Google
 

« 応神天皇の年次表の解読する(外交史を含む) | メイン | 仁徳天皇以降の各天皇の年齢のからくり »

2009年10 月 9日 (金)

記紀編者が考えた年代復元方法(面白い解読の仕方)

記紀(古事記と日本書記)の編者には遊び心がある。
数字の扱いに長けた編者は、年代に関しても遊び心をもって対応した。いたずらもあれば語呂合わせもある。道教や仏教や陰陽道に関係する数字も活用した。
時代が違うから、編者が真剣に考え出したことでも、現在からみれば面白く思われることもあるだろう。筆者は、それらをひっくるめて「編者の遊び心」と呼ぶ。

編者が創作した記紀の記載内容から復元年代を得るには、いろいろな計算が用いられる。各天皇の即位年や崩御年、在位を明らかにするとき、余り突飛な解読方法は、説得力を持つかどうか分らない。ほとんどが数種類の解読方法で解読できるのだが、発表は常識的と思われる解読方法の方を示してしまう。
ここでは、筆者が面白いと思った解読方法を紹介する。解読結果は、注意書きのない場合にはすべて復元年代、在位、年齢として採用したものである。

「表93-1 記紀による崇神以降の暗号解読結果(面白い解読の仕方)」を見ていただきたい。
なお、「こんな事例もある」という説明の意味を持たせたため、「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果」と重複した解読方法も含まれている。

表93-1 記紀による崇神以降の暗号解読結果(面白い解読の仕方)

1.古事記は日本書紀の解読書あるいは日本書記の講義に用いられた参考書である
a 応神の誕生363年、即位381年、崩御403年、崩年41歳、在位23年は、日本書紀では応神誕生の物語の記載年代201年から誕生363年を示し、記載在位41年が崩御403年、41歳を示す。古事記は9月9日で「九九=81」により即位381年を示し、在位32年は逆数23年を示唆する。
このような解読方法というより、記紀の編者がこのような復元方法を創作したことを理解できなければならない。記紀、特に国史である日本書紀の編者がいたずらや語呂合わせなどするはずがないといった発想からは、思いつかないであろう。それとも解読が間違えているとでもいうのだろうか。
また、記紀の関係がここまで強い関係にあるのは何を意味するのであろうか。筆者は「古事記は日本書紀の解読書(あるいは参考書)である」とするがなぜそうなのか明らかにできたわけではなく、課題である。

同様の例をもう一つ紹介する。
b 安康天皇の在位3年は日本書記に記載されているが、記事から得られる年代や在位に関する情報は少なく、3年が正しいかどうか判断が難しい。
古事記には、安康御年56歳としか記載されていないから、在位など分る筈もない。ところが、安康の在位は、允恭と雄略の各天皇の数字に隠されているのである。
安康在位3年は、雄略と允恭との月日の差を求めてもよいし、安康と雄略の御年を加算し、允恭御年を減算すれば3年が得られる。具体的な計算は表の解読方法を見てもらいたい。
偶然そうなる(3年になる)と考えるのは良くない。「数字の暗号は神武誕生から始まり、数字を加算するのであるから、後の天皇ほど大きな数字になっているのである。」雄略の数字から允恭の数字を引くことは、この数字の暗号の原則に沿っていることに気づかなければならない。

記紀は暗号で書かれた書物であり、古事記は日本書記の解読書(あるいは参考書)

また、「編者は、安康の在位が3年と分っているなら、なぜ記載しなかったのか?」という愚問をされる方は、記紀の編者を理解していないし、記紀の何たるかを誤解している。「記紀(古事記と日本書紀)は暗号で書かれた書物であり、古事記は日本書記の解読書(あるいは参考書)なのである。」ということが分っていない。古事記の編者は、日本書紀に記載されている内容を熟知している。仮に安康の在位が3年でないと考えていたとしたら、その年数を素直に(あるいは暗号を用いたかもしれないが)記載していたであろう。仲哀の在位に関して、日本書記9年と古事記7年の食い違いがその例である。

