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2010年4 月 6日 (火)

建御名方神の素性

建御名方神の素性を明らかにする。すでに多くの方がいろいろな見解を示されている。筆者なりきに整理し、纏めたものであり、特に新しい発見はない。

先ず、建御名方神と高志国、沼河比売との関係や国譲りについて記紀等の記載を見る。
・『古事記』によれば、八千鉾神(大国主神)は高志国の沼河比売(奴奈川姫)と結ばれる。また、建御名方神は我が子という。ただし、沼河比売との間の子とは明示されていない。国譲りについては、建御雷神が大国主神の子である事代主神と建御名方神を服従させ、大国主神から国譲りをされる。
・『先代旧事紀』によれば、建御名方神は大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子とされる。国譲りについては『古事記』と同じである。
・『日本書記』には、建御名方神は記載されていない。『日本書紀』の一書では、経津主神、建御雷神を遣わして、葦原中国を平定させる。国譲りを催促し、大己貴神(大国主神)、大物主神、事代主神が帰順する。
・『出雲風土記』では、大国主神が娶った高志国の沼河比売(奴奈川姫)との間の子は、神御穂須須美命であり、三保に鎮座されている。建御名方神は記載されていない。
・『諏訪大明神画詞』には建御名方に関する次のような言い伝えが残されている。
「当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ」、「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也。八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」
つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は八幡大井だったとし、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏訪大明神(建御名方神)と同一人物だったとする。『諏訪大明神画詞』については、議論の対象外としたい。
以上から、『先代旧事紀』が、建御名方神を母である沼河比売を通して高志国との結びつきを示すが、それ以外には高志国、沼河比売との関係は明示されていない。それも『出雲風土記』によって否定される。
しかし、『先代旧事紀』と『古事記』の記載を信じれば、国譲りの出来事があった時期に建御名方神が諏訪に入ってきたことになる。本当に、信じてよいのだろうか?

もう一度、諏訪大社に祀られている神についてみる。諏訪大社の主祭神は建御名方命とするが、別称として建御名方富命・南方刀美命・御名方富命がある。
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。

記紀には大きなからくりがある。その一つが建御名方命の扱いである。解明するため、記紀における神武東征を見よう。
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは登美の那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は神武に天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は那賀須泥毘古の妹登美夜毘売を娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については記載されていない。
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を登美白庭邑(奈良県生駒市の北部)に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。

長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうかする見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのはそれなりの理由があるのだ。
また、記紀は出雲の国譲りを効果的に表現するため、神武東征の戦いで健闘した建御名方命を国譲りという別の出来事に登場させ、敗れた武将として記載し、神武東征においては長髄彦として扱ったのである


一層明確にするには系図が重要になるが、信頼できる宝賀寿男氏の見解を参考にする。詳細は、「長髄彦の後裔とその奉斎神社  宝賀寿男」を参照のこと(パソコンで検索可能)。
上記資料から次の一文を紹介する。[ ]内は筆者の記載。
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
このことは、大国主神と大物主神は別神であることを示している。極めて重要な示唆であり、前に述べたとおり、出雲の国譲りと神武東征の登場人物を明確に区分けしなければならない


建御名方命が実在した時期は、上記に示したいずれの見方の場合も、神武即位西暦162年頃のことで、今から1850年程前である。
諏訪に入ったのが建御名方命自身か、その一族かは分らないが、入諏した時期は上記の年代からそれほど離れない時期であろう。
注)筆者は、神武即位年を西暦162年とするが、宝賀寿男氏は西暦175年とし、13年異なる。しかし、多くの歴史家の中では、筆者の解読した年代に最も近い。

2009年10 月30日 (金)

綏靖、安寧、懿徳の各天皇の崩御年は同じ年

日本書記には、「年代や在位(数字)のからくり」や「シンメトリック」が存在する。これらを正しく捉えないと復元年代は得られない。
筆者は、神武天皇から懿徳天皇までの復元年代34年(記載上は185年間)を、「神武の時代」あるいは「神武一族の時代」と呼んでいる。
以下に述べる「神武一族に関わるからくり」は、「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」に基づくものである。

日本書記の記載を翻訳すると、神武天皇は1年次(元年)に誕生し、26年次に即位し、52年次で崩御したことになる。復元年代では、神武天皇はニニギ暦(西暦)162年(26歳)に即位し、175年(39歳)で崩御された。
ここでは、表題のからくりを中心に述べる。 
上記に神武天皇は、52年次で崩御したと述べたが、この神武の年代を伸ばしていくと、神武76年次となる。日本書記の記載では、76年次は神武の崩御の年である。神武77年次から79年次の3年間は、神武崩御後の跡目争いによる空位の期間である。
さらに、神武の年次を93年次まで延ばしていく。説明は後で述べるが、93年次は神武一族が滅びてしまう年である。

綏靖、安寧、懿徳の各天皇の復元年代
各天皇の復元年代は、「表12-1 」に記載したとおり、綏靖は181年(17歳)、安寧は崩御185年(19歳)、懿徳は195年(17歳)で崩御された。
最後の懿徳崩御195年を、神武の年次でいうと、前述した93年次である。
ということで、懿徳天皇を神武一族の最後の天皇であると仮定するなら、195年に一族の歴史が終わったことになる。
さて、これで終わりにしたら、神武一族の終焉を証明することにならない。

神武一族の終焉を証明
神武93年次、ニニギ暦(西暦)195年に何があったかよく見ると、次のようになっている。
神武93年次、195年に、第2代綏靖天皇が33歳で崩御する。33歳は、記載上の最終年次33年次を指す。
第3代安寧天皇は、57歳で崩御する。日本書記では、安寧天皇の崩御の年齢を、57歳と記載する。
第4代懿徳天皇は、34歳で崩御する。34歳は、記載上の最終年次34年次を指す。
3人の天皇が、たとえ記載上の数字であったとしても、同じ年に崩御するということは、編者が練りに練った「数字のからくり」であり、神武の時代が終わったことを示す。
懿徳崩御の後は、「孝一族の時代」に変わる。

上記の「からくり」だけでは、「神武一族の終焉を証明する」には物足りないと思われるなら、
別途、投稿済みの「神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)を読まれることを進める。

2009年10 月11日 (日)

仁徳天皇以降の各天皇の年齢のからくり

仁徳以降の各天皇の年代と年齢の関係には様々なからくりが隠されている。
「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」を見てください。

