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2009年10 月25日 (日)

日本書記の謎を解明・・・最大の特徴は何か

日本書記は日本国の国史あるいは正史といわれる。日本書記は、他国の古代の歴史書と同様に年代を延長し、実際より822年ほど遡った年代、(西暦紀元前660)から始まる。しかし、他国の歴史書には見られない特徴を有している。

最大の特徴は、「正しい歴史」を内在していること
日本書記の最大の特徴は、「延長された年代の歴史」(記載年代)に対し、「正しい年代の歴史」(復元年代)を内在していることである。(以下、「正しい歴史」を「復元年代」と呼ぶ)
日本書記の編者は、復元年代が将来解読されることを前提としている。それは、編者の個人的な考えではなく、日本書紀編纂の基本方針であった。
だからこそ、安易に復元年代が解読できるような記載はできなかったのである。編者は知恵を総動員して、解読困難あるいは不能と思われるような日本書記を作り上げた。
同時に、編者は、編纂の基本方針に沿って、復元年代を得るための情報(暗号や「からくり」やキーワードなど)を記載の中にはめ込んだ。解読に必要な情報は、中途半端なものではない。それどころか、ほぼ完璧な情報である。
日本書記の解読が困難なことと解読のための完璧な情報の存在とは、矛盾しない。
日本書記は、編者の挑戦状なのである。編者は日本書記が容易に解読されるとは思っていない。安易に解読されることを防いだ自信作なのである。
しかし、将来の何時は分らないが、必ず解読されるであろう。その時には、正しく解読してほしい。それが編者の願いである

上記に述べたことは、仮説ではない。事実である。
日本書記の献上720年から1290年ほど経過したが、未だに解読できないでいることを根拠にあげても意味はないであろう。編者の目的の一つは達成していることになる。(冗談)
主張の根拠の一つは、2種類の紀元の異なる暦、即ち神武暦とニニギ暦が用いられていることである

神武暦とは
神武暦は、神武天皇即位紀元の日本の紀年法である。他国の紀年法もほとんどが尊敬する人物や神の誕生年や崩御年あるいは偉大な出来事(世界の創生、建国)を紀元とする。
日本書記の編者は神武天皇を実際より822年前に年代を遡らせて即位させた。それにより、編者の時代、例えば文武即位697年は、神武即位から数えて1357年になる。編者は日本という国の歴史が千数百年あることを示したかったのであるから、神武天皇の即位あるいは建国を紀元とする暦を考えたのは当然のことである。
重要なことは、千数百年(4桁の数字)となることを前提として神武暦が用いられたということである。

日本書記が、延長された年代だけを対象にしているならば、神武暦だけで十分である
しかし、解読を前提とした復元年代を包含したとすると、不都合が生じる。

神武暦のみを用いた場合の不都合
日本書記において、神武暦のみを用いた場合、記載年代と復元年代の変換が困難なことになる。
復元年代を神武暦で表したとすると、記載年代と復元年代の年代変換は、神武暦から神武暦へ変換することになるのだから、記載年代と復元年代の区別がつかなくなってしまう。
例を見れば、説明の意味が分るであろう。
「日本書記における神武天皇即位年は、神武暦元年であるが、復元年代は神武暦822年となる。」
「孝安天皇崩御年は、神武暦370年は、復元年代では神武暦908年となる。」
「崇神天皇崩御年は神武暦630年、復元年代は978年」
「仁徳天皇崩御年は1059年、実年代は1087年」

また年代変換は、単純には変換できない。記載年代と復元年代の間にある年代差が常に付きまとい、年代差自体も直線的な変化ではなく変則的であるから、年代変換は困難な状態に陥る。
それでも、各天皇の崩御年くらいを処理するなら可能であるが、[年代(数字)のからくり」などで示すように、記載内容にまで踏み込むと、極めて厄介なことになる。
これを解決するためには神武暦とは読み方の異なる別の暦(紀元の異なる暦)を必要とした。

二つ目の暦として、ニニギ暦を採用
ニニギ暦については、「記紀編者が用いた神武暦とニニギ暦」(カテゴリ「記紀の紀年論」)を見ていただきたい。
ニニギ暦は、日本書記に記載された歴史、即ち、神武立太子年神武暦前37年(西暦前697年)と文武立太子年神武暦697年(西暦697年)の中央年神武暦661年(西暦元年)を紀元とする。ニニギ降臨にちなみニニギ暦と命名している。
神武立太子年から文武立太子年の期間1394年は、ニニギ暦697年になる。年数でみれば、丁度半分の年数である。
神武即位年は、ニニギ暦162年であり、天武元年は672年、文武立太子年(文武即位年)は697年である。編者の時代を、仮に文武立太子年とすると、神武即位年は535年前になり、天武元年とすると、510年前になる。
編者は、次のような面白いことをしている。
文武立太子年神武暦1357年を4倍暦と見做すと、339年になる。文武立太子年をニニギ降臨のときからみると、500年になることを確認している。計算では成立しないが、編者の考え方としてとらえればよい。
編者は、ニニギ暦で正しい年代をみた場合に、(神武暦で見ても実態は変わらないが)より一層、正しさを実感したのであろう。

ニニギ暦は、年代の桁数の問題を解決する
易で最も重要なのは、三つの数字である。年代でいえば、3桁の数字である。
易では、爻(こう)は、易の卦を構成する基本記号。これらを3つ組み合わせた三爻により八卦ができ、占いがなされる。年代を占うとすれば、3桁の数字が必要になる。
日本書紀の前半の部分、例えば、応神天皇(崩御970年)以前は神武暦で表記すると3桁で示せる。それ以降は4桁の数字になる。
復元年代の場合、神武暦では、垂仁天皇(崩御997年)までが3桁で示せるが、それ以降は4桁になる。
編者、特に陰陽道の知識に基づき、年代や在位、年齢を判断できる編者にとって、数字は3桁であることが重要であった。
ニニギ暦による年代は、編者にとって扱い易かった。また、神武暦も4桁になってしまう神武暦も、必要な場合はニニギ暦に変換して用いることができた。

正しい年代による歴史(復元年代)は、延長された年代の歴史(記載年代)よりも先に考案された。
当たり前のことだが、「復元」の意味をとり違いないでほしい。正しい年代があるから復元なのである

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