Google
 

« 2009年9 月 | メイン | 2009年11 月 »

2009年10 月31日 (土)

新発見・・・・日子穗穗手見命五百八十歳の意味

古事記は、「日子穗穗手見命(ホホデミ)は、高千穂の宮に五百八十歳坐しき」と記載する。
「580歳」は、解読できない数字の一つである。
普通に読めば、「ホホデミは高千穂の宮において、五百八十年間、天下を治めた。」となる。580年では長すぎるが、神代のことだから、2倍暦や4倍暦と違い、10倍暦や20倍暦で書かれているのかも知れない。

日本書記には、「ニニギの暗号179万2470余歳」がある。
解読方法は2種類あり、一つ目は、個々の数字を加算し、300余年を得る。それに従えば、580歳は13年または130年となる。
二つ目は、2桁または3桁の数字を加算し、822年を得る。580年は、上記の他に、58年、85年などが得られる。また、それぞれの逆数もありうる。際限がない。

解読方法の新しい発見
解読には、古事記の解読がヒントになる。解読方法の新しい発見があった。
古事記の御年の解読にはいろいろな解読方法が存在する。まともな解読とはいえないと思いながらも、捨てきれない解読例があり、「表93-1  記紀による崇神以降の暗号解読結果(面白い解読の仕方)」に集めている。
その中の一つに、次のような解読方法がある。
古事記の崇神天皇の記載に、「御年一百六十八歳、戊寅の年の12月に崩御」とある。
一百六十八歳を分解した逆数601と18に、12月の12を加算すると、631が得られる。
631とは、神武暦631年であり、日本書記に記載された崇神天皇の崩御の年、ニニギ暦前(西暦前)30年に相当する
。」解読として、復元年代は得られないが、記載年代を正しく示している。

上記の解読方法を「五百八十歳」に適用する。
五百八十歳を分解した逆数805に10を加算すると、815となる。815とは、神武暦であり、ニニギ暦(西暦)155年に相当する。
「五百八十歳」は、日本書記に記載された神武東征の出発年BC667年の復元年代155年を示している
。」

古事記および日本書記の紀年に関係する暗号を纏めると次のようになる。
古事記:「神武天皇の御年137歳」→西暦137年(神武誕生)
古事記:「ホホデミは、高千穂の宮に五百八十歳坐しき」→西暦155年(神武東征出発)
日本書記:「ニニギの暗号179万2470余歳」→神武暦822年→西暦162年(神武即位)
注1)ニニギ暦は、西暦と紀元を同じにする。

2009年10 月30日 (金)

妄想か、それとも新しい解釈か・・・・年月日の暗号

日本書記の暦については、今まで何も述べてこなかった。既に多くの方が解析されているからである。
それらの解析結果の一つは、日本書記に記載された月日は干支で表記されているが、計算すると、かなり正確になされているという。筆者は自分で計算したことがないが、異論など持っていない。

「古代天皇の長寿の謎(日本書記の暦を解く)」の著者である貝田禎造氏は、面白いことを述べられている。
日本書記の記載に表れる「月」は、「5月と6月が少ない」という。理由としては、旧暦を大陰暦に換算することに起因している、とする。いろいろと説明がなされているが筆者には理解できない。
また、日本書紀は、旧暦による伝承に基づいており、これをすべて誤った方法で大陰暦に換算している、と述べている。要するに、「5月と6月が少ないのは、日本書紀の編者が間違いを犯している」ということらしい。
この方は、ご自分が理解できないことを、編者の責任にしてしまう癖があるようだ。こうなると、筆者もひとこと言いたくなる。
日本書紀の「年月日」が旧暦による伝承に基づいていることは全くない。物語や記事は伝承であったとしても、月日は残っていなかった。月日は編者の創作である。仮にあったとしても、編者の都合に合わせて作り替えたと考える。

神武天皇の即位前に18件の月日があるが、5月は1件、6月も1件ある。他の天皇には1月が多いが、神武即位前紀には1月と7月が1件もないのが特徴である。各月が現れる頻度の平均は1.5件であり、1件および2件は平均値に相当する。5月と6月について、指摘するほどの異常は見られない。それなのに「5月と6月が少ない」とはどういうことだろうか

神武即位以降、開化天皇までを見ると、約52件の月日(日付があるもの)が記載されている。「約」としか言えないのは、月日にもいろいろなものがあるため、数えるのが難しい。
例えば、各天皇の前期に記載された月日を数に入れるかどうかの問題がある。これさえも、前天皇の月日の記載と重複したり、しなかったりしている。また、日付まで記載されているが、日付が読めないものなどさまざまである。そのため、正確に数えられないのである。月のみの記載を含めると、65件を超える