表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細

仁徳天皇と履中天皇の間には年齢を介した面白いからくりがある。
仁徳の年次表には、仁徳31年次に履中の立太子がお行われ、このとき履中は15歳であったと記載されている。仁徳と履中の年齢のからくりの解読は、ここから解読することになる。
先ず、仁徳31年次を合成年次表で探さなければならない。仁徳の崩御は87年次になっていることを参考に実の崩御年齢を探した結果、「仮説1」として、実47歳で崩御したこととする。[仁徳31:15履中]は、[17:1]および[47:31]が得られるから、仁徳実17歳のときに履中が誕生し、仁徳が実47歳で崩御されたときに履中は実31歳であると計算される。ちなみに、履中在位を5年とすると、履中は実36歳で崩御されたことになる。

合成年次表に上記条件を満たすように、年齢を入れてみる。
仁徳の記載年齢と実年齢を見ると、記載年齢71歳のとき、実年齢は31歳である。面白いことに、仁徳71歳の逆数は17歳である(17歳は記載年齢の逆数で、実31歳)が、実17歳のとき、履中は15歳で立太子となる。立太子を誕生と読み替えれば、仁徳実17歳のとき、履中は誕生する。

(何を言っているか分らない方は、表をじっくり眺めていれば分るはずである。)

「仮説1」は、「17を軸とし、7、17、71の数字を用いたからくり」である。さらに、復元年代と結びつく。例えば、427年には47歳で崩御されるが、年代と年齢は20年差となっている。

仁徳と応神の年齢の関係(年代との関係)はどこにも記載されていない。427年に仁徳が47歳で崩御されたという設定を「仮説2」とすると、不思議なことに、仁徳の誕生は応神即位年と同じ381年になり、405年に25歳で即位したことになる。87年次を崩御の年齢と見做すと40年間を延長させていたことになる。これも数字のからくりと考えてよいだろう。また、前述したとおり、仁徳の復元年代と年齢の関係は、下二桁が切りのよい20年差となる。
日本書記の記載内容から、仁徳崩御が427年であることが確認されない限り、上記の「仮説1と2」は仮説のままである。しかし、創作であることを考えると、「数字のからくり」から見て、解読は正解ではないかと考える。

履中の誕生年は397年になる。即位は328年、実32歳であり、432年に実36歳で崩御されたことになる。崩御実36歳を2倍暦で表現すると、72歳と読める。
日本書記の記載では崩年70歳という数字がある。2倍暦とすれば実35歳で解読とは1歳異なる。また、日本書記記載の立太子年齢15歳の時点で2倍暦とすると立太子は30歳であり、これを延長すると72歳となり、解読結果と一致する。ただし、記載の70歳とは一致しなくなる。日本書紀における履中70歳の記載は、本文の記載ではないので、参考程度の数字と見た方がよさそうである。

履中天皇と反正天皇の年齢のからくり(月日の暗号を解読)

履中2年次に、反正の立太子が記載されている。ただし、立太子年齢は記載がない。反正は履中と同母であり、履中の弟である。履中2年とは履中2歳のとき反正が誕生したとすることができる。年子である。年代は上記に示した履中誕生年397年であるから、反正は398年に誕生したことになる。
ただし、上記の結果は次の点で矛盾する。
履中は第一子であるが、反正は第三子であるから、年子であるのは間違いである。しかし、2年で3人生まれる可能性がないわけではないが、そのような解釈は無理と判断する。
日本書記は反正の崩年を59歳と記載し、古事記は60歳とする。復元とは異なる。

別の観点から見ると、反正の誕生年は、兄弟関係から履中と允恭の間にあるはずである。従って、反正の誕生年は、履中の誕生年397年と允恭の誕生年は412年の間となる。
履中2年次に、反正の立太子」の履中2年次は429年であるが、肝心の反正の年齢が分らない。履中2年次の解釈に何か隠されているのかも知れないと考え、履中2年次の記載内容をみると次の3件の記事がある。
1月4日、反正立太子の記事
10月、磐余に遷都の記事
11月、磐余の池をつくる記事

履中2年次の月日の暗号を解読
月日の数字の合計は、24、25、35、42、52が考えられる。履中2年次の429年に反正25歳とすると、誕生年は405年、崩御の439年35歳となる。
さて、上記は、月日の暗号の解読を実際に示した。25を選定した理由は、月日の数字の加算方法として多用されている方法による数字である。
理屈を述べるより、検証してみよう。
応神の即位年181年に仁徳が誕生した。そして、仁徳の即位年405年に仁徳が誕生した。
反正の誕生年405年は、履中の誕生年397年と允恭の誕生年は412年の丁度中間である。
結果として、反正の立太子は25歳であったことになる

允恭天皇の年代と年齢のからくり
允恭天皇7年次(442年)に雄略天皇が誕生したと記載されている。7年次には、次の月日の記載がある。
允恭7年次、12月1日雄略誕生
月日の数字は加算すると、13となるが、逆数は31である。允恭31歳のとき雄略が誕生したと考える。合成年次表を作成し、検証する。
允恭42年次は、日本書記の記載では453年であった。このときの允恭の年齢は42歳になる。允恭の場合は、記載上の最終年次と年齢が一致するのである。
しかし、允恭の年代と在位は6年延長されているから、復元された允恭の在位は439年から459年の20年であり、年齢では29歳で即位され、48歳で崩御されたことになる。

安康天皇の年代と年齢のからくり
安康元年に次のような月日が記載されている。
(元年)10月兵を興す
(元年)12月14日安康即位
数字は暗号である。22歳即位[10+12=22]、24歳崩御[10+14=24]、在位3年と解読する。安康元年は460年、崩御は462年である。

雄略天皇の年代と年齢のからくり
雄略の誕生年は、前述したように、允恭7年(442年)の記載で明らかである。
雄略元年は463年で22歳、崩御は479年で48歳であり、在位は17年である。

以上に述べた各天皇の年齢は、各天皇の誕生や立太子年に記載された「月日」を暗号と見做し、解読したものである。
年代や在位期間に関しては、関係する月日も記載されている。ここでは省略したが、個別年次表にそれらの解読結果を述べている。興味がある方は、表題を「各天皇の年次表を解読する」とする記事を見ていただきたい。
「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」(合成年次表)は、それらの集大成である。

なお、合成年次表を見る場合に、復元年代に目がいくかも知れない。
しかし、日本書記の編者が「いかに数字の扱い方が巧みであったか」をよく観察してほしい。いろいろな面白いことに気がつくはずである。

2009年9 月19日 (土)

