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2009年10 月11日 (日)

仁徳天皇以降の各天皇の年齢のからくり

仁徳以降の各天皇の年代と年齢の関係には様々なからくりが隠されている。
「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」を見てください。

表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細

仁徳天皇と履中天皇の間には年齢を介した面白いからくりがある。
仁徳の年次表には、仁徳31年次に履中の立太子がお行われ、このとき履中は15歳であったと記載されている。仁徳と履中の年齢のからくりの解読は、ここから解読することになる。
先ず、仁徳31年次を合成年次表で探さなければならない。仁徳の崩御は87年次になっていることを参考に実の崩御年齢を探した結果、「仮説1」として、実47歳で崩御したこととする。[仁徳31:15履中]は、[17:1]および[47:31]が得られるから、仁徳実17歳のときに履中が誕生し、仁徳が実47歳で崩御されたときに履中は実31歳であると計算される。ちなみに、履中在位を5年とすると、履中は実36歳で崩御されたことになる。

合成年次表に上記条件を満たすように、年齢を入れてみる。
仁徳の記載年齢と実年齢を見ると、記載年齢71歳のとき、実年齢は31歳である。面白いことに、仁徳71歳の逆数は17歳である(17歳は記載年齢の逆数で、実31歳)が、実17歳のとき、履中は15歳で立太子となる。立太子を誕生と読み替えれば、仁徳実17歳のとき、履中は誕生する。

(何を言っているか分らない方は、表をじっくり眺めていれば分るはずである。)

「仮説1」は、「17を軸とし、7、17、71の数字を用いたからくり」である。さらに、復元年代と結びつく。例えば、427年には47歳で崩御されるが、年代と年齢は20年差となっている。

仁徳と応神の年齢の関係(年代との関係)はどこにも記載されていない。427年に仁徳が47歳で崩御されたという設定を「仮説2」とすると、不思議なことに、仁徳の誕生は応神即位年と同じ381年になり、405年に25歳で即位したことになる。87年次を崩御の年齢と見做すと40年間を延長させていたことになる。これも数字のからくりと考えてよいだろう。また、前述したとおり、仁徳の復元年代と年齢の関係は、下二桁が切りのよい20年差となる。
日本書記の記載内容から、仁徳崩御が427年であることが確認されない限り、上記の「仮説1と2」は仮説のままである。しかし、創作であることを考えると、「数字のからくり」から見て、解読は正解ではないかと考える。

履中の誕生年は397年になる。即位は328年、実32歳であり、432年に実36歳で崩御されたことになる。崩御実36歳を2倍暦で表現すると、72歳と読める。
日本書記の記載では崩年70歳という数字がある。2倍暦とすれば実35歳で解読とは1歳異なる。また、日本書記記載の立太子年齢15歳の時点で2倍暦とすると立太子は30歳であり、これを延長すると72歳となり、解読結果と一致する。ただし、記載の70歳とは一致しなくなる。日本書紀における履中70歳の記載は、本文の記載ではないので、参考程度の数字と見た方がよさそうである。

履中天皇と反正天皇の年齢のからくり(月日の暗号を解読)

履中2年次に、反正の立太子が記載されている。ただし、立太子年齢は記載がない。反正は履中と同母であり、履中の弟である。履中2年とは履中2歳のとき反正が誕生したとすることができる。年子である。年代は上記に示した履中誕生年397年であるから、反正は398年に誕生したことになる。
ただし、上記の結果は次の点で矛盾する。
履中は第一子であるが、反正は第三子であるから、年子であるのは間違いである。しかし、2年で3人生まれる可能性がないわけではないが、そのような解釈は無理と判断する。
日本書記は反正の崩年を59歳と記載し、古事記は60歳とする。復元とは異なる。

別の観点から見ると、反正の誕生年は、兄弟関係から履中と允恭の間にあるはずである。従って、反正の誕生年は、履中の誕生年397年と允恭の誕生年は412年の間となる。
履中2年次に、反正の立太子」の履中2年次は429年であるが、肝心の反正の年齢が分らない。履中2年次の解釈に何か隠されているのかも知れないと考え、履中2年次の記載内容をみると次の3件の記事がある。
1月4日、反正立太子の記事
10月、磐余に遷都の記事
11月、磐余の池をつくる記事

履中2年次の月日の暗号を解読
月日の数字の合計は、24、25、35、42、52が考えられる。履中2年次の429年に反正25歳とすると、誕生年は405年、崩御の439年35歳となる。
さて、上記は、月日の暗号の解読を実際に示した。25を選定した理由は、月日の数字の加算方法として多用されている方法による数字である。
理屈を述べるより、検証してみよう。
応神の即位年181年に仁徳が誕生した。そして、仁徳の即位年405年に仁徳が誕生した。
反正の誕生年405年は、履中の誕生年397年と允恭の誕生年は412年の丁度中間である。
結果として、反正の立太子は25歳であったことになる

允恭天皇の年代と年齢のからくり
允恭天皇7年次(442年)に雄略天皇が誕生したと記載されている。7年次には、次の月日の記載がある。
允恭7年次、12月1日雄略誕生
月日の数字は加算すると、13となるが、逆数は31である。允恭31歳のとき雄略が誕生したと考える。合成年次表を作成し、検証する。
允恭42年次は、日本書記の記載では453年であった。このときの允恭の年齢は42歳になる。允恭の場合は、記載上の最終年次と年齢が一致するのである。
しかし、允恭の年代と在位は6年延長されているから、復元された允恭の在位は439年から459年の20年であり、年齢では29歳で即位され、48歳で崩御されたことになる。

安康天皇の年代と年齢のからくり
安康元年に次のような月日が記載されている。
(元年)10月兵を興す
(元年)12月14日安康即位
数字は暗号である。22歳即位[10+12=22]、24歳崩御[10+14=24]、在位3年と解読する。安康元年は460年、崩御は462年である。

雄略天皇の年代と年齢のからくり
雄略の誕生年は、前述したように、允恭7年(442年)の記載で明らかである。
雄略元年は463年で22歳、崩御は479年で48歳であり、在位は17年である。

以上に述べた各天皇の年齢は、各天皇の誕生や立太子年に記載された「月日」を暗号と見做し、解読したものである。
年代や在位期間に関しては、関係する月日も記載されている。ここでは省略したが、個別年次表にそれらの解読結果を述べている。興味がある方は、表題を「各天皇の年次表を解読する」とする記事を見ていただきたい。
「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細」(合成年次表)は、それらの集大成である。

なお、合成年次表を見る場合に、復元年代に目がいくかも知れない。
しかし、日本書記の編者が「いかに数字の扱い方が巧みであったか」をよく観察してほしい。いろいろな面白いことに気がつくはずである。

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