神武即位以降、開化天皇までの9天皇を見ると、確かに5月1件と6月0件と少ない。指摘されていないが、11月も1件で少ない。
注1) 筆者は神武を即位前と即位後に分ける。記載内容が違いすぎるためである。欠史八代という表現があるが、即位後の神武を加えれば、欠史九代である。

5月、6月、11月がなぜ少ないのであろうか
先ず、1件もなかった6月について考えてみる。
編者は6という数字をどのように思っていたのか、を知るために日付を見る。5日6件、11日4件に対し6日3件である。日付が15日以下しか用いられないことを考えると、日付でも6の用いられ方は、幾分少ないと思われる。
ところで、6という数字は、記事の数で極端な使われ方をしている
欠史九代のうち、懿徳以降孝元までの5天皇において、日付まで入った月日の数が6件ずつある。神武の場合、年を数字で示さない(明年とした)1件を除くと、6件になる。そうすると、6天皇が該当することになる。
意味は不明であるが、月日の入った記事の数を6件としたため、意識して6月を用いなかったと推測する。そこには、「旧暦を大陰暦に換算すること」とは全く関係ない別の理由、例えば陰陽道の占術との関係があると思われる。

5月について考えてみる
先ず、正月の数を見ると、12件あり、52件に対し23%の高い比率である。
記事との関係では、「立太子」、「即位」、「皇后とする」の順で用いられていて、ほぼ納得できる使われ方である。
しかし、月日は暗号であり、記事との関係を離れて、復元時の年代や在位や年齢を示している。復元時に、そのまま月日として用いられることは全くない。
正月は、暦の上では1月の意味であるが、日本書記において、1月の表記は存在しない。そして正は1とも5とも読める。正月の暗号上の意味は、1月かも知れないし、5月かも知れない。5月が少ないのは正月が多く、必要性が乏しいためである。
6月が少ないのも、同様で、正月1日と記載すれば、6月の意味を持たせることができる。

先日投稿した「日本書記の暗号に書かれた『孝一族の時代(卑弥呼の時代)』」に添付した「表113 日本書記における魏国との交流の記録」を見ていただきたい。
上記の説明を、事例で見ることにする。
事例1)孝安76年正月5日と孝安102年正月9日から、248年と解読した。
76年と102年の計算76+5×5+102+5×9=248
248年とは、三国志に書かれている卑弥呼の死んだ年である。この場合は、日本書記の記載では76年正月は立太子の記事であり、102年正月は天皇崩御の記事である。暗号解読では正を5の意味で扱っている。

前述の、神武天皇の即位前の月日には、5月が1件、6月が1件あるが、1月(正月)がなかった。記事の中に1月に関わる「即位」などの記事がないためである。正月がなければ、5月や6月が現れるのは当然のことである。
崇神以降の天皇は記事の数が徐々に多くなる。5月の表記がわずかだが表れるが、それでも正月の占める割合は高い。正月の数が5月と6月の代わりになるだけ存在するのである。

11月(ついでに、11日)について述べる
暗号として、解読の難しい数字の一つが、11である。11という意味以外に多様な解釈ができるのである。
仮に、「11月11日」とあったとしよう。
加算すれば22[11+11=22]となる。11のみで2と読ませることもでき、4[2+2=4]となる。11と2の意味を組み合わせているとすれば、13[11+2=13]となる。
また、は、11の意味とプラス(+)の意味を有する。12[11+1=12]と読めるし、21と読むことができる。
ところで、11は逆に読んでも、逆数でも11であり、この読み方は無意味な読み方である。
(いろいろな読み方を利用して、面白い使い方はできる)
暗号として解読が難しいだけでなく、解読を期待している作成側の編者にとっても使いにくい数字である。やたらに11月や11日を使えないのである。
解読が全くできないならば、暗号を作った意味が失われ、編者は与えられた役割を果たすことができなかったことになる

月日の数は、数自体の読み取りが困難である。月日の数も暗号と考えられ、神武に関わる数字のように思われるが、数が正確に読めないので、今のところ放置している。

最後に述べておきたいのは、冒頭で述べた「月日は干支で表記されているが、計算すると、正確になされている」という点についてである。

日本書記の編者は、月日を暗号として利用した。「月」は数字(例えば、二月、九月)で記載されているが、月の朔(ついたち)は干支で記され、所望の日付は朔を基準にした干支で示される。編者は月と同じように、日付の数字を必要とした。しかし、「朔と日付の干支があれば事足りる。」などと安易に考えたわけではない。編者は天文、暦のプロである。そんなことで手を抜くことなどするはずがない。また、一部ではあるが、干支も暗号として用いている。正確なのは、当然のことといえる。

神武天皇在位14年のシンメトリック

日本書紀の編者は、シンメトリックを年代構築のための主要な手法として位置付け、多用した。年代解読の初期の段階で、シンメトリックが果たした役割は大きい。最近は、記載年代のシンメトリックではなく、復元年代にも有効なシンメトリックがあるのではないかと考え、チェックしてきた。