日本書記は、「暗号」と「からくり」を含む「謎解きの書物」

古代を復元するには、編年体で書かれた日本書記を解読しなければならない。日本書記は独特の手法を用いて年代の構成と年代の延長を行っている。それらの主要な手法について以下に述べる。

「ニニギ降臨の暗号」
筆者は、日本書記は暗号を用いていると述べているが、主要な暗号は「ニニギ降臨の暗号」である。この暗号が関わるのは、神武の年代に限られる。しかし、歴史のスタートの部分であるから、暗号の存在は重いものがある。他にも、「年月日などの暗号」がある。

「年代(数字)のからくり」
日本書記には、全編に渡って多くの「年代(数字)のからくり」が存在する。
「からくり(絡繰り)」とは、計略、企み(たくらみ)、仕掛けなどの意味である。「企み(たくらみ)」と捉える方もおられるかもしれないが、筆者は、年代の大幅延長に伴うアイディアであり、豊かな発想の表れと捉える。
「シンメトリック」が多用されているが、「年代(数字)のからくり」の一つと考える。「37年の倍数のシンメトリック」および「697年のシンメトリック」はその典型であり、下記にその意義などを説明する。
孝元天皇、開化天皇の「前天皇を陵に葬る年次」や允恭天皇の「前天皇の濱の年次」は「からくり」と見做すほどのものではないが年代を狂わせている。年代の延長も実年でみれば数年ずつであるが合計すれば数十年になる。筆者は、これらを年代構成上の一つの手法で、年次表を誕生から記載する手法に対し、即位の数年前の年代から記載する手法である。
この手法には、垂仁天皇の皇太子時代の記載、雄略天皇の安康時代の記載なども含まれる。

「37年の倍数のシンメトリック」の意義
「37年の倍数のシンメトリック」の基準年は、天武元年672年であるが、天武2年に太歳干支が付与されている理由と関係づけて考えればよい。本来なら天武2年を元年にすべきところであるが、672年を基準年として設定するためになされたことである。「37年の37倍の1369年前(前697年)」を神武立太子年に設定し、また、「37年の36倍の1332年(前660年)」を神武即位年としたのは明らかである。
注)筆者の古い記事では672年を天智天皇崩御年と記しているが誤りであり、天武天皇元年が正しい。基準年672年(壬申の年)の重要性をもたせるために天武天皇元年としたのである。
なお、上記の説明は記載年代に関してのことであるが、復元年代の構成上の区切りと関係が見られるようである。この点については、今後の課題である。

「697年のシンメトリック」の意義
復元年代を西暦で読むことは、本来であればあり得ないことである。
記紀の編者は神武暦と共に筆者命名のニニギ暦を用いた。ニニギ暦は「697年のシンメトリック」から導き出される。文武天皇即位年(珂瑠皇子立太子年)神武暦1357年(ニニギ暦697年)と神武立太子年神武暦前37年(ニニギ暦前697年)のシンメトリックの中央年である辛酉の年神武暦661年をニニギ暦元年と設定し、ニニギ暦を復元年代に用いた。ちなみに、ニニギ暦137年は復元年代の神武誕生年であり、ニニギ暦162年は神武即位年である。ところが偶然にもニニギ暦元年と同じ紀元をもつ西暦が14世紀になって考案された。記紀編者がニニギ暦を8世紀に考案したのに対し、6~700年後のことである。
ニニギ暦と西暦は紀元が同じであり、復元年代を西暦に置き直して表示しても、結果としては誤りではないのである。

「個々の数字の吉・凶」
さらに陰陽道などの宗教的な面から来る「個々の数字の吉・凶」が考慮されている。「九九の九の段」が用いられているが、「九九=81」は最も重要な数字であり、神武即位年162年(81の2倍)と応神即位年381年に用いられている。
「九九の九の段」が用いられている天皇には、神武、応神以外では、崇神、仁徳、雄略、天武の各有力天皇がいる。

「正しい在位の記載」
以上に挙げた「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」、その他のアイディアが組み合わさって、日本書紀の年代は創作されている。しかし、それらをより有効に機能させるため、仲哀天皇と安康天皇については、年代こそ異なるが、「編者が想定していた正しい在位」が記載されている。ただし、仲哀天皇に関しては、日本書記の編者は在位9年、古事記の編者は在位7年としている。「年代(数字)のからくり」は前後の天皇に存在するため、復元を考慮して、さらに年代や在位を複雑にすることを避けたと考える。また、「九九の九の段」の「八九=72(372年)」の扱いに関わる問題でもあり、記紀の編者によって成務と仲哀天皇の位置付けに対する見解が割れたと考えられる。

日本書紀の復元年代を明らかにする場合に、「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」などの究明抜きでは、表面的な解読しかできず、正しい解読はできない。
年代構成や年代延長に関わる各種手法を、「表111 日本書記の年代構成上の各種手法」に挙げた。各種手法の分類や名称などはまだ整理できていないが、いろいろな手法が用いられていることを知ってもらいたいためである。なお、主要な手法はすでに記事や年次表上に明らかにしているので読んでいただきたい。

表111 日本書記の年代構成上の各種手法

日本書記の年代解読ができなかった理由
日本書記の編者が考え、取り込んだアイディアは豊富である。しかし、ほとんどのアイディアは、既に年代解読に挑戦された方々によって明らかにされている。それが正しい解読に結びつかないのは理由がある。
一つ目は、暗号の解読を無視したことである。「ニニギ降臨の暗号」は極めて単純な暗号である。多少の年代に関する知識、例えば『神武暦』などを知っていれば解読できる。それを、「国史に暗号など用いるはずがない」とか、「語呂合わせのような解読結果は認められない」、といった解釈をするようだが、「編者の時代と編者が考えたこと」を理解できていない。
二つ目は、アイディアを一律に適用させようとするためである。明らかにされたアイディアは一部に用いられただけで終わる。次には別のアイディアが登場する。編者は「一律」をバカ者、脳なしと考えた。発見された日本書紀記載における多くのルールを、ある批評家が、ルールの数が多すぎる、一つのルールの適用範囲が狭すぎると評したが、このような批評家に日本書記の解釈を任せられないということである。
三つ目に欠けているのは、多くのアイディアが「年代(数字)のからくり」や「数字の吉・凶」などによって纏め上げられているのに気付かないことである。編者が行った年代構成を明らかにしない限り、何も見えてこない。筆者の作成した「合成年次表」を見れば一目瞭然である。大袈裟な表現かもしれないが、絵になり、芸術的である。そのように見えない個所(年代)はまだ答えになっていないのかもしれない、と思いたくなる。

