Google
 

2009年9 月30日 (水)

「古代天皇長寿の謎」を読んで

「古代天皇長寿の謎」(著者:貝田禎造、昭和60年12月15日、六興出版)によって、古代の暦がどのようなものであったかを明確にされたことは、大きな成果であり、素晴らしいことである。しかし、算出された在位および復元年代は間違えている。
物事には功罪が付きまとう。古代の暦を明らかにした成果を「功」とすれば、年代は、「罪」である。暦の成果にひかれ、年代や在位の誤りに気付かないのである。ある意味で氏の復元年代は正しさと誤りを同居させている。理屈に合致する部分があるから、正しく見えてしまうのである。
応神以降の年代は中国史書が誤りであることを示してくれている。筆者は神武天皇の年代から誤りであることを指摘したいが、神武即位年や在位に言及がない。神武天皇の年代を示さず崇神天皇から書き始める例は見かけるが、神武没年のみ示し、綏靖天皇から始まるのは見たことがない。おそらく、神武天皇を書くと、間違いがばれてしまうと思ったのか、それとも神武天皇の年代を解読できなかったのだろう。

筆者が「古代天皇長寿の謎」に関して投稿に踏み切ったのは、貝田氏に対してではなく、間違った復元年代を引用し、お茶を濁すようなちょっとした修正を加えて、同調する多くの著名な学者がいることに憤慨しているためである。後述するが、貝田氏は「日本書記の側に誤りがある」として、「誤りの年数」を書き残してくれている。実際に誤ったのは貝田氏の方なのだが、誤りの年数を計算すると、より正しい年代が読み取れるのである。

貝田氏が証明されたことと証明されなかったこと
貝田氏は、「普通の1年が4倍の4年に引き伸ばされる」ことを証明されたのであるが、
神武天皇から仁徳天皇までの年代が4倍に引き伸ばされている」や「各天皇の在位は4倍に引き伸ばされている」は証明されたわけではなく、神武天皇即位年と開化天皇没年に限れば、年次表の解読でも4倍であり、4倍で一致するだけである。そして個々の天皇の年代や在位に関しては、4倍にはならないのである。筆者の「合成年次表」を見てもらいたい。
また、履中天皇以降においては、「1年が2倍に伸ばされる」ということを根拠に復元された年代が、中国史書の年代と一致しないが、理由は同じである。履中天皇以降の場合は、正しいとされる中国史書の年代があるため、貝田氏の復元年代が否定される。
神功皇后の場合も百済の記事がある。百済の記事の年代は実際と120年の差を持っているが、4倍では記載されていない。それどころか正確に等倍(1倍)である。しかも、一度下った年代は、再び繰り上がるのである。まして、神功皇后の在位69年は復元では存在しないのだから、等倍(1倍)でも4倍でも関係がないのである。古代の暦に関する解釈は正しくても、日本書紀の年代や在位には一律に適用できないのである。

神武の在位は4倍暦ではない
貝田氏が、神武天皇の在位を示さず、また重要なはずの神武即位年も示さなかったのはなぜかを考えればよい。
ちなみに、神武天皇に関しては相当の数のデータがあり、神武東征の7年間には、月日を伴う記事が18件あり、即位から崩御までには76年間のうち、月日を伴う記事のある年は6年分、6件しかない。太歳干支が付与された神武東征が実年(等倍)の7年で記載されていることについても何も述べていない。即位から崩御までの記事のない残りの70年が4倍に引き伸ばされている保証もないのである。これらのことは、「神武在位14年のからくり」に述べたので参照していただきたい。そこでは神武即位から崩御までは5.53倍に伸ばされているとしている。従って、神武天皇に関し一律に記載在位を1/4にして得られた在位は全く意味のない数字にすぎない。
綏靖以降の各天皇の在位は、神武で明らかにしたとおり、4倍ではないのである。神武即位から開化崩御までは以下に述べる通り140年であるが、神武在位が19年ではなく14年であるから、5年分は他の天皇が穴埋めするのである。各天皇の在位は4倍(1/4)を中心にデコボコしているのである。

