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2010年3 月 7日 (日)

建御名方神の入諏時期

ここ数年『古事記』や『日本書紀』の記載から古代の年代を明らかにできたらと考え、記紀に記載された数字を基に年代解読を進めてきた。また、筆者はかって諏訪・茅野に住んでいたことがあり、諏訪大社や建御名方神に関する歴史にも興味をもっていたが、具体的には何もしてこなかった。最近、建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期に関する記事を見て、なんとなく腑に落ちないところがあり、調べてみようと思うようになった。
とりあえず、パソコン上で得られれた情報をもとに、自分なりに整理してみようと思う。

 

茅野市にある神長官守矢史料館には、「建御名方神が諏訪に入った(入諏)時期を今から千五百~千六百年前」とする紹介の記事が張り出されている。おおよそ西暦400~500年となる。
諏訪大社由緒略誌では、「御鎮座の年代は千五、六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つと数えられる」としている。
御鎮座の年代は、西暦元年から西暦500年の間となる。
千五、六百年前は両方の共通点であるが、諏訪大社由緒略誌は、大きな幅を持っている。それぞれ何が根拠になっているのだろうか。

建御名方神は、『先代旧事本紀』において、大国主神と高志沼河姫との間に生まれた子とされる。
建御名方神は、『古事記』において、葦原中国平定に関する大国主神の国譲りに繋がる記事として次のように記載されている。
建御名方神は、大国主神の子で、国譲りに反対し、建御雷神と戦い、敗れた建御名方神は、科野国の州羽(諏訪)に追い詰められて「この地以外の他所には行かない」と約束し、降伏した。
建御雷神は『古事記』の表記であるが、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。雷神は剣の神でもある。神武東征において、混乱する葦原中国を再び平定する為に、高倉下の倉に自身の分身である佐士布都神という剣を落としたとされる。

以上の『古事記』および『日本書紀』の記載を信じれば、建御名方神が諏訪に入った時期は、神武即位(筆者の年代解読結果は西暦162年)以前となり、現時点(西暦2010年)から見れば、少なくとも1850年前となる。
しかしながら、建御名方神に関する『先代旧事本紀』や『古事記』の記載(建御雷神との戦い)は、作者の創作とする見方がある。そうだとすれば、上記の1850年前とする年代も根拠のないものとなる。ただし、創作として片付けるのは容易なことであり、筆者としては同調できない。(この件についてはさらに詳細を述べるつもりである。)

 

さて、諏訪地方には『諏方大明神画詞』以外にも種々の資料があり、冒頭に記した千五六百年という年代(西暦400~500年)の根拠に何があるのかを確認してみよう。

『諏方大明神画詞』などの伝承によれば、古来諏訪地方を統べる神として洩矢神がいた。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。

上記の説明では、年代については皆目わからない。もう少し関係する記事を挙げてみる。
1)守矢家の七十八代を継承された守矢早苗さんの「守矢神長家のお話し」には、『この塚(神長官裏古墳)について、祖母の生前、「用明天皇の御世の我が祖先武麿君の墳墓です。」と説明をしていた』と書かれている。
この塚とは、神長官裏古墳と呼ばれ、茅野市教育委員会により、築造年代は7世紀頃と推定されている。また、武麿君とは、物部守屋(用明天皇2年(587年)没)の次男であり、物部守屋が蘇我馬子により滅ぼされた際に、武麿君は諏訪・守屋山に逃れたという。そうすると、物部守屋没年(587年)と神長官裏古墳の年代を7世紀前半と見做せば、ある程度年代が合ってくる。
また、守屋家の祖先武麿君が初代洩矢神であるとのことであり、仮にそれが正しいとすると、洩矢神と戦った建御名方神の入諏は西暦600年代初期となり、今から千四百年前になって、千五、六百年前の表現はさらに百年も後にずらさなければならない。

2)『諏訪大社由緒略誌』には、その御神徳として「当大社は古来より朝廷の御崇敬がきわめて厚く、持統天皇五年(西暦691年)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願なされたのをはじめ、歴代の朝廷の御崇敬を拝戴してきました。
 また、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られた。」としている。
上記の持統天皇五年の勅使に関しては、『日本書紀』に、持統天皇の五年(691年)八月、長雨が続いたため使者を遣わして、龍田の風神、信濃の須波・水内等の神を祭らせたとあり、『日本書紀』における諏訪大社初見の記事である。
三韓出兵は『古事記』によれば西暦362年とされる(筆者は392年の出来事と見做す)。上記の伝承が正しいならば、建御名方神は西暦300年代末には既に諏訪大社に鎮座されていたことになる。従って、「神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり」という記載と『諏訪大社由緒略誌』における「御鎮座の年代は千五六百年前」は年代として矛盾し、最低でも100年前に修正し、千六、七百年以前としなければならない。
さらに、白雉3年(652年)朝廷が綿を諏訪明神に奉る。(出所:未確認)
大化元年(645年)本田善光が諏訪明神の神勅により寂光寺より仏を諏訪郡真志野村善光寺に移し、後に、長野に移されたとされる。(出所:未確認)

3)諏訪氏は、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝をつとめてきた信濃の名族である。
 その出自については諸説があり、一般的には神武天皇の子神八井耳命の子孫で信濃(科野)国造を賜ったという武五百建命の後裔金刺舎人直金弓の子孫とされている。伝わる系図によれば、金弓の孫にあたる倉足は科野評督に、倉足の弟の乙頴(おとえい)は諏訪大神の大祝となったと記されている。そして、乙頴の注記には「湖南の山麓に諏訪大神を祭る」とあるので、乙頴は上社の大祝となったことが知られる。一方、倉足の子孫は金刺姓を名乗って貞継のとき下社の大祝となったことが『金刺系図』に記されている。諏訪大社の上社、下社の大祝が分かれたのは、金弓の子の代ということになる。
注1)金弓は、舎人として欽明天皇(539~571年)の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とする。金弓の子・は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられ、諏訪評に進出した。用明天皇(585~587年)の時、麻背は子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせた。

上記3)の場合、乙頴が上社の大祝となった時点で諏訪大神を祭ったことになるが、祭神は建御名方神であったと推測される。ということは、建御名方神の入諏はそれ以前の出来事であったはずである。

上記1)と3)を違いは、上社の大祝家の出自が異なることである。1)では、建御名方命の後裔と称し、2)では神八井耳命の後裔となっている。
それぞれの大祝の出現した年代は用明天皇(585~587年)の頃で一致するが、詳細を見ればかなり異なる点がある。
1)の場合の建御名方命の入諏は用明天皇の年代よりも後でなければ説明がつかない。
3)の場合には洩矢神と建御名方神の戦いの有無と年代が不明であるが、年代としては用明天皇(585~587年)の年代以前となり、場合によっては数百年も遡る可能性を有している。

 

 

参考1)『日本の苗字7000傑』の姓氏類別大観では、饒速日命を祖とする物部守屋の後裔武麿を宮道氏(物部氏より分かれる)とする。ただし、諸説あるが、武麿が諏訪に逃れた記載はない。
参考2)崇神天皇(302~318年)の時代に建五百武尊、科野国造となる。(下社大祝の祖)
用明天皇(585~587年)の時代に、科野国造麻背君(五百足君)の子・乙穎(一名神子くまこ、熊古)、湖山麓に社壇を構え、諏訪大神と百八十神を千代田の斎串を立てて奉斎。(諏訪大神大祝)(『阿蘇家系図』)

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