復元年代の構成から見える編者の思いや考え(思想)
日本武尊と仲哀天皇の年代の関係は、編者の思いや、考え(「思想」といってもよさそう)が垣間見える。
神功皇后の数字は異なる要素を巧みに取り込み、きめ細かく設定している。
編者が作り上げた年代構成の内容には編者の思い、考えが込められている。筆者は文才がないからうまく表現できない。日本武尊や神功皇后に関する年次表をじっくりと見ていただければ、編者の思いや考えが分るはずである。

日本書記の編者の良心
日本書記は、以上に述べたとおり、「暗号」、「からくり」、「個々の数字の吉・凶」を含む「謎解きの書物」である。
重要なことは、編者は、解けるだけの情報を記載の中に潜ませていることである。他国の古代の歴史書においても記載年代が延長された例が見られるが、正しい年代が用意された歴史書があるかどうか知らない。この辺りが、日本書記の特異な点であり、編者の良心というものであろうか。日本書記および編者に関するこの事実を見失ってはならないし、日本書記の評価を誤ってはならない。」

2009年8 月22日 (土)

仲哀天皇の「年月日の暗号」を解読する

日本書記における仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果を紹介する。
読者の皆さんには、「年月日の暗号」があることは述べてきたが、積極的に紹介することをしてこなかった。
理由は、「年月日の暗号」が極めて原始的な暗号であり、確証が得られるまで発表を控えてきたためである。
他の手法により信頼できる復元年代が得られてきた。やっと、「年月日の暗号」から見た場合にはどのようになっているかを再確認することができるようになってきた。それにより、編者が年代や在位についてどのように考えていたか、より明確にできると考える。

仲哀天皇の「年月日の暗号」の解読結果
解読結果は「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に示したので見ていただきたい。

表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読

日本書記解読1と解読2を比較しながら見ていただきたい。
解読1と解読2の結果は、仲哀天皇の崩御年を示すが、これは「年代(数字)のからくり」である。神功摂政1年(201年)が、363年を示唆するための見掛け上の年代を示すものであり、これにより応神の誕生年363年を指定している。
解読2の結果は、仲哀天皇の復元年代における正しい仲哀崩御年380年を示している。
上記の結果は、他の手法、例えば仲哀天皇や応神天皇の個別の年次表および各天皇を集めた合成年次表の結果と基本的に一致する。

記紀間の復元在位の食い違いは仲哀天皇と成務天皇のみである
しかし、古事記の仲哀天皇の崩御の復元年代は380年で、日本書紀の復元年代と一致するが、即位年の復元年代は一致しない。仲哀天皇の場合には、在位が9年なのか7年なのか、記載在位においても日本書記と古事記では異なっているが、復元においても同様に異なっている。
日本書記の仲哀即位年は372年、在位は9年であり、古事記は即位年374年、在位7年である。それに伴い成務の在位も2年異なる。
このような日本書記と古事記の間の在位の食い違いは、仲哀天皇と成務天皇に限られるようである。

日本書記の「神功皇后摂政在位零のからくり」
「表110 仲哀天皇の『年月日』の暗号解読」に記したように、日本書紀の復元年代には「年代(数字)のからくり」があり、神功皇后の摂政の在位が零であるすれば、この「見事なからくり」の意味も分るというものである。
解読1で示される結果は、362年の翌年363年に重要な意味がある。記紀の編者は、応神の誕生、363年を明確にした。
解読2は、解読1で仲哀天皇の崩御年が使われてしまったため、正しい崩御年を解読するための暗号を崩御年の「年月日」に仕掛けた。
解読1で得られた応神誕生363年と共に、応神の崩御年齢を在位41年として示唆することにより、応神天皇の復元を可能にしてくれたのである。
ちなみに、応神天皇は、363年誕生、381年19歳で即位、403年41歳で崩御となる。

古事記は日本書紀の解読方法を示唆する
古事記は、日本書記とは異なる暗号をもって仲哀天皇と応神天皇の復元を可能にしている。さらに、古事記は、日本書紀の仲哀天皇の崩御年の解読方法を、応神天皇の事例を用いて示唆してくれる。
古事記の応神天皇の年月日は、九月九日と記載されているが、「九九=八十一(81)」で、応神即位年が381年であることを示す。従って、仲哀天皇の崩御年は前年の380年である。示唆の重要なポイントは「九九の九の段の活用」である。
日本書記の解読に、「九九の九の段」を応用すれば、仲哀崩御年は次のようになる。
「九五=四十五」+「九七=六十三」+九八=七十二」=百八十年(180) から
二百年+百八十年=三百八十年(380年)
[(9×5)+(9×7)+(9×8)=45+63+72=180→200+180=380
なお、計算に用いた二百年とは、日本書記の仲哀天皇崩御の記載年代である。

2009年8 月12日 (水)

神武天皇在位14年の根拠(まとめ)

神武の在位が、14年か19年か、長い間争われている。両方に何らかの根拠があるからだろう。ここが定まらないと、綏靖、安寧などの年代も決められない。
筆者も14年と19年の間を行ったりきたりしてきたが、現在では「神武在位14年」の考えに落ち着いた。
神武の即位年162年や、崇神崩御年318年は変わらないのだから、どうでも良いのかもしれない。筆者の場合、最近は年代の復元よりも記紀の年代の構成についての方に関心が移ってきていて、結構楽しみながら解読を進めているのである。

本題の「神武在位14年の根拠」についてであるが、次の点に問題があり、在位19年を否定できないでいた。
日本書紀の各天皇の解読結果からは、
・天皇の崩御の最終年次が崩御年である。
・在位もこの崩御年に絡む。(主要な天皇において、在位は、最終年次年数の1/4である)
神武崩御の最終年次は76年であり、上記の考えに従い、仮に76年が四倍暦とすると19年が在位になる。
神武こそ主要な天皇の頂点にいるのだから、上記の考えに対し、納得できる根拠がなければ在位14年は成立し難いのである。
筆者は、この答を得ることが出来たので説明する。
「日本書紀には何人の神武がいるか」において述べたように、三人あるいは四人の神武が読み取れる。いろいろな要素を神武に託したのであろう。それに比べ、他の天皇は二人の人物しか読み取れない。一人は即位までの年齢分を前天皇の記載に組み入れた、延長された人物であり、宝算の崩御年齢を有する。
特に、神武の宝算は、神武即位前の51歳と即位後の76歳を加算し、127年としたものであり、100歳を超える宝算は天皇の偉大さを示すには手頃な数字だったのだろう。それ以上の意味はない。
二人目の神武は、即位元年、1年次を誕生とし、最終年次年数が崩御の年齢となる人物である。これについて検討をしていく。