表題の神武天皇の在位14年に関わるシンメトリックは、何でこんなことをしたのか疑いたくなるほどの、奇妙なシンメトリックである。それだけでも紹介する価値があると思われる。また、神武~懿徳の4天皇が関係する在位14年のシンメトリックは、各天皇の在位を明らかにする最重要のシンメトリックである。
添付する「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を見ていただきたい。

神武天皇在位14年のシンメトリック
筆者は、このシンメトリックを「神武天皇在位14年のシンメトリック」と名付けてみた。「神武復元在位と延長在位のシンメトリック」でもよいかも知れない。
神武天皇の復元在位は、神武即位26年次、神武26歳から神武崩御52年次、神武39歳までである。その期間(在位)は、年次では27年次あり、年齢では14年である。なぜ年次の数字と年齢が異なるかというと、年次は2倍暦でできているが、年齢は2倍暦を解消した数字である。
他方で、神武崩御翌年53年次、神武39歳以降は神武の年代が延長されている。年代の延長の終わりは、神武79年次、神武52歳までである。その期間は年次では27年次、年齢では14年である。
年次で27年、年齢で14年のシンメトリックが成立する。14年は神武の復元在位である。
神武76年次からややこしい計算で、0.25年足りないとかやっていることからすれば、神武の年齢のシンメトリックからは、ズバリ14年の在位が得られる。

このシンメトリックが示唆すること
ところで、このシンメトリックの面白いのは、「実の在位」と「延長された部分(架空の在位)」のシンメトリックである。そのように理解すれば、神武の年代が2倍暦を基本にしてできていることが分る。極めて重要な示唆を含むシンメトリックである。
また、神武崩御の後の3年の空位の位置付けも、神武の年代に関与していることを示唆する。即ち、日本書記の編者は、神武79年次に記載された皇子間の争いも、神武天皇に関わる出来事であるとしている。

もう一つの「14年のシンメトリック」最重要
14年のシンメトリックは、もう一つある。上記の「神武復元在位14年」と対になるシンメトリックであり、神武66年次から神武93年次までの28年次(14年)である。このシンメトリックの特徴は、シンメトリックの間に空位2年(実1年)と綏靖の在位実5年を取り込んでいる。また、シンメトリック自体は、安寧在位実4年と懿徳在位実14年からなり、合計14年になる。
このシンメトリックは、神武、綏靖、安寧、懿徳の4天皇が関係する極めて重要なシンメトリックである。各天皇の在位と空位の合計年数は実34年となる。
筆者が、別途紹介している「神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」と一体で考なければならない。このシンメトリックは、上記34年のシンメトリックが示せない個々の天皇の在位を明らかにする点で、最重要なシンメトリックである。

綏靖、安寧、懿徳の各天皇の崩御年は同じ年

日本書記には、「年代や在位(数字)のからくり」や「シンメトリック」が存在する。これらを正しく捉えないと復元年代は得られない。
筆者は、神武天皇から懿徳天皇までの復元年代34年(記載上は185年間)を、「神武の時代」あるいは「神武一族の時代」と呼んでいる。
以下に述べる「神武一族に関わるからくり」は、「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」に基づくものである。

日本書記の記載を翻訳すると、神武天皇は1年次(元年)に誕生し、26年次に即位し、52年次で崩御したことになる。復元年代では、神武天皇はニニギ暦(西暦)162年(26歳)に即位し、175年(39歳)で崩御された。
ここでは、表題のからくりを中心に述べる。 
上記に神武天皇は、52年次で崩御したと述べたが、この神武の年代を伸ばしていくと、神武76年次となる。日本書記の記載では、76年次は神武の崩御の年である。神武77年次から79年次の3年間は、神武崩御後の跡目争いによる空位の期間である。
さらに、神武の年次を93年次まで延ばしていく。説明は後で述べるが、93年次は神武一族が滅びてしまう年である。

綏靖、安寧、懿徳の各天皇の復元年代
各天皇の復元年代は、「表12-1 」に記載したとおり、綏靖は181年(17歳)、安寧は崩御185年(19歳)、懿徳は195年(17歳)で崩御された。
最後の懿徳崩御195年を、神武の年次でいうと、前述した93年次である。
ということで、懿徳天皇を神武一族の最後の天皇であると仮定するなら、195年に一族の歴史が終わったことになる。
さて、これで終わりにしたら、神武一族の終焉を証明することにならない。