主要天皇な年代、在位のみ4倍
1年が4倍の4年に引き伸ばされる」ということは、「4」という倍数が極めて重要な数値であることを示唆する。
編者は個々の天皇とは別に、年代構成上の主要な天皇において「4」という倍数を用いたのである。例えば、崇神の在位が該当し、記載在位68年は、復元在位17年になる。それに伴い神武即位から開化没年(あるいは崇神没年)までの合計在位(空位年を含む)が「4」倍になっている。神武即位BC660から開化没年BC98年までの563年は、復元合計在位としては1/4の140.75年(140年)となる。同様の計算により、神武~崇神の復元在位は157年、神武~仁徳の復元在位は265年となる。
上記に述べたように合計在位が分かっているため、開化没年あるいは仁徳没年が決まれば、自動的に神武即位年あるいは没年が決まる。
筆者は神武即位西暦162年、仁徳没年西暦427年±1年と考えている。貝田氏は仁徳没年を西暦439年とする。その差は12年程であり、誤差±1年から見れば極めて大きな数字の食い違いである。
直接の原因は、履中、反正および雄略の各天皇のから在位を記載通りとみるか、それとも1/2とみるかであり、これらが明確になれば食い違いはほとんど解消する。

各天皇の復元年代の積み重ねは誤差が大きくなる
貝田氏は、というよりほとんどの学者は、推古辺りから各天皇の在位を積み重ねて、神武の年代にたどり着く。誤差が積み重ねられれば、(誤差の±が相殺されればよいが)自づから神武即位年は最も誤差が大きくなる可能性がある。
筆者の場合は神武前紀に記載のニニギ降臨の暗号からスタートしたため、神武の年代が先にあり、順次年代を下ってきた。古事記の年代でも御年の解読(神武137年誕生)により、神武の年代が先に決まっている。筆者の記事を読めばお分かりになることである。従って筆者の場合は、各天皇の在位を積み重ねる必要はなく、年代を記載内容に基づき区分けしているだけなのである。

応神以降の復元年代
貝田氏は、応神、仁徳の各天皇は在位が4倍に延ばされているとし、応神崩御417年、仁徳崩御439年とする。また履中から雄略までを在位が2倍伸ばされているとし、履中崩御442年、反正崩御445年、允恭崩御466年。安康467.5年、雄略崩御479年、とする。
中国史書に記載された五王との関係を見ると、雄略は武、安康該当なし、允恭は興と済が該当、反正は済、履中は該当なし、仁徳は珍と讃、応神は413年の朝貢となる。
この復元年代と朝貢した天皇との関係には問題が多い。復元年代が間違っているため中国史書とは一致しないのである。それも日本書記のいい加減な記載年代よりもさらにひどい復元年代になっている。
1年が2倍に引き伸ばされている」という判断自体を疑わなければならない。

日本書記は、応神は7年、履中・反正は2年、允恭・安康4,5年の誤りを含むか?
貝田氏は、「日本書記は、天皇の没年が、応神は7年、履中・反正は2年、允恭・安康4,5年の誤りを含んでいる。」という。
前後の文章から推測すると、「仁徳~雄略紀は旧暦と太陰暦の資料が混在していて、(日本書紀の編者が)正確に整理できなかったか、それらの資料に誤りがあったからである。」ということらしい。日本書記からの復元は正しいが、中国史書と年代が一致しないのは、日本書記が間違えているから、間違えた復元年代になった、と言っているようでもあり、実際のところ、記述からは正確なことは分らない。

誤ったとされる年数から正しい年代を推定する
さて、上記の「日本書記は、天皇の没年が、応神は7年、履中・反正は2年、允恭・安康4,5年の誤りを含んでいる。」の解釈について、貝田氏は日本書記の編者の側に問題があるとする。多分、ご自身の暦の読みを重視し、上記の数字を日本書記の編者の誤りとしたため、結果正しい復元年代を提案できなかったのであろう。折角、「日本書記の編者が誤ったとする年数」を出されているので、この年数を基に筆者が勝手に推測した年代を紹介する。
貝田氏の算出された応神から安康までの崩御年代に、「日本書紀の編者が間違えたという年数」を修正する。前述したとおり、貝田氏が2倍暦として扱ったことを考慮すると、修正は誤ったとされる年数を遡ることになる。修正結果は次のとおりである。