1)合成年次表の作成
筆者は、日本書記の復元年代を求めるため、さまざまな角度から解読をしてきた。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」(合成年次表)を診ていただけば分かるはずである。
「合成年次表」は、それらをすべて取り込み、集大成したものである。ポイントを述べれば次のようになる。
①神武即位年は、即ち神武元年、BC660年は神武の誕生年である。
神武即位52歳を2倍暦と見做し、実26歳で即位したとする。従って、仮の復元年代(第1次復元年代)として、神武26年次、BC635年を神武即位年とする。
②復元年代は、神武即位年を西暦162年としている。
根拠は、神武紀に記載されたニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の解読結果による。
③チェック事項の拾い上げ
年代(年次)および年齢に関係する記載内容、例えば、誕生、即位、崩御の年代および年齢を拾い上げた。
年齢は2倍暦で記載されていることを前提として、実年齢を加えた。
また、年代(年次)と年齢に基づき、天皇間の年齢関係を重視し、年次表の正しさを確認するためのチェック事項とした。(例、神武42-14綏靖立太子)

2)神武崩御年を探る
神武紀および綏靖紀には、綏靖立太子の年代と年齢に関する記事がある。上記の例に記した[神武42-14綏靖立太子]である。例に示すように、年代、年次、歳などは記載していない。例の場合、[神武42-14綏靖立太子]の正解は、年次表によれば、記載神武42年次(神武の記載年齢42歳、実年齢34歳、復元年代170年)のとき、綏靖が記載年齢14歳(実年齢7歳)であることを示す。
年次表をたどれば、綏靖が実14歳に達したとき即位したことになる。「立太子」は「即位」に読み替える必要がある。立太子の記載年齢14歳は実の数字であることが分る。
神武崩御年に関しては、綏靖の即位年代が神武56年次、記載年齢56歳、実年齢41歳、西暦177年であり、在位31年(実16年)であることから、それより前であることが分る。これによって、神武の実在位19年はあり得ないことになる。
記載内容から、神武崩御の後に記載3年(実1.5年)空位があること、神武宝算127年の百減は27であることから、神武崩御は神武52年が在位27年に相当することが分かる。
年次表から、52年次と53年次が同年であり、神武実年齢39歳、実在位14年と判断される。

●綏靖立太子の記載年齢14歳が正しく、立太子を即位と読み替えてよい。
 合成年次表によると、即位157年の前年156年に14歳となっている。
 綏靖前紀の記載でも、即位の前年に兄神八井耳命が神渟名川耳尊(綏靖)に天皇位を譲ると書かれていて、解読結果と一致する。

3)シンメトリックによる在位の確認
①神武~懿徳の34年のシンメトリック
「神武の時代」とは、狭い意味では神武と綏靖である。日本書紀の年代構成上のことであるが、神武の崩御年(神武79年次)と綏靖の崩御年とは同年である。綏靖は神武の分身のようである。
「神武の時代」をもう少し広い意味で捉えると、懿徳までである。懿徳崩御34歳(34年)は懿徳の誕生年を基準としたシンメトリックからなる。
シンメトリックの一方の先端は神武即位元年、BC635年であり、基準年はBC602年とBC601年の間にある。シンメトリックの他端はBC568年である。基準年に対し34年[635-602+1=34と601-568+1=34]のシンメトリックである。
また、復元前の数字であり、2倍暦である。従って、34年のシンメトリックは、合計68年であり、実年に復元すると34年となる。復元では神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示している。

●別角度からの補足
神武即位年のBC635年は、復元年代に置き換えれば西暦162年である。
懿徳崩御年のBC568年は、懿徳34年次のBC477年と同じである。懿徳崩御の復元年代は神武から懿徳までの合計在位34年から求めた西暦195年となる。[162+34-1=195]
なお、懿徳崩御の翌年の空位年はBC476年で、神武暦に直すと185年になり、「37の5倍」となる。年代の区切りであることを示している。
なお、上記のシンメトリックからは、神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示すが、直接的に神武在位14であることを示してはくれない。

②神武の14年のシンメトリック
神武は26年次26歳で即位し、神武52年次39歳で崩御された。14年の在位である。[52/2-26/2+1=14、または39-26+1=14]
他方、53年次39歳から79年次52歳までの神武崩御後の仮想の在位計算は14年となる。[79/2-53/2+1=14、または52-39+1=14]
これは、神武復元在位と仮想の延長在位のシンメトリックである。神武の復元在位は、14年となる。

4)神武太歳干支付与年を基準とした4倍(4倍暦)の計算
一般に太歳干支は、各天皇の即位年に付与されている。しかし神武の場合には、太歳干支は即位年には付与されていない。東征出発の年に付与されている。他に見られない特異な太歳干支の付与の仕方である。この東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。
くどいようだが、21年は神武の在位ではなく、神武が東征に出発した年から崩御の年までの期間である。
ところが、東征の期間7年間は実年(記載の1年は実際の1年)で書かれているから、神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。

●上記の説明は、分り易く神武の在位76年として話を進めた。
 実際には、合成年次表の解読から77年と捉えた方が正しい。77年には空位3年のうち1年目が該当する。神武76年次と空位1年目は2二倍暦で同年である。本来なら神武77年に当たるが、76年(春年)に崩御したと記載したため神武77年次(秋年)は表向き存在しなくなり、空位年とされた。本当の空位年は2年目および3年目の2年間が、2倍暦で書かれていて、実1年の空位年になる。

●上記の文面を正しく表現し直すと、次のようになる。
 「東征出発の年から崩御年までの期間は84年(BC667年からBC584年)であり、84年の1/4は21年である。神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。
 従って、小数点以下の問題は解消する。

●神武天皇の年次表に関しては「1年が4倍の4年になっている」部分と「1年が1年のまま」の部分が合成されている。言い換えれば、神武即位後の76年間は4倍ではなく、約5.53倍になっている。[76÷13.75=5.53] 77年間とすれば、5.5倍である。[76÷13.75=5.53] 

なお、この倍率には特別な意味はない。

2009年8 月 6日 (木)

日本書記の「神武の時代」を推理する

日本書記の年代を復元しようとすると、推理をしなければならいことが多々ある。
そのうちに、日本書紀自体が推理小説ではないかと思うこともある。それも下手な推理小説家では真似すら出来そうもない素晴らしい内容を持っている。そのような事例を紹介しようと思う。といっても、これから小説を書くわけではない。日本書紀の編者が創作した推理小説のポイントを述べるだけである。
参照「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