神武一族の終焉を証明
神武93年次、ニニギ暦(西暦)195年に何があったかよく見ると、次のようになっている。
神武93年次、195年に、第2代綏靖天皇が33歳で崩御する。33歳は、記載上の最終年次33年次を指す。
第3代安寧天皇は、57歳で崩御する。日本書記では、安寧天皇の崩御の年齢を、57歳と記載する。
第4代懿徳天皇は、34歳で崩御する。34歳は、記載上の最終年次34年次を指す。
3人の天皇が、たとえ記載上の数字であったとしても、同じ年に崩御するということは、編者が練りに練った「数字のからくり」であり、神武の時代が終わったことを示す。
懿徳崩御の後は、「孝一族の時代」に変わる。

上記の「からくり」だけでは、「神武一族の終焉を証明する」には物足りないと思われるなら、
別途、投稿済みの「神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」(カテゴリ「シンメトリック」)を読まれることを進める。

神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック

日本書紀の記載上のシンメトリックは、「シンメトリックの最高傑作を紹介する」で述べている。
筆者は、上記以外にも、記載上のシンメトリックを数多く発見した。日本書紀の編者は、シンメトリックを年代構築のための主要な手法として位置付け、多用した。年代解読の初期の段階で、シンメトリックが果たした役割は大きい。しかし、シンメトリックは、重要な手法であるが、復元年代の決め手になるかといえば難しい面がある。根拠が弱いためである。

シンメトリックは年代構築のための主要な手法

復元年代においてもシンメトリックが存在する。有効なシンメトリックかどうかは、読まれる方々の判断に任せるが、次のシンメトリックは復元年代の正しさを判断するために極めて有効であり、重要なシンメトリックと考える。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」に基づき、「神武天皇と懿徳天皇の34年のシンメトリック」を説明する。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、数人の天皇の年齢の動きを一表にまとめた「合成年次表」であり、2倍暦で書かれている。「合成年次表」の記載年次の欄は、神武の年次である。復元においては、西暦前660年が神武1年次(元年)であるが、復元では前660年が神武誕生年であり、前635年を即位年とするため、神武26年次から始まっている。
神武の在位欄は、前635年の即位年を元年(1年)としたときの神武の在位を示す。
なお、「合成年次表」が前635年の即位年から始まっているのは、復元の作業をし易くするための便宜的なものである。復元年代(西暦)の欄に記載した「162年」が「前635年、神武26年次」に対応する正しい復元年代である。

懿徳天皇の年代
懿徳については、「安寧11年、安寧40歳。このとき懿徳立太子16歳」と記述されている。
上記を基づき、合成年次表上を見ると、神武75年次のとき、安寧40歳、懿徳16歳である。
懿徳誕生年は西暦前601年、神武60年次にたどり着く。
懿徳崩御は、懿徳年次表の34年次が該当し、34歳である。合成年次表における懿徳崩御の年代は前568年、神武93年次であることが分かる。

シンメトリックの存在を確認
記載年次で見ると、神武側は神武26年次(復元在位1年)から59年次(復元在位34年)までの34年間、懿徳側は神武60年次(復元在位35年)から93年次(復元在位68年)までの34年間の、片側34年間のシンメトリックが成立している。
34年のシンメトリックの合計年数は64年であるが、上記の表は2倍暦であるから、実年に置き直すと34年となる。

神武一族の在位は、34年
34年は、神武即位から懿徳崩御までの神武一族4代の合計在位であり、実の年数である。即ち、神武一族が在位したときの復元年代は、西暦162年から195年までの34年間である。(次は、「孝」が名前の頭につく孝昭一族の時代になる。)
シンメトリックの威力を理解していただけたであろうか。

2009年10 月26日 (月)

古事記の懿徳天皇と孝昭天皇の御年の出所は、日本書紀である

古事記の懿徳天皇の御年45歳や孝昭天皇の御年93歳の数字がどのようにして得られたかについて、今まで分らなかった、
解読できたので、関係記事「古事記の暗号解読と復元年代」(カテゴリ「古事記の暗号」 2009/10/25改訂)に追加記載した。是非、お読みいただきたい。

神武暦93年次には、神武は59歳である
孝昭天皇の御年93歳は神武93年次を指す。日本書記には76年時までしか記載されていないから93年次など気付くはずもない。しかし神武の年次をそこまで延ばしたのは、神武一族(神武~懿徳)の年次を示すためである。懿徳崩御年が93年次になる。
また、神武の実年齢を伸ばしていくと93年次には59歳になっている。
59歳が懿徳の崩御年代の計算に用いる数字である。

では、懿徳に記載された御年45歳は何を意味するのか?
懿徳天皇の45歳は、綏靖天皇と同じである。45歳で計算すれば当然綏靖の崩御年になるだけで、既に分かっていることである。
この意味は、懿徳の計算においては、「綏靖に注意して計算しなさい」ということになる。
そこで登場するのが、シンメトリックである。神武一族全体に存在する14年のシンメトリックであり、ここでは綏靖の御年45に14年を加算すれば、懿徳の計算に必要な59が得られるということを示唆する。在位に直せば、安寧の在位4年と懿徳の在位10年を加算した数字が14になるということになる。
ここまで分れば、懿徳天皇の年代は、計算するだけである。222年が得られる。

