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2009年7 月 3日 (金)

景行天皇の年次表を干支から解読する

景行天皇の在位の解読には、十干を利用する。景行天皇の事跡の特徴として行幸がでてくることである。有難いことに、歴史学者の多くの方が行幸は皇太子時代のもので在位の延長に用いられているから、この分を差し引かなければならないと教えてくれる。
景行17年から20年までは行幸の記事のようであるから、これを外に放り出してしまおう。そうすると自動的に景行4年が25年と続くから景行4年を24年に置き換える。結果として、景行1年は景行21年になるのである。この作業が正しいかどうかは、十干を見比べれば歴然である。即ち、景行4年(24年)は甲であり、25年は乙である。
まだ納得いかない方のために、別の根拠を述べておこう。
景行4年の記事は、2月11日の出来事であり、次の景行25年の記事は2月12日である。
放り出した景行17年には3月12日の出来事が記載されている。景行4年の記事の後にどちらの記事が続くのが良いかは並べてみれば明らかである。
さて、放り出した景行17年から20年までの記事は、皇太子時代のこととして垂仁天皇の中に収めればよい。

古事記の崩年干支の空白を埋める

以下の記事は、以前に書いた記事であり、古事記の崩年干支の年代に結びつく。現在の考え方とは異なるが、どこが異なるかを知っておくのも重要である。
記事のない空白を見ると、当然景行1年から20年までの20年間は空白になっている。
また、景行29年から38年の10年間と景行45年から50年の6年間が空白である。
上記の空白期間のうち30年分を在位60年から引くと30年が残る。景行在位は30年の2倍暦を解消した15年が実年在位である。(6年間が空白は無視する)
景行の年代は、即位334年、崩御は348年、在位15年となる。これにより、垂仁在位15年、景行在位15年、成務在位7年の合計は37年になり、古事記の崩年干支の空白が埋まる。

現在の年代復元考え方
空年は、1年から20年までの20年間と29年から38年の10年間および42~50年次の9年の合計39年あり、60年から39年を減年すると21年が正味の在位となる。
前述した説と比べると、2倍暦の考えを捨てていることである。倍暦は[60÷21=2.86倍]で、意味はない。
垂仁崩御337年であるから、景行即位338年、崩御358年、在位21年となる。
垂仁崩御の記載年790年(神武暦)は、4倍暦を解消すると、358.5年≒358年となる。これが年代決定の根拠になっている。
なお、前述の空年6年を9年としたが、一部の記事(43年次の日本武尊の白鳥陵に関する記事)が年次を示す記事ではないため、前後の空年を含め、除外した結果である。
「表22-2 景行の年次表の解読]を見ていただきたい。

表22-2 景行の年次表の解読

筆者の雑感
「干支からは答が得られない」と考えた方は、真面目すぎて、干支の使われ方を見誤ったのである。また、編者の考えに目を向けなかったのである。
編者である天文学者は、高級官僚である。遊んでいても食うに困るわけでもない。20年もかけて作ったのであるから、時間も持て余すほどある。編纂の内容を面白くするために干支を操るくらいた易いことである。それに年代延長をすれば、没年干支を正しい干支で表示することは無意味と、始めから無視したのである。

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