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2009年10 月18日 (日)

垂仁の年次表を解読する

神武天皇から崇神天皇までの在位解読方法は、記紀に記載された数字を利用して行ってきた。しかし垂仁天皇の解読は状況がかなり異なる。
年次に記事もあり、記事の内容も加味して判断がなされなければならない。さらに皇太子時代が年代に加わっているのではないかという見解もあることである。また、手元資料には4年違いの2種類のデータがあり、これは垂仁天皇の誕生年と立太子年の年令とに食い違いがあるため生じたようである。このような数値を扱うのは困難である。

そのため、年次表の記事を解読に用いることにする。といっても記事(事跡)の内容ではなく、干支を見ることにする。「干支からは答が得られない」と、その方面の学者が言っておられるのを見たことがある。本当に干支からは答が得られないのであろうか。
干支も数字と同じである。干支は日常の道具であり、遊び心が働いてもおかしくはない。編者は干支を年代(在位)延長のための道具として用いたのである。
筆者は、十干の順序を間違えることがある。十二支と違い十干はなんとなく馴染まないのである。しかし、編者は天文学者なのだから十干も十二支も十二分に精通している。編者が干支で遊ぶなら、時に応じて十干や十二支を使い分けながら行ったであろう。

十二支による合わせ込み
垂仁の場合は、垂仁1年を垂仁25年の辰に合せ、2年を26年の巳に合わせ、と続ける。
後ろの方の90年辛酉は60年遡った30年辛酉に合わせる。そうすると99年庚午は39年庚午に自動的に一致する。
垂仁25年即位、垂仁39年崩御となる。在位は15年(実年)である。
同様の手法で求めた景行天皇の在位15年、成務天皇の在位7年を合計すると37年になり、古事記の数値とぴったり一致するのである。

十干による合わせ込み
上記の年代に合わせて記事を読んでみると、矛盾が見られる。上記の年代解読の場合、垂仁1年と25年を合わせたのは十二支の方であった。しかし、十干の方を基準に年代を合わせることもできる。垂仁3年甲午と垂仁23年甲寅であり、23年以降の年を20年間移動させればよい。垂仁の解読の基本は「十干」である。添付の「表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」で確認していただきたい。
「表21-2・・・」は、面白いことに、B系列の年次の数字は垂仁の実の年齢を表していることが分る。
なお、A系列は、景行の実の年齢を表しているが、垂仁との関係において、1年の狂いが生じていることが分る。これについては別途述べる。

「年代(数字)のからくり」は、重要な復元のための情報を提供する
編者が行った遊びを説明する。「年月日」をみると、関係する年が読み取れる。
例えば、垂仁7年7月7日、垂仁27年8月7日と垂仁87年2月7(25)日の数字に「からくり」があることに気付かれるであろう。7日は実7年次を示す。そこまでしなくても、60年差で読み取りができるのであるが、つい編者は「数字遊び」をしたくなったのである。
注1)垂仁7年次は、上記のとおり3年次分が同年である。2年分が同年であるケースはよく見られるが、3年は珍しい。編者は、解読をするときに間違いのないように配慮してくれているということに気付かなければならない。(これは、冗談で言っているのではない。)

シンメトリックの基準年であるニニギ暦元年は西暦元年、辛酉の年である
西暦1年(実際に編者らは、ニニギ暦1年と考えた)30年6月1日は、61年と読む。ニニギ暦(西暦)1年とニニギ暦(西暦)61年は同年であることを示唆した。年次表上では垂仁30年次辛酉の年と90年次辛酉の年が同年であることになる。重要なのは、ニニギ暦が実際に用いられていたことを証明することである。勿論、筆者の用いた表にはニニギ暦(西暦)に換算した年代が挿入されているが、日本書紀に記載されてはいない。しかし、この数字遊びのような6月1日という数字が、ニニギ暦元年に記載されたかを考えれば納得いくはずである。
注2)697年のシンメトリックの中央年(基準年)は、西暦で示せば、BC1年と元年(1年)である。実際にどちらの年を基準年にしたか、上記の例が答えを示している。「シンメトリックの基準年は西暦元年、辛酉の年である。」BC1年は記事なしの年として扱っており、無視してよい。また、30年および90年次と同年のはずの10年次には記事がないが、10年次は辛丑の年であるから関係しないのである。

田道間守が非時の香菓を持ち帰るのに、10年を要した
記載90年次、実10年次、垂仁は、田道間守を常世国に使わせて非時の香菓(ときじくのかくのみ)を求めさせる。
垂仁崩御の明年即ち翌年の71年次、(実20年次に相当する)に、田道間守が非時の香菓を持ち帰った。どうやら10年を要したようである。

垂仁崩御年337年、39歳、在位19年
上記の内容と「個別年次表」「合成年次表」などの他の検討結果を含めた垂仁の解読結果を述べておく。
垂仁即位は、319年、崩御337年で、在位19年。即位の年齢は21歳、崩御は39歳である。

「表21-1 垂仁の年次表の解読」および「21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)」を見てください。

表21-1 垂仁の年次表の解読

表21-2 垂仁の年次表の解読(年次の相互の関係)

「合成年次表」に関しては、「日本書紀の修正復元モデル(垂仁~仁徳の復元年代)」に添付した「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細 」を見ていただきたい。
なお、「住吉大社神代記」に記載された垂仁崩年干支「辛未、53歳」に関しては別途「住吉大社神代記の垂仁崩年干支」に述べたので、参照してください。

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