さて、古事記の編者は、「神武93年次、神武59歳」を、どうして知っていたのか?
古事記の解釈に対し、新しい情報が得られた。答えを出すには、まだ早すぎる。もう少し情報を集めた方がよいと思われる。

2009年10 月25日 (日)

日本書記の謎を解明・・・最大の特徴は何か

日本書記は日本国の国史あるいは正史といわれる。日本書記は、他国の古代の歴史書と同様に年代を延長し、実際より822年ほど遡った年代、(西暦紀元前660)から始まる。しかし、他国の歴史書には見られない特徴を有している。

最大の特徴は、「正しい歴史」を内在していること
日本書記の最大の特徴は、「延長された年代の歴史」(記載年代)に対し、「正しい年代の歴史」(復元年代)を内在していることである。(以下、「正しい歴史」を「復元年代」と呼ぶ)
日本書記の編者は、復元年代が将来解読されることを前提としている。それは、編者の個人的な考えではなく、日本書紀編纂の基本方針であった。
だからこそ、安易に復元年代が解読できるような記載はできなかったのである。編者は知恵を総動員して、解読困難あるいは不能と思われるような日本書記を作り上げた。
同時に、編者は、編纂の基本方針に沿って、復元年代を得るための情報(暗号や「からくり」やキーワードなど)を記載の中にはめ込んだ。解読に必要な情報は、中途半端なものではない。それどころか、ほぼ完璧な情報である。
日本書記の解読が困難なことと解読のための完璧な情報の存在とは、矛盾しない。
日本書記は、編者の挑戦状なのである。編者は日本書記が容易に解読されるとは思っていない。安易に解読されることを防いだ自信作なのである。
しかし、将来の何時は分らないが、必ず解読されるであろう。その時には、正しく解読してほしい。それが編者の願いである

上記に述べたことは、仮説ではない。事実である。
日本書記の献上720年から1290年ほど経過したが、未だに解読できないでいることを根拠にあげても意味はないであろう。編者の目的の一つは達成していることになる。(冗談)
主張の根拠の一つは、2種類の紀元の異なる暦、即ち神武暦とニニギ暦が用いられていることである

神武暦とは
神武暦は、神武天皇即位紀元の日本の紀年法である。他国の紀年法もほとんどが尊敬する人物や神の誕生年や崩御年あるいは偉大な出来事(世界の創生、建国)を紀元とする。
日本書記の編者は神武天皇を実際より822年前に年代を遡らせて即位させた。それにより、編者の時代、例えば文武即位697年は、神武即位から数えて1357年になる。編者は日本という国の歴史が千数百年あることを示したかったのであるから、神武天皇の即位あるいは建国を紀元とする暦を考えたのは当然のことである。
重要なことは、千数百年(4桁の数字)となることを前提として神武暦が用いられたということである。

日本書記が、延長された年代だけを対象にしているならば、神武暦だけで十分である
しかし、解読を前提とした復元年代を包含したとすると、不都合が生じる。

神武暦のみを用いた場合の不都合
日本書記において、神武暦のみを用いた場合、記載年代と復元年代の変換が困難なことになる。
復元年代を神武暦で表したとすると、記載年代と復元年代の年代変換は、神武暦から神武暦へ変換することになるのだから、記載年代と復元年代の区別がつかなくなってしまう。
例を見れば、説明の意味が分るであろう。
「日本書記における神武天皇即位年は、神武暦元年であるが、復元年代は神武暦822年となる。」
「孝安天皇崩御年は、神武暦370年は、復元年代では神武暦908年となる。」
「崇神天皇崩御年は神武暦630年、復元年代は978年」
「仁徳天皇崩御年は1059年、実年代は1087年」

また年代変換は、単純には変換できない。記載年代と復元年代の間にある年代差が常に付きまとい、年代差自体も直線的な変化ではなく変則的であるから、年代変換は困難な状態に陥る。
それでも、各天皇の崩御年くらいを処理するなら可能であるが、[年代(数字)のからくり」などで示すように、記載内容にまで踏み込むと、極めて厄介なことになる。
これを解決するためには神武暦とは読み方の異なる別の暦(紀元の異なる暦)を必要とした。

