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2009年10 月21日 (水)

日本書記の年代解読における「1年」の疑問

この記事の疑問は、すでに解決済みであるが、過去に「古事記の年代解読における『1年』の疑問」を投稿しているため、併せて読んでもらった方がよかろうということで、記述した。

この記事を読まれているあなたは、例えば、「日本書記における允恭天皇の崩御が453年である」を知っていることにしよう。(注、例として453年を選んだのには特別な理由はない)
どうして知ることができたのかかと聞けば、「日本書記における允恭天皇の崩御年が癸巳の年に当たるから、西暦に直すと453年である。」と答えるであろう。翌年が太歳甲午と記載されているから允恭天皇の崩御の年は確かに癸巳の年である。西暦と干支との関係は「西暦元年が辛酉の年」であるから、(干支の60年サイクルを別にすれば)そこから読み取れる。

記紀の編者は、3ケタの数字で書かれた年代を知っていたか?
それでは、記紀の編者は「允恭天皇の崩御は453年である」と知っていたのであろうか。
あなたならどう思われるか?
記紀の編者は、干支は60年サイクルで回るため、1400年の長い歴史を創作するには、ある意味で不便と思っていた。そのために神武暦を用いた。そのとき、記載年代は神武暦でよいが、復元年代は読みとり方を変えようという考えが生まれた。それがニニギ暦である。ニニギ暦は1400年の半分の700年で、復元年代を3ケタで表現でき、編者には都合がよかったのであろう。名称は、筆者が勝手につけた呼び名であるから、そういうことにしておいてもらいたい。

ニニギ暦の紀元は、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)
神武暦は、ご存じのように、西暦でいえばBC660年を紀元とする。
編者らはニニギ暦を設定するにあたって、紀元も復元年代も重要であるから、いろいろと考えたであろう。例えば、ニニギ暦の紀元と神武天皇の復元年代が最良の年になるようにしなければならなかった。ニニギ降臨の年を元年とし、神武即位年が162年になるような年として、神武暦661年辛酉の年(西暦元年)が選ばれた。(14世紀以降に西暦が成立したとき、西暦元年はニニギ暦元年と同じになった。)

編者らは、復元年代が将来解読されることを期待してか、いくつかの情報を取り込んだ。
一つは、「神武天皇15歳の立太子年神武暦紀元前37年(BC697年)と文武天皇15歳の立太子年神武暦1394年(西暦697年)のシンメトリック」である。
二つ目は、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」である。

質問の「允恭天皇の崩御が453年である」に関し、記紀の編者は、允恭天皇の崩御がニニギ暦(西暦)453年であることを知っていたのである。
記紀編者が知っていたという根拠を挙げれば、ニニギ暦(西暦)元年に当たる垂仁天皇30年次辛酉の年の記事の月日を見ると1月6日となっている。1月6日は暗号であり、ニニギ暦(西暦)61年に当たる垂仁90年次を指すのである。両方の記事が同年であることを意味する。
(1月6日は61年目を意味するなど野暮なことを言わないでほしい。例の選択がまずかったかも。次に、ニニギ暦(西暦)元年のことを述べたかったのである。)
また、697年のシンメトリックは、西暦で表せば見えてくるが、記紀編纂の時期には西暦は存在しない。記紀の編者は、ニニギ暦を持っていたので、「ニニギ暦697年のシンメトリック」を理解していたのである。

さて、この記事の本来の目的は、「ニニギ暦元年は、神武暦660年か、それとも神武暦661年か?」の疑問を、明らかにしたかったのである、選択を誤ると1年の誤差が生じるのである。

シンメトリックの中央年は、2年ある
神武天皇15歳の立太子年BC697年と文武天皇15歳の立太子年697年のシンメトリックの中央年は何時かというと、神武暦660年(BC1年)と神武暦661年(西暦1年)の真ん中にある。これではニニギ暦の元年を神武暦660年庚申の年か、神武暦661年辛酉の年か、どちらかに決めなければならない。選択を間違えると、復元年代が1年の狂ってしまう。
筆者はニニギ暦元年を神武暦661年辛酉の年(西暦1年)とした。
理由一つは、神武即位年が辛酉であるから、ニニギ降臨の年も辛酉であろうという推測による。
理由の二つ目は、「ニニギ降臨の暗号179万2470余歳」の解読結果である。暗号解読の詳細は同名の記事を読んでいただきたい。
暗号解読結果は、『復元時の神武即位年は神武暦822年』である。ニニギ暦で説明しようとすると、この記事のテーマである1年の疑いに触れてしまう。「幸いなことに、神武暦と西暦とは認知されており、相互に年代の変換が可能である。神武暦822年は西暦162年である。」ニニギ暦元年を神武暦661年辛酉の年(西暦1年)としたので、神武暦822年はニニギ暦でも162年になる。

ニニギ暦の事例
もう一度、垂仁天皇の事例に戻る。神武暦661年(西暦1年)には前述した記事があるが、神武暦660年(BC1年)に相当する垂仁天皇29年次には記事の記載がないのである。やはり、ニニギ元年は1年辛酉の年ということになる。
表題の「日本書記の年代解読における『1年』の疑問」とは、ニニギ元年がいずれの年かという疑問であり、上記の垂仁天皇30年次辛酉の年の記事(月日)によって疑問が解消したのである。
事例を述べようとしたが、例1)のような復元年代を指すのは多く見つかるが、既知の年代の数が少ないため、紹介しにくい。既知の例では、例2)百済武寧王誕生462年なら納得がいくのではなかろうか。
例1神武即位前期戊午年(前663)9月5日はニニギ暦(西暦)159年を指す。(数字の逆読み、神武即位162年の3年前)
例2)雄略5年4月、6月、7月は、百済武寧王誕生、ニニギ暦(西暦)462年(復元年代計算、5×4+5×6+5+7=62→462年)

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