応神:崩御417年-13(=7+2+4)=403年→中国への朝貢なし
仁徳:崩御439年-13(=7+2+4)=426年(在位23年)→讃(413年の朝貢を含む)
履中:崩御442年-6(=2+4)=436年(在位10年)→430年の朝貢
反正:崩御445年-6(=2+4)=439年(在位3年)→438年の珍
允恭:崩御466年-4=462年(在位23年)→443、451年の済と460、462年の興
安康:崩御467年-4=463年(在位1年)→朝貢なし
雄略:崩御479年(在位16年)→477、478、479年の武

允恭は、興と済になり問題がある。上記では「允恭・安康4,5年の誤り」を4年として計算したが、5年の場合は462年の興の朝貢は安康になる。しかし、これ以上推測を加えると、筆者の年代へ誘導することになるので止めておく。
最も重要なことは、「応神崩御403年、仁徳崩御426年(427年?)という復元年代が算出され、応神と仁徳の復元年代は、筆者の復元年代とほぼ一致する。」ということになる。

間違えているのは、日本書紀の編者の側ではなく、貝田氏の方であるのは明らかである。」

2009年8 月24日 (月)

「古代天皇長寿の謎」(著者貝田禎造、六興出版)の功罪

記紀の年代復元に関する学者の見解の中に、よく引用される本に「古代天皇長寿の謎」(著者貝田禎造、昭和60年12月15日、六興出版)がある。
どんなものかと思い、古本屋から購入して見た。「古代天皇長寿の謎」という題名から、古代天皇の年齢に関して何らかの示唆があるものと考えていたが、年齢については何も示していない。だまされたような気がしたが、帯に長寿の<意味>とあるので、早合点であった。しかし、年齢に全く触れていない点は残念である。

実証的な取り組みによる倍暦の発見
副題に「日本書記の暦を解く」とあり、こちらの方は日本書紀に記載された「月日」に関する情報をよく整理されていて、4倍暦と2倍暦の根拠が示されている。
日本書記に記載された「月日」を解析され、暦が倍暦からなることを解いている。従来にない実証的な取り組みの結果から導き出された「倍暦」の発見であった。このため、多くの学者が引用し、日本書記の年代解読に大きな影響力を持ったようである。
筆者も倍暦に関して余りくどくど説明しなくて済むのも、このような書物のお陰と思っている。

「古代天皇長寿の謎」の功罪
「古代天皇長寿の謎」の記述内容には正しいことと誤りが混在している。誰しも、優れた発見をしたとしても、発見したことを基本にして応用・拡張などをしていくと、応用・拡張の仕方によっては、誤りが生じることがある。「古代天皇長寿の謎」も同様で、上記に述べた暦の倍暦に関しては優れた発見であった。しかし、4倍暦にあって各天皇の倍暦を一律で扱ったこと、2倍暦が適用される天皇を見誤ったことなどから、倍暦に基づき算出された復元年代は大きな過ちを犯すこととなった。
このようなことは、貝田氏に限らず多くの学者に見られることであり、正しい部分を評価し、誤った部分を明らかにし、課題として捉え解決に努めればよいことである。

「古代天皇長寿の謎」の罪は、利用する側にある
筆者が「古代天皇長寿の謎」の功罪と表現する「罪」の部分は、貝田氏に対してではなく、著名な歴史学者を含め、多くの学者が誤りを含んだ復元年代を無造作に利用していることに対してである。貝田氏は素直な性格の方のようで、いくつかの疑問(神武の在位年数、応神以降の十数年の誤り)を示しているのであるから、くみ取らなければならない。