二つ目の暦として、ニニギ暦を採用
ニニギ暦については、「記紀編者が用いた神武暦とニニギ暦」(カテゴリ「記紀の紀年論」)を見ていただきたい。
ニニギ暦は、日本書記に記載された歴史、即ち、神武立太子年神武暦前37年(西暦前697年)と文武立太子年神武暦697年(西暦697年)の中央年神武暦661年(西暦元年)を紀元とする。ニニギ降臨にちなみニニギ暦と命名している。
神武立太子年から文武立太子年の期間1394年は、ニニギ暦697年になる。年数でみれば、丁度半分の年数である。
神武即位年は、ニニギ暦162年であり、天武元年は672年、文武立太子年(文武即位年)は697年である。編者の時代を、仮に文武立太子年とすると、神武即位年は535年前になり、天武元年とすると、510年前になる。
編者は、次のような面白いことをしている。
文武立太子年神武暦1357年を4倍暦と見做すと、339年になる。文武立太子年をニニギ降臨のときからみると、500年になることを確認している。計算では成立しないが、編者の考え方としてとらえればよい。
編者は、ニニギ暦で正しい年代をみた場合に、(神武暦で見ても実態は変わらないが)より一層、正しさを実感したのであろう。

ニニギ暦は、年代の桁数の問題を解決する
易で最も重要なのは、三つの数字である。年代でいえば、3桁の数字である。
易では、爻(こう)は、易の卦を構成する基本記号。これらを3つ組み合わせた三爻により八卦ができ、占いがなされる。年代を占うとすれば、3桁の数字が必要になる。
日本書紀の前半の部分、例えば、応神天皇(崩御970年)以前は神武暦で表記すると3桁で示せる。それ以降は4桁の数字になる。
復元年代の場合、神武暦では、垂仁天皇(崩御997年)までが3桁で示せるが、それ以降は4桁になる。
編者、特に陰陽道の知識に基づき、年代や在位、年齢を判断できる編者にとって、数字は3桁であることが重要であった。
ニニギ暦による年代は、編者にとって扱い易かった。また、神武暦も4桁になってしまう神武暦も、必要な場合はニニギ暦に変換して用いることができた。

正しい年代による歴史(復元年代)は、延長された年代の歴史(記載年代)よりも先に考案された。
当たり前のことだが、「復元」の意味をとり違いないでほしい。正しい年代があるから復元なのである

2009年10 月23日 (金)

日本書記の暗号に書かれた「孝一族の時代(卑弥呼の時代)」

日本書記には、卑弥呼や壹与については、倭迹迹日百襲姫命の箸墓に関すること以外はほとんど記載されていない。また、卑弥呼や壹与の年代にあったとされる魏との交流については、全く記載がない。
しかし、孝昭、孝安、孝霊の各天皇の「年月日の暗号」を解読すると極めて多くのことが分る。
この時代に関しては、三国志に記載されている年代とその記事が、当時の日本に何があったかを書き残してくれている。日本書紀においても三国志に記載された年代がすべて読めるのである。
次の「表113 日本書記における魏国への朝貢の記録」を見ていただきたい。

表113 日本書記における魏国への朝貢の記録

「年月日の暗号」は、数字の扱いによっていろいろな結果が得られてしまう心配がある。信頼性が乏しいのである。表には、面白い解読方法や信頼性がありそうなものを、地の色を青色に着けておいた。
注)にも重要なことは書いておいたので、関係する記事を読んでいただきたい。

以前に、「日本書記の『神武の時代』を推理する」という記事を投稿したが、孝昭天皇から孝霊天皇までの『孝一族の時代(卑弥呼の時代)』も、まさに推理を必要とする
筆者は今、「表113 日本書記における魏国への朝貢の記録」を作成したばかりである。中途半端な説明をするより、しばらく考えたい。
これを読まれている方は、表を見さえすれば、日本書紀に何が隠されているかがすぐに分るであろう。

2009年10 月21日 (水)

日本書記の年代解読における「1年」の疑問

この記事の疑問は、すでに解決済みであるが、過去に「古事記の年代解読における『1年』の疑問」を投稿しているため、併せて読んでもらった方がよかろうということで、記述した。

この記事を読まれているあなたは、例えば、「日本書記における允恭天皇の崩御が453年である」を知っていることにしよう。(注、例として453年を選んだのには特別な理由はない)
どうして知ることができたのかかと聞けば、「日本書記における允恭天皇の崩御年が癸巳の年に当たるから、西暦に直すと453年である。」と答えるであろう。翌年が太歳甲午と記載されているから允恭天皇の崩御の年は確かに癸巳の年である。西暦と干支との関係は「西暦元年が辛酉の年」であるから、(干支の60年サイクルを別にすれば)そこから読み取れる。

記紀の編者は、3ケタの数字で書かれた年代を知っていたか?
それでは、記紀の編者は「允恭天皇の崩御は453年である」と知っていたのであろうか。
あなたならどう思われるか?
記紀の編者は、干支は60年サイクルで回るため、1400年の長い歴史を創作するには、ある意味で不便と思っていた。そのために神武暦を用いた。そのとき、記載年代は神武暦でよいが、復元年代は読みとり方を変えようという考えが生まれた。それがニニギ暦である。ニニギ暦は1400年の半分の700年で、復元年代を3ケタで表現でき、編者には都合がよかったのであろう。名称は、筆者が勝手につけた呼び名であるから、そういうことにしておいてもらいたい。

ニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)
神武暦は、ご存じのように、西暦でいえばBC660年を紀元とする。
編者らはニニギ暦を設定するにあたって、紀元も復元年代も重要であるから、いろいろと考えたであろう。例えば、ニニギ暦の紀元と神武天皇の復元年代が最良の年になるようにしなければならなかった。ニニギ降臨の年を元年とし、神武即位年が162年になるような年として、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)が選ばれた。(14世紀以降に西暦が成立したとき、西暦元年はニニギ暦元年と同じになった。)

編者らは、復元年代が将来解読されることを期待してか、いくつかの情報を取り込んだ。
一つは、「神武天皇15歳の立太子年神武暦紀元前37年(BC697年)と文武天皇15歳の立太子年神武暦1394年(西暦697年)のシンメトリック」である。
二つ目は、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」である。

質問の「允恭天皇の崩御が453年である」に関し、記紀の編者は、允恭天皇の崩御がニニギ暦(西暦)453年であることを知っていたのである。
記紀編者が知っていたという根拠を挙げれば、ニニギ暦(西暦)元年に当たる垂仁天皇30年次辛酉の年の記事の月日を見ると1月6日となっている。1月6日は暗号であり、ニニギ暦(西暦)61年に当たる垂仁90年次を指すのである。両方の記事が同年であることを意味する。
(1月6日は61年目を意味するなど野暮なことを言わないでほしい。例の選択がまずかったかも。次に、ニニギ暦(西暦)元年のことを述べたかったのである。)
また、697年のシンメトリックは、西暦で表せば見えてくるが、記紀編纂の時期には西暦は存在しない。記紀の編者は、ニニギ暦を持っていたので、「ニニギ暦697年のシンメトリック」を理解していたのである。

さて、この記事の本来の目的は、「ニニギ暦元年は、神武暦660年か、それとも神武暦661年か?」の疑問を、明らかにしたかったのである、選択を誤ると1年の誤差が生じるのである。

シンメトリックの中央年は、2年ある
神武天皇15歳の立太子年BC697年と文武天皇15歳の立太子年697年のシンメトリックの中央年は何時かというと、神武暦660年(BC1年)と神武暦661年(西暦1年)の真ん中にある。これではニニギ暦の元年を神武暦660年庚申の年か、神武暦661年辛酉の年か、どちらかに決めなければならない。選択を間違えると、復元年代が1年の狂ってしまう。
筆者はニニギ暦元年を神武暦661年辛酉の年(西暦1年)とした。
理由一つは、神武即位年が辛酉であるから、ニニギ降臨の年も辛酉であろうという推測による。
理由の二つ目は、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解読結果である。暗号解読の詳細は同名の記事を読んでいただきたい。
暗号解読結果は、『復元時の神武即位年は神武暦822年』である。ニニギ暦で説明しようとすると、この記事のテーマである1年の疑いに触れてしまう。「幸いなことに、神武暦と西暦とは認知されており、相互に年代の変換が可能である。神武暦822年は西暦162年である。」ニニギ暦元年を神武暦661年辛酉の年(西暦1年)としたので、神武暦822年はニニギ暦でも162年になる。

ニニギ暦の事例
もう一度、垂仁天皇の事例に戻る。神武暦661年(西暦1年)には前述した記事があるが、神武暦660年(BC1年)に相当する垂仁天皇29年次には記事の記載がないのである。やはり、ニニギ元年は1年辛酉の年ということになる。
表題の「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」とは、ニニギ元年がいずれの年かという疑問であり、上記の垂仁天皇30年次辛酉の年の記事(月日)によって疑問が解消したのである。
事例を述べようとしたが、例1)のような復元年代を指すのは多く見つかるが、既知の年代の数が少ないため、紹介しにくい。既知の例では、例2)百済武寧王誕生462年なら納得がいくのではなかろうか。
例1神武即位前期戊午年(前663)9月5日はニニギ暦(西暦)159年を指す。(数字の逆読み、神武即位162年の3年前)
例2)雄略5年4月、6月、7月は、百済武寧王誕生、ニニギ暦(西暦)462年(復元年代計算、5×4+5×6+5+7=62→462年)

2009年10 月18日 (日)

垂仁の年次表を解読する

神武天皇から崇神天皇までの在位解読方法は、記紀に記載された数字を利用して行ってきた。しかし垂仁天皇の解読は状況がかなり異なる。
年次に記事もあり、記事の内容も加味して判断がなされなければならない。さらに皇太子時代が年代に加わっているのではないかという見解もあることである。また、手元資料には4年違いの2種類のデータがあり、これは垂仁天皇の誕生年と立太子年の年令とに食い違いがあるため生じたようである。このような数値を扱うのは困難である。

