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2009年7 月 3日 (金)

崇神天皇~応神天皇の御年は、在位を表す

垂仁天皇の御年は、一百五十三歳である。153歳としてはいけない。
一百五十三歳を分解すると、一と十五と三となる。十五は逆方向から読んだ値である。
[1+15+3=19]となるが、垂仁の在位は19年であることを示している。
以上は、古事記の解読結果であるが、日本書紀の解読結果も19年となり、一致する。

古事記は、日本書紀の解読書

なぜかと言えば、「古事記は、日本書紀の解読書」であるから、古事記を正しく解読できれば、それは日本書紀の結果が得られたことになるのである。

古事記が表に現した崩年干支による年代は、神功皇后と応神の年代を確保した上で、残った数字319年~362年の44年分を、垂仁在位15年、景行在位15年、成務在位7年、仲哀在位7年(合計44年)に割り振ったものである。上記に解読された復元年代は、神功を非存在とした(カットした)場合である。これは、古事記が裏に隠した秘密であり、正しい復元年代である。引き続き各天皇の正しい在位を述べるが、垂仁から仲哀までの合計在位は、62年である。従って、崩年干支からの読み取り年代は18年分少なくなっている。
年代でみると、仲哀崩御年は崩年干支壬戌362年に対し、380年となるから、18年差である。

景行天皇は、一百三十七歳である。同様に計算すると、[1+13+7=21]で、在位21年である。
成務天皇の御年は、九十五歳であるから、[9+5=14]で、在位14年である。
仲哀天皇の御年は、五十二歳であるから、[5+2=7]で、在位7年である。
仲哀天皇の場合は、ご丁寧にも、崩御の月日が、六月十一日になっている。ここは頭を柔らかくしないといけない。[6+1=7]と読まなければならない。多分、日本書紀の仲哀の在位が9年であるため、「9年ではなく、7年である。」と強調したかったのであろう。
応神天皇の御年は、一百三十歳であるが、これを計算しても在位にはならない。月日は、九月九日になっている。[1+13+9=23]で、在位は23年である。
最後になったが、崇神天皇の場合は、御年は一百六十八歳で、月日は、十二月となっている。[1+6+8+2=17]で、在位17年である。
崇神の説明を後回しにしたのは、冒頭から、月日を説明するのが面倒なためであった。
仁徳については、応神の後に2年の空位があることは分るが、在位については1年食い違うため、よく分らない。

上記の在位を合計すると101年となる。1年だけ、成務の後に空位年があるため、加算すると、102年となる。
崇神の即位年を、仮に302年とすると、応神崩御年は403年になる。
検算は、[403-302+1=102]である。

詳細は、「表93  記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」を見ていただきたい。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果

さて、日本書紀の年代解読結果は、上記の在位と完全に一致する。順次、天皇ごとに解読した結果を投稿していく。
上記の結果を信じられない方は、筆者の他の投稿記事を読んで、頭を柔らかくした方がよい。それでも理解できなければ、自ら年代を復元しようなどと思わない方がよい。記紀の編者の素晴らしい、自由な発想や考え方を理解できないからである。

少し興味をもたれた方は、次の問題を解いてみませんか
古事記の垂仁から仲哀までの崩年干支の年代は44年であるが、正しくは18年加算した62年となる。差は18年(9年×2)である。また、古事記の応神在位は32年であるが、日本書紀は41年とする。その差は9年である。古事記の応神の崩御年は、甲午の年394年であるが、正しくは403年で、その差は9年である。以上の例は、「9」が絡む。
さて、もっと重要なところで、「9」が関係するが、それは何であろうか?
この記事の中に答えは隠されている。お気づきであろうか。

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