追記(2009/10/29)
参照として添付した「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、新しい情報を加え、さらに整理されてきた。基本的な内容は全く変わっていないが、以下の説明では分りにくくなっている。
また、記事を読むと、筆者の年代復元における苦労話になってしまっている。本来述べなければならないことがおろそかになっている。次の投稿記事を読んでいただきたい。
綏靖、安寧、懿徳の各天皇の崩御年は同じ年」(カテゴリ「記紀のからくり」)

神武天皇在位14年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)
神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)

1)神武天皇が崩御して、皇子の綏靖が天皇になるのだが、綏靖即位まで3年の空位期間がある。よくあることだが、皇子の間で跡目争いがあったのだ。
復元年代として神武崩御年が決まると、次は綏靖が即位するのだが、「綏靖は神武42年次に立太子となり、このとき(計算上)14歳であった。」を基に、綏靖の誕生年が分る。綏靖誕生は、神武29年次(神武実27歳)である。
神武が崩御した神武76年次(神武実51歳)には、綏靖は48歳(実24歳)になっている。3年の空位期間があって即位するから、綏靖は52歳で即位したことになる。
あれ! 綏靖も神武と同じ52歳(実26歳)で即位したのか、と思わせる。何となく解読が正しそうな感じがしてくる。

2)実際には、神武76年次(神武実51歳)や綏靖48年次(綏靖実24歳)は年代延長による架空の年次である。神武が実際に崩御した神武52年次(神武実39歳)まで年代を遡って見ると、綏靖24年次に相当し、実12歳である。空位3年があるとすると、綏靖は177年に実14歳で即位したことになる。どうやら正解にたどり着いたようだ。

3)ところが、筆者は面倒なことは嫌だから、合成年次表の作成において、綏靖の誕生年を直接、空位3年分ずらして表を作成した。
その結果、綏靖は、神武76年次には綏靖45年次(23歳)になり、神武79年次に綏靖48年次(24歳)になる。3年分ずらしたのだから当然のことである。175年の神武崩御のときは綏靖実11歳、177年には綏靖実13歳で即位したことになる。
一体、どっちが正しいのだろうか。13歳でも14歳でもどっちでもいいじゃないか、と思いたくなる。
どちらの場合も、即位の前に空位3年を入れたつもりでいたが、違うようだ。同じ3年ずらしたつもりが、年次表の年代は2倍暦を基本にしているから、1.5年分しかずらしていないのであり、0.5年の食い違いが1歳の違いとして表れるのだ。

4)前述の1)において、綏靖誕生は、神武29年次(実27歳)であると述べた。上記の2)も、綏靖誕生が、神武29年次(実27歳)になっている。上記の3)は、綏靖誕生が、神武32年次(実29歳)になっている。文章で書くと長ったらしくなるから、それぞれの年次のときの年令を( )内に記した。これでお分かりいただけただろうか。
綏靖誕生は、神武29年次ではなく、神武実年齢29歳のときであった。」要するに[年次]から[年齢]への変換が必要だったのである。
合成年次表のチェック次項として見た場合、[神武29-綏靖誕生]であって、「29年次とか29歳というように、単位をつけてはいけないのである。」これが、年代解読のポイントである。

解読手段としての合成年次表の威力
在位や年齢および年代の解読手段として合成年次表は、威力を見せ付けてくれ、綏靖の解読に大きな役割を果たした。
前述した投稿記事は、年代の復元に関する貴重な情報で与えてくれるので、お読みいただきたい。
また、合成年次表は、以上の他にも面白いことを教えてくれる。

5)安寧の即位は、安寧29年次(実15歳)である。綏靖の崩御181年と同年になるため、元年は182年である。
さて、安寧29年次から、安寧の実29歳は何があるのだろうか。日本書紀には安寧の宝算が57歳と記載されている。年次表上で計算される宝算は67年で10年異なり、57歳という記載は間違いである。しかし、57歳が意味をもっていたとしたらどうだろうか。
57歳の記載は、綏靖、安寧、懿徳の3天皇の崩御年を同じにするために必要だった」のである。
神武の時代が終わる195年以降にどのような数字があったとしても全く意味のない数字である。「編者は、それを承知の上で安寧の宝算をわざと間違えた振りして記載した。」仮に、この宝算の改変を編者以外の人物が行ったとしたら、編者が考えた「からくり」を1年と狂いなく知っていたことになる。

安易に、「編者が間違った」としてはならない
「編者が間違いをした」と指摘する学者がよくおられるが、上記のような結果を想定すれば、間違いを犯したのは編者ではない。訳も分らず改変するのは、許されない。
また、綏靖の場合の195年の年次は48年であった。記載された宝算は84歳である。逆数を用いただけなのだ!しかし、安寧の場合と同様に、195年に33歳で崩御されることを示唆する為になされたことである。
こういうことも知っておかないと、日本書記の編者を理解していないことになり、復元はできないのである。

2009年7 月13日 (月)

神功皇后の年代に関わる在位はゼロである

神功皇后の扱いについて、日本書紀は一巻を神功に充てている。特異なのは神功摂政元年と39年と崩御の69年に太歳干支が付けられていることである。また、神功については100歳(一百歳)で亡くなったこと以外に神功自身の年代に関する記載はない。
古事記は仲哀の一部として記載している。古事記が神功を無視しているわけではない。それどころか仲哀の記事の大半は神功と応神の誕生と太子に関する記事である。
現在、筆者は神功が存在しないという観点で古事記および日本書紀の復元年代を引き出した。その根拠は、「百増、百減の法則」に従えば、神功の一百歳から百を減じると、零または一しか残らないからである。零だとすれば神功の年代は無かった。一なら1年だけ摂政の位に就いたことになる。応神の即位の年代を181年と見ており、そのときの応神の年齢は19歳であるから摂政は不要であるし、応神紀には摂政の記事は存在しないため、1年の摂政もあり得ないとした。

太歳干支の異常さ
日本書紀における太歳の使い方も異常である。太歳は一般に即位年にのみ付されるが、神功においては摂政元年と中間の39年次と69年次の崩御年の3か所に太歳が付されている。太歳付与の解釈は次のとおりである。
太歳が付与された元年から69年次の崩御年まで、すなわち神功の69年のすべての年次が無いものであることを示している。
もう一つの太歳付与年である39年次は、記載年代が239年であり、魏志倭人伝の記事が記載されている。「魏志倭人伝を引用した記事の年代は、そのまま直読しなさい]という意味で、239年が最初の記事になるための注意を促す印であると考える。
注)その他の記事の年代は、記載年代に162年または120年を加算する。「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」に詳細を述べているので見ていただきたい。