「古代天皇長寿の謎」(六興出版)が発行されたのは1985年である。それ以前に、日本書記の解読に関して何が公知であったか、筆者は勉強不足でよく分らない。
「古代天皇長寿の謎」には、「月日」を解析以外に、いくつかの先見性あるいは新しい発想と呼んでもよいことが記されている。

統計的手法と平均在位年数の活用の先駆者?
貝田氏は、日本書記の年代の延長の始まりを、雄略天皇崩御年に置いた。その根拠として、鳥羽天皇から75天皇の代数と年代を用い、年代延長の有無を探っている。それには検定などの統計的手法を活用されている。さらに、新羅、高句麗の王一代の平均在位年数12.54年を導き出して比較検討されている。
貝田氏は、天皇一代の平均在位年数の活用している。貝田氏が初めて行ったことかどうか知らないが、少なくとも解析方法として、1985年には公知の事実である。

神武天皇~仁徳天皇は4倍暦
貝田氏は月日の解読結果から、(A)「仁徳までの各天皇の在位が4倍になっている」ことを明らかにした。さらに、履中から雄略までの在位が2倍になっているとした。
貝田氏は、上記の根拠として、(B)「1年の半年の1トシとして、1年を2トシからなること、1月の半分の15日を1ツキとして、1月が2ツキからなること、を組み合わせて、1年が4倍あるいは2倍に延ばされている」とした。
しかし、(B)が正しいとしても、(A)が成立するとは限らない。
筆者は、2倍暦の知識に基づいてはいるが、記載された月日には、それ以外の意味が含まれているという考え方をしている。
筆者は、「神武から仁徳までの期間(各天皇の合計在位)が4倍に延ばされているとするが、各天皇の在位は4倍であるとは限らない」としている。貝田氏の主張する「仁徳までの各天皇の在位が4倍になっている」は採用できないのである。
貝田氏とは、神武から仁徳までの期間が4倍であることは一致しているのであるから、この点において心強く感じている。

雄略天皇以降は正しく表記されている?
貝田氏は、年代の復元に当たって、次のような結論を示されている。
雄略天皇の没年以降は太陰暦の長さで、正しく表記されており、『日本書紀』のままで読んでもよい。」
月日のデータから4倍暦か2倍暦かの判断は難しかったとして、「暦通りである」という結論は重要である。
現在、筆者は日本書記の雄略没年479年が正しいと考えている。清寧以降の復元はまだできていないが、雄略天皇に記載された記事の内容からみると479年の記事が最後になっているからである。復元年代を479年より下った年代にするには、相当の根拠が求められそうである。
日本書紀に記載された「月日」を研究して、年代復元をされたが、雄略天皇没年が正しくないとすれば、「古代天皇長寿の謎」に書かれた復元年代はすべて(100%)間違いであることになる。「暦通りである」という結論くらい正しい結論であってほしい。)

貝田氏の間違えた事柄について述べるのは苦痛である。「機会があったら」としておきたい。

2009年6 月 8日 (月)

「歴史発見物時事コラム」の先見性

筆者は、パソコン上で多くの方の記事を見させてもらっている。歴史学者もいれば、アマチュアの方もいる。学者であろうとアマチュアであろうと、共感する記事や新しいことを教えてくれる記事を見つけるとうれしいものである。
筆者が現在、関心のある学者は「日本書紀の真実/紀年論を解く」の著者である倉西裕子氏である。この方を知ったのは、「歴史発見物時事コラム」を読んでからである。史学を勉強され、日本史研究に入られたようであるが、コラムの記事を見て、驚かされた。記紀に取り組んで正味半年の筆者には新鮮に思えた。