2.春秋2倍暦だとする考えは、編者の能力を過小評価
崇神の年代、成務崩御後の空位年、仲哀即位年は神武暦の年代を、4倍(1/4)を用いて復元年代を計算する。
記紀の編者は神武暦を自ら作り上げ、活用した。上記1では、古事記では「九九=81」を381年としてもちいている。神武暦では1041年であるから「九九=81」との関係は見られない。重要なことは、神武暦661年を紀元元年とする、筆者命名のニニギ暦(西暦)が用いられていたことを示す。
春秋2倍暦は神武から開化までの記載年代の基礎になっているが、主要な年代や在位は4倍であることが分る。仁徳より古い時代は、春秋2倍暦ではないということである。「中国史書に春秋2倍暦のことが記載されている」ということは、古代に春秋2倍暦が実際に使われたことを示す。しかし、編者の時代には既に暦が用いられている。編者は日本書記の記載に当たって、春秋2倍暦をそのままの形で用いたのではなく、応用したのである。春秋2倍暦だとする考えは、編者の能力を過小評価するもので、逆に、編者に言わせれば、頭の悪い奴に解読はできないということになる。

3.記紀の数字の記載方法はアラビア数字ではない
古事記では、崇神御年一百六十八歳を分解して六百一と十八を得る。一例しか述べていないが、この解読方法は古事記の復元年代を得る基本的な解読方法である。多分、頭が固いと馬鹿げた方法に見えてしまうだろう。
崇神から離れて、六十八歳を一つの事例として説明すると、算用数字(アラビア数字)ではできないことが可能になる。六十八歳(年)を分解すると、6年と16年に分けられる。
また、逆に読むと16年と8年になる。
ついでに述べれば、十八歳(年)は、18年と読むが、「プラス8年(8年を加算せよ)」と読むケースがある。
「十」をプラス(加算)とする解釈がいつ頃から始まったか不明のようである。記紀の編者は知っており、用いたことは明らかである。
それらの使い分けを知った上で解読することにより、はじめて正解にたどり着ける。

4.構成する数字の加算は基本中の基本
仁徳、允恭、雄略の各天皇の在位計算は、古事記の例である。古事記では「御年」を構成する個々の数字を加算する。場合によっては、月日の数字を加算する例もある。上記以外の多くの天皇がこの方法によって在位が得られる。極端な例としては、反正の月日、七月が7年を意味する。
日本書記の最も代表的な数字に「179万2470余歳」があるが、解読の基本は構成する個々の数字を加算することである。

5.正の文字を5と見做す考え方は昔から存在する
允恭の例は、正の文字を5と見做すが、現在でも頻度などを把握するために用いる方法であるが、古代から用いられていたのである。尤も、正月とくると、1月であり、1と読むケースもあり、1か5か迷わされるところである。

6.37の倍数の使われ方
顕宗崩御年、仁賢即位年は、神武暦を用いるが、天武元年神武暦1332年を基準年とした「37の倍数」の年である。天武元年は、37の36倍が1332年であり、神武暦と一致する。37の37倍は1369年で、天武元年672年と神武立太子年神武暦前37年の間が1369年間である。天武元年から数える場合と、神武立太子年または即位年から数える場合がある。
注)顕宗崩御年、仁賢即位年は、復元年代としてはまだ確定していない。
僅かな例外を除き、太歳は各天皇の即位年に付与されている。天武天皇の場合は、太歳が天武2年次に付与される。天武元年とは何を意味するのか考えてみればよい。「年代(数字)のからくり」の観点から見れば、天武元年は「37の倍数の基準年」であることを示している。

応用として、37の倍数の年数も多用されている。例えば、日本書記における応神元年の記載年代270年と復元年代381年は111年の年代差を有する。111年とは、37の3倍である。

面白そうなことを書くつもりが、つまらない説明に終わってしまったようである。解読できたときに感じたことと既に解読済みのことを書くことの違いかもしれない。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
https://www.typepad.com/services/trackback/6a0120a6b19efd970b012875b3e613970c

Listed below are links to weblogs that reference 記紀編者が考えた年代復元方法(面白い解読の仕方):

コメント

この記事へのコメントは終了しました。