神功皇后の存在についての疑問

当初、筆者は神功の存在について疑うこともなく、362年の新羅征討の根拠を示された学者の記事を評価した。しかし、神功の存在に疑問を持つと、摂政在位69年自体と362年の出来事も無理な解釈であると疑問を持つようになった。それらの疑問について述べてみる。

神功皇后はどの天皇の摂政か
一つは、神功には摂政という役を与えられている。決して天皇になったのではないし、卑弥呼のように女王になったのでもない。「摂政は天皇と同じ意味である]というような記事にお目にかかったことがあるが、それなら他の多くの女性天皇と同様に天皇とすればよい。神功紀として扱っているのは日本書紀で、古事記は仲哀紀の一部にすぎない。天皇である筈がない。
摂政というからには天皇が存在しなければならない。日本書紀の記事によれば、摂政になったとされる神功摂政元年の363年は仲哀が崩御した翌年であり、応神が生まれた年であって、天皇は存在しない。応神は神功3年の365年に太子となる。応神が胎内天皇と呼ばれたとしても、3歳になって立太子を行っていて、まだ天皇位には就いていない。胎内天皇なんて言葉に惑わされてはいけない。
従って、日本書記の摂政の記載は、天皇不在の架空の話に過ぎないのである。

天皇不在18年間の摂政はあり得ない
二つ目は、神功元年の363年に仲哀天皇の皇子である香坂王、忍熊王と争い、勝利して、摂政となったとされる。それならば、誕生したばかりの応神の摂政となるはずであるが、上記に記したように応神はまだ天皇にはなっていない。年代がずれていると考える必要がある。
復元年代では、363年は成務天皇の時代が始まったばかりの年代である。(成務在位359年~371年)
380年に仲哀が崩御した(殺害された)とき、応神も成長し18歳になっていた。仲哀崩御の翌年に応神は仲哀の皇子を殺害し、天皇になるのである。
前に述べたように、応神3歳までどころか18歳になるまで天皇不在のまま摂政がいるという矛盾した歴史が書かれていることになる。要するに神功の年代に関わる在位はゼロである。

新羅征討あるいは三韓征伐は、30年遡っている
三つ目は、神功皇后による362年の新羅征討あるいは三韓征伐を誇張するために記載された。広開土王碑に記録された新羅、高句麗との戦いは392年の出来事であり、応神が行った朝鮮への出兵である。392年の出来事を30年遡って記載したと考えることができる。
392年以降の数回の半島への出兵の中において、神功皇后のモデルとなる伝承があったのかもしれない。この点まで否定するつもりはない。

応神天皇の復元年代の根拠

もう一つの結論は、応神の在位41年に関してであるが、363年の誕生から41年目の403年が応神の崩御の年である。応神の即位や崩御の年齢は何ら記載されていない。上記の数字が正しいかどうかでではなく、編者が年代構成上からそのように設定したのである。
神功の69年の在位は、162年の年代差を持つ年代と120年の年代差を持つ年代に区分される。前者は201年から242年の42年間であり、後者は243年から269年の27年間である。
42年間は、応神在位41年間と崩御後の空位1年間を加えた年数である。従って神功の年代と162年差を持って重なり合い、応神崩御は403年と計算される。[241+162=403]
応神即位年の方は、41年の在位が二倍暦とすると、実在位は20.5年であり、383年となる。ただし復元年代では381年としている。(この年代の食い違いに関しては別途説明したい。)
120年の年代差を持つ27年分は、「神功皇后と応神の外交史」に記載したので見ていただきたい。

神功皇后は応神天皇の誕生年を伝える道具
神功皇后の摂政としての在位を9年や17年などとする見方がある。古事記の崩年干支と神功皇后の存在を信じれば、確かにそのように解読できる。神功が存在しないとするなら、これらの年数を他の天皇に割り振ることになる。年代としてはそれほど大きな変化ではない。垂仁と景行の年代は詰まった感じがするし、成務は国造関係の業績からすると7年では短すぎる。実際には、古事記崩年干支の年代から計算される在位に比較し、垂仁と景行で10年分、成務で8年分増加し、各天皇の在位は19年、21年、15年(日本書紀13年)となる。仲哀天皇の在位は7年(日本書紀9年)と応神天皇の在位年23年である。
要するに、神功皇后は、「応神天皇の誕生年を伝えるための出しに使われた」のである。

江戸時代末期に、国論は「攘夷」と「開国」の考え方に分かれ争われた。仲哀天皇(三輪王朝)と神功皇后(河内王朝)との関係は、「国内版図拡大・平定」と「半島への進出」の衝突である。これについては、改めて述べることとする。

2009年7 月 8日 (水)

日本武尊(倭建命)と仲哀天皇の年令を探る

日本武尊はどういう人物であろうか
以下に、日本武尊と皇子である仲哀天皇に関する復元年代について述べるが、先ず、「表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表」を見ていただきたい。
この「表107」は、「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」に、日本武尊の年代を付加したものである。

表107 日本武尊と仲哀天皇の年次表

日本武尊の復元年代では、329年、景行天皇15歳の時に生まれ、日本童男(小碓命)と呼ばれる。
景行27年次(復元7年次)344年、景行天皇の命を受けて、16歳で熊襲征伐に出る。熊曾武を討った時より日本武を名乗る。[「景行27年-16歳日本武」は重要なチェック事項である。年次表が正しいことを証明する事項であるから覚えておいてほしい。]
日本武尊は、景行28年次(8年次)345年、熊襲を平定して西国より帰国する。景行40年次(10年次)347年、19歳のとき再び天皇の命を受けて、東国平定(古事記では、東征)に向かう。景行41年次(11年次)348年に、東国から帰る途中、三重の能褒野(のぼの)において亡くなる。記載では30歳で亡くなったとする。
復元年代は、景行27年次と景行40年次の間に10年間延長が加えられており、これを減じると41年次に20歳で亡くなったことになる。日本武尊が30歳となる年代は、単純計算では51年次に相当するが、景行42年次からは9年間延長されているため、これを減じると、日本武尊は景行60年次に30歳となる。

