の暗号は、孝安崩御と孝霊即位の年代を組み合わせた素晴らしい暗号である。併せて、卑弥呼の年代を想起させてくれる。筆者は、この暗号を作成した古事記の編者に敬意を表したい。
あなたは、古事記の暗号を信じる気になられたであろうか?

崇神天皇以降の古事記の暗号は一層複雑化する
神武天皇から開化天皇までの御年が暗号であることを信じられない方には、恐らく、崇神天皇以降推古天皇までの古事記の暗号を理解できないであろう。「各天皇の御年」に、「月日」と「治天下年数」が加わり、暗号は一層複雑になるからである。

古事記には、崇神以降、崩年干支が記載され、年代が読みとれる。しかし、その崩年干支から読み取った年代は、中国史書に残された年代と一致しない。上記の神武天皇から開化天皇までのように、暗号解読によって部分的にも復元年代が明らかにされたことは、当然崩年干支などが記載された年代、即ち崇神天皇以降においても、正しい年代が隠されていると考えられる。その信念に基づいて、崇神以降、推古までを解読した。まだ、解読結果に疑問の残る個所もあるが、「現段階における解読結果と復元年代」、ということで見ていただきたい。ちなみに、日本書紀の復元年代とほぼ一致する。
「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)
なお、表の題名を「記紀による・・・」としたのは、古事記だけでは読み切れない個所があるためである。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

参考として、垂仁、景行の欠落している年代について、穴を埋めておいた。次の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)」を見ていただきたい。ただし、この表に示した「垂仁、景行の欠落年代」は、崩年干支で読みとられた年代と一連の年代であり、最終的な正しい復元年代ではない。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

追記(1009/10/25)
上記の説明で「記紀による・・・」としたのは、古事記だけでは読み切れない個所があるため、とした。
「表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読(神武~開化)」(1009/10/25改訂)においても、備考欄の説明を読んでもらえば分ると思うが、古事記の解読には日本書記の情報が必要である。

御年の数字は、日本書紀の解読の中に表れる
例えば、孝昭の93歳は、神武一族(神武~懿徳)に関する最終的な年代を、神武の年次を延長させたときに得られる神武93年次である。「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を参照。
御年の数字は、日本書紀の解読の中に表れる。
例えば、孝昭の93歳は、神武一族(神武~懿徳)に関する最終的な年代が、神武の年次を延長させたときに得られる神武93年次である。「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を参照。
懿徳の計算に59を用いたが、その根拠の一つは、神武93年次における神武の実年齢は59歳である。
二つ目は、日本書紀の解読から、神武~懿徳の合計在位は34年と分っているから、93から34を引けば、59が得られる。[93-34=59]

合計在位の計算(筆者の悪戯)
開化崩御の計算式[(137+163-1)+2=301]から、「163-1=162」を基準年162と見做すと、残りの数字を用い在位計算をする。[137+2+1=140]140年は神武即位162年から開化崩御までの合計在位である。
崇神においても、上記と同様の計算ができる。[162+168-12=318]から、基準年162を除いた残りの数字を用い在位計算する。「(168-12)+1=157」157年は神武即位162年から崇神崩御までの合計在位である。
いずれも数字のからくりであり、筆者の悪戯である。重要なのは、読み取りの数字を用いた元の計算式である。

孝霊の御年106歳
孝霊に記載された106歳は何を意味するか考えていたところ、日本書記の解読により、孝昭から開化までの合計在位であることが分った。
孝昭即位196年と106年を用いて在位計算を行うと、301年になる。[196+106-1=301]
106年には、孝霊崩御で用いた意味とは別の意味があったことになる。

孝安の御年123歳
懿徳の説明で述べたとおり、孝昭の93歳は、孝昭の崩御年の計算には使えない数字であり、孝昭の崩御年の計算には、孝安の123歳を用いるしか手がない。今のところ、123という数字は日本書記の解読では得られていない。123が孝安崩御年と孝霊即位年の両方を示すことから、古事記の編者が創作した数字と考える。

崇神の御年168歳と十二月
崇神以降の天皇にあっては、御年を構成している個々の数字と月日を加算すると在位になる。
例えば、崇神在位は、御年168歳、十二月(12ではなく、プラス2)から、17年が得られる。[1+6+8+2=17]、また御年168歳は日本書記の68年次に百増した数字であり、168から直接年代は得られない。崩御の年代は、御年168歳と十二月(12)から318年が得られる。[162+168-12=318]
また、神武~崇神の合計在位157年が得られるが、前に述べている。[168-12+1=157]

なお、解読の根拠として上記の計算を示しているが、(筆者の悪戯を除いて)筆者が勝手に作り出したことではなく、古事記の編者が創作したことを解説しているに過ぎない。勘違いしないでいただきたい。

古事記の記載モデルと復元モデルの比較
年代や在位が記載されている崇神天皇以降について、復元年代や在位を比較したので、「表3-1 古事記の記載モデルと復元モデルの比較」を見ていただきたい。

表3-1 古事記の記載モデルと復元モデルの比較

表は、垂仁天皇以降の年代および在位の変化を明らかにしている。年代や在位が規則的に上下あるいは増減がなされていることが分る。変化の数字でみれば、9年と9の倍数18年がキーとなっている。