そのため、年次表の記事を解読に用いることにする。といっても記事(事跡)の内容ではなく、干支を見ることにする。「干支からは答が得られない」と、その方面の学者が言っておられるのを見たことがある。本当に干支からは答が得られないのであろうか。
干支も数字と同じである。干支は日常の道具であり、遊び心が働いてもおかしくはない。編者は干支を年代(在位)延長のための道具として用いたのである。
筆者は、十干の順序を間違えることがある。十二支と違い十干はなんとなく馴染まないのである。しかし、編者は天文学者なのだから十干も十二支も十二分に精通している。編者が干支で遊ぶなら、時に応じて十干や十二支を使い分けながら行ったであろう。

十二支による合わせ込み
垂仁の場合は、垂仁1年を垂仁25年の辰に合せ、2年を26年の巳に合わせ、と続ける。
後ろの方の90年辛酉は60年遡った30年辛酉に合わせる。そうすると99年庚午は39年庚午に自動的に一致する。
垂仁25年即位、垂仁39年崩御となる。在位は15年(実年)である。
同様の手法で求めた景行天皇の在位15年、成務天皇の在位7年を合計すると37年になり、古事記の数値とぴったり一致するのである。

十干による合わせ込み
上記の年代に合わせて記事を読んでみると、矛盾が見られる。上記の年代解読の場合、垂仁1年と25年を合わせたのは十二支の方であった。しかし、十干の方を基準に年代を合わせることもできる。垂仁3年甲午と垂仁23年甲寅であり、23年以降の年を20年間移動させればよい。垂仁の解読の基本は「十干」である。添付の「表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」で確認していただきたい。
「表21-2・・・」は、面白いことに、B系列の年次の数字は垂仁の実の年齢を表していることが分る。
なお、A系列は、景行の実の年齢を表しているが、垂仁との関係において、1年の狂いが生じていることが分る。これについては別途述べる。

「年代(数字)のからくり」は、重要な復元のための情報を提供する
編者が行った遊びを説明する。「年月日」をみると、関係する年が読み取れる。
例えば、垂仁7年7月7日、垂仁27年8月7日と垂仁87年2月7(25)日の数字に「からくり」があることに気付かれるであろう。7日は実7年次を示す。そこまでしなくても、60年差で読み取りができるのであるが、つい編者は「数字遊び」をしたくなったのである。
注1)垂仁7年次は、上記のとおり3年次分が同年である。2年分が同年であるケースはよく見られるが、3年は珍しい。編者は、解読をするときに間違いのないように配慮してくれているということに気付かなければならない。(これは、冗談で言っているのではない。)

シンメトリックの基準年であるニニギ暦元年は西暦元年、辛酉の年である
西暦1年(実際に編者らは、ニニギ暦1年と考えた)30年6月1日は、61年と読む。ニニギ暦(西暦)1年とニニギ暦(西暦)61年は同年であることを示唆した。年次表上では垂仁30年次辛酉の年と90年次辛酉の年が同年であることになる。重要なのは、ニニギ暦が実際に用いられていたことを証明することである。勿論、筆者の用いた表にはニニギ暦(西暦)に換算した年代が挿入されているが、日本書紀に記載されてはいない。しかし、この数字遊びのような6月1日という数字が、ニニギ暦元年に記載されたかを考えれば納得いくはずである。
注2)697年のシンメトリックの中央年(基準年)は、西暦で示せば、BC1年と元年(1年)である。実際にどちらの年を基準年にしたか、上記の例が答えを示している。「シンメトリックの基準年は西暦元年、辛酉の年である。」BC1年は記事なしの年として扱っており、無視してよい。また、30年および90年次と同年のはずの10年次には記事がないが、10年次は辛丑の年であるから関係しないのである。

田道間守が非時の香菓を持ち帰るのに、10年を要した
記載90年次、実10年次、垂仁は、田道間守を常世国に使わせて非時の香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせる。
垂仁崩御の明年即ち翌年の71年次、(実20年次に相当する)に、田道間守が非時の香菓を持ち帰った。どうやら10年を要したようである。

垂仁崩御年337年、39歳、在位19年
上記の内容と「個別年次表」「合成年次表」などの他の検討結果を含めた垂仁の解読結果を述べておく。
垂仁即位は、319年、崩御337年で、在位19年。即位の年齢は21歳、崩御は39歳である。

「表21-1 垂仁の年次表の解読」および「21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」を見てください。

表21-1 垂仁の年次表の解読

表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)

「合成年次表」に関しては、「日本書紀の修正復元モデル(垂仁~仁徳の復元年代)」に添付した「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細 」を見ていただきたい。
なお、「住吉大社神代記」に記載された垂仁崩年干支「辛未、53歳」に関しては別途「住吉大社神代記の垂仁崩年干支」に述べたので、参照してください。