日本武尊は、景行天皇の崩御の年に亡くなった
仮に、記載のとおり30歳で亡くなったとすると、復元年代は358年となり、景行天皇崩御の年と同年である。日本武尊が天皇であったという見方もあるようだが、このことから生じたのかも知れない。しかし、前述したように、日本武尊の誕生年は329年で、景行15歳の時に生まれたのである。太子であったと記載されているが、天皇であった根拠はないし、分身というのも当たらないようだ。
編者は、日本武尊がいつ生まれ、いつ亡くなったか分らなかったので、それならば、ということで、景行15歳の時に日本武尊が誕生したとし、景行崩御44歳のときに合わせて、日本武尊が30歳で亡くなったと設定したのである。
なお、「景行天皇と日本武尊の崩御を同年に設定した」ことには、編者の素晴らしい企み(数字のからくり)が秘められている。(後述する。)

仲哀天皇は、日本武尊が亡くなった翌年に誕生する
成務天皇の復元年代は、成務48年次、359年に即位し、成務60年次、371年に崩御された。仲哀天皇即位前紀には成務48年次に31歳で太子になったと記載する。
[「成務48-31歳仲哀立太子」も重要なチェック事項である。]
また、成務崩御のとき、仲哀は43歳であった。仲哀天皇の即位は44歳で、崩御は52歳、在位9年である。
仲哀天皇の復元年代では、仲哀9年380年に崩御した。「31歳の立太子」を「仲哀の誕生」に読み替えると、仲哀の誕生は359年となり、380年、22歳で崩御したことになる。
仲哀天皇の誕生した359年は、成務天皇即位年であって、景行天皇と日本武尊の崩御の翌年に相当する。日本武尊は1年違いで、すでに亡くなっていることになる。

日本武尊は亡くなり、仲哀天皇として復活する
ここで編者が考えた企みを見よう。
日本武尊は358年に30歳で亡くなったが、仲哀天皇が359年に31歳で引き継ぐ。記載には現れないが、仲哀天皇の誕生と日本武尊の誕生年は同年なのである。
さらに、記載上では仲哀は31歳で立太子となるが、復元においては、立太子は誕生を意味する。すなわち、「日本武尊の年代(および年齢)を仲哀天皇が引き継ぎ、併せて仲哀天皇の誕生として日本武尊は復活する。」日本武尊と仲哀とは同体の如く緊密に繋がっているのである。日本武尊の皇子が仲哀天皇であることは明瞭である。

似て非なること
日本武尊は死んで、血の繋がった皇子の仲哀が誕生する。日本武尊の復活である。
仲哀天皇が死んで、応神が誕生する。仲哀天皇は応神天皇に殺される。さらに仲哀の幼い皇子らも殺される。
日本書記は同じパターンが繰り返されることがあるが、「似て非なること」の代表例である。

諸説に対する見解
日本武尊や仲哀天皇に関しては、いろいろな説が見られる。
日本武尊は複数の人物を集合させた、という見解もある。数字から複数の人物を引き出すことはできない。決定的のおかしいのは、複数の人物の集合体から仲哀天皇が生まれたとでも言うのであろうか。それでも、複数の人物の業績を、日本武尊に集合させた、という意味なら納得できる。現に、東征の際には、吉備の武彦と大友武日連を従えている。

また、「日本書紀では、父日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然な証拠からも、仲哀天皇架空説は根強く言われている。」そうである。36年という数字から判断すると、記載年代の比較らしい。日本書記が大幅に年代延長していること、正しい判断には復元した年代で行うことを知らないとでもいうのであろうか。もっとも、「記載年代においても年代の整合性が採られているはず。」といいたい気持ちは、分らないわけではない。
しかし、「記載年代においても年代の整合性が採られていなければならない。」となり、突き詰めれば、「年代延長という嘘に合わせて、嘘をつき通せ」となってしまう。そこまで考えることでもなかろう。

2009年6 月19日 (金)

「百増天皇」と年齢

記紀の年令は延長されている。実際の年令(筆者は実年と呼んでいる)は倍暦に基づき、1/2とか、1/4であるとかさまざまである。実年を求める中で、記載年齢から100歳を引いた「百減」年令がよく見られるが、正しいのであろうか。
「百減」とは、解読側の見方である。記紀の編者側においては、「百増」である。編者が「百増」を行うには何らかの理由があったはずである。100歳を超えた場合に全て「百減」を適用するわけには行かないが、古事記記載の崇神168歳、垂仁153歳は、景行137歳は「百増天皇」に該当する。

「百減」や「百増」のような考えは不真面目なことと思われる方がおられれば、頭を柔らかくした方が良い。

編者の考える「からくり」の一つであり、多用されているところをみると、編者のルールのようなものである。
先ず、日本書紀の神武天皇の127歳がそれに該当する。但し、日本書紀記載127歳から「百減」した27は天皇年次を指している。しかも復元時の神武27年次指している。従って、[百減]をしても直ちに年齢にはならないが、[百減]は正しい年令にたどり着く入り口なのである。

古事記の137歳は、当初、編者は「37」を重要な数字と考えていたため、37に百を加え137として,37を見えるようにしたと考えた。また、上記と同様に神武37年次と見ることもできる。その結果、神武の崩御年齢は、紀39歳、記44歳、と日本書紀と古事記で異なる解釈が生まれる原因となった。古事記の137歳は、年齢ではなく、年代であることが分かった。従って、記44歳は疑問である。

また、古事記では、日本書紀の崇神没年から古事記の崇神没年までの期間348年が空白になっている。これに関する詳細は「古事記の空白期間348年のからくりの解明」を参照してください。上記の記事では、「百減」とは異なる解釈を述べているが、次に述べるような解釈も可能である。
この空白期間を埋めるために、上記の崇神、垂仁、景行の3人の天皇の年令に100歳(年)ずつを加算し、300年を確保する必要があったのだ。残る48年は成務からということになるが、100歳以下であり、「百減」の話ではなくなるのでここでは述べない。
偉いとか重要な天皇だから年令を百歳以上に引き上げたというのは勝手な決め付けであり、そんな理由よりも空白期間を埋めるためである。

「百減」した結果の、崇神68歳、垂仁53歳、景行37歳は、その数字がそのまま正しい崩御年令かどうか別にして、正しい年令を考えるための数字なのである。
ちなみに、崇神は二倍暦が関係し、34歳が正しい崩御年令と考えられる。
垂仁の崩御は、住吉大社神代記の垂仁崩年干支「辛未」に述べたとおり、39歳である。百減では一致しない。
また、景行の崩御年齢は、37歳であり、「百減」そのものである。