第3回歴史発見物コラムで、「神武立太子紀元前697年と文武立太子697年」について述べられているが、「前697年と697年のシンメトリック(対称性)」に気付かれたことはすばらしいことである。しかも、その中央が紀元元年であることにも気づかれている。ところが、「日本書紀が成立した720年の頃には、西暦1年を紀元とする紀年法が伝わっていた可能性を示すことになるからです。」と述べている。なぜ、シンメトリックの中央年を「西暦」に結び付けてしまったのか理解しがたい。720年頃には「西暦」といわれるものはまだ存在せず、まして日本書紀の編者が「西暦」など知るはずもないのに。
筆者は、「ニニギ降臨の暗号」や「BC660年(辛酉)と661年(辛酉)のシンメトリック」など別の観点からシンメトリックの中央年を「ニニギ降臨紀元」としたのであるが、その後このコラムを読んで、「神武立太子紀元前697年と文武立太子697年のシンメトリック」を取り込んだいきさつがある。何しろ筆者がこれを考えた当時は、古事記の推古天皇までしか対象としていなかったので、文武立太子が記載された持統天皇など眼中になかったのである。シンメトリックの中央年に力点を置いて何らかの解釈をされていれば、倉西氏の記紀解読の方向も変わったと思われる。

また、このコラムでは、「日本書紀紀年法に複合的な数学的な構築物としての性格を与えている。」と述べられている。多分「プラスマイナス120年構想」を想定してのことと思われる。筆者は、日本書紀の編者らが「37」という数字にこだわりを持ち、「37の倍数」を利用して年代構成を行ったことを発見した。日本書紀はまさに「数学的な構造物」である。
「歴史発見物時事コラム」で見られた読解力や分析力と豊富な知識は、筆者が数字だけを頼りにしているのと違い、羨ましいくらいすばらしい特性である。その特性を活かされることを期待する。

最後になるが、「日本書紀紀年法には、プラスマイナス120年構想が設定されている」との説は、疑問である。確かに神功皇后と応神天皇に関しては120年という数字が重要であるとしても、日本書紀の紀年法に拡大することはできない。

追記1(2009/03/21)

「ニニギ降臨紀元」が偶然「西暦紀元(キリスト紀元)」と紀元を同じくする。この話をするといぶかる方々がいる。説明するのも面倒になってやめてしまうことになる。仮に「ニニギ降臨紀元」が間違いであったとしても、記紀編纂の数百年後(15世紀か?)にできた「西暦紀元」によって否定されるいわれは全くないのである。
「ニニギ降臨紀元」の元年(西暦元年)は辛酉の年である。神武即位の年BC660年も辛酉の年である。そして、日本書紀の記載年代の範囲は、BC660年から697年までの1353年、あるいはBC667年(最初の太歳干支の年)から697年までの1357年、BC697年(神武立太子年)から697年までの1394年といろいろ解釈できる。仮にその1/2は678年、682年、697年である。以上の年数を697年から遡るか、または神武暦で読めば、神武暦661年(西暦元年)あたりが最も近い辛酉の年に当たるのである。

追記2(2009/11/06)

「日本書紀紀年法には、プラスマイナス120年構想が設定されている」という記事の反論という程のことではない。筆者の備忘録のつもりである。
日本書記の仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の記載年代の解釈は、編者の目的によって幾通りかの読み方がある。

応神誕生年および応神崩御年の復元を目的とする場合加算162年
仲哀天皇崩御年200年(仲哀天皇9年次)→+162年⇒362年(古事記の崩年干支の復元
神功皇后摂政元年および応神天皇誕生年201年→+162年⇒363年
(応神崩御年241年→+162年⇒403年)
応神崩御後の空位年242年→+162年⇒404年(空位年の存在を示すため、重要

百済関係の年代(および神功皇后崩御年)の復元を目的とする場合加算120年
243年+120年⇒363年(243年以降の百済の記事全般に適用される)
神功皇后崩御269年→+120年⇒389年

仲哀崩御年および応神即位年の正しい復元を目的とする場合加算111年
(仲哀崩御年269年→+111年⇒380年)
応神即位年270年→+111年⇒381年
注)111の根拠は、[162-69+18=111]および[37年の3倍]

応神崩御年の正しい復元を目的とする場合加算93年
応神崩御年310年→+93年⇒403年
注)93の根拠は、[111-18=93]