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2009年8 月12日 (水)

神武天皇在位14年の根拠(まとめ)

神武の在位が、14年か19年か、長い間争われている。両方に何らかの根拠があるからだろう。ここが定まらないと、綏靖、安寧などの年代も決められない。
筆者も14年と19年の間を行ったりきたりしてきたが、現在では「神武在位14年」の考えに落ち着いた。
神武の即位年162年や、崇神崩御年318年は変わらないのだから、どうでも良いのかもしれない。筆者の場合、最近は年代の復元よりも記紀の年代の構成についての方に関心が移ってきていて、結構楽しみながら解読を進めているのである。

本題の「神武在位14年の根拠」についてであるが、次の点に問題があり、在位19年を否定できないでいた。
日本書紀の各天皇の解読結果からは、
・天皇の崩御の最終年次が崩御年である。
・在位もこの崩御年に絡む。(主要な天皇において、在位は、最終年次年数の1/4である)
神武崩御の最終年次は76年であり、上記の考えに従い、仮に76年が四倍暦とすると19年が在位になる。
神武こそ主要な天皇の頂点にいるのだから、上記の考えに対し、納得できる根拠がなければ在位14年は成立し難いのである。
筆者は、この答を得ることが出来たので説明する。
「日本書紀には何人の神武がいるか」において述べたように、三人あるいは四人の神武が読み取れる。いろいろな要素を神武に託したのであろう。それに比べ、他の天皇は二人の人物しか読み取れない。一人は即位までの年齢分を前天皇の記載に組み入れた、延長された人物であり、宝算の崩御年齢を有する。
特に、神武の宝算は、神武即位前の51歳と即位後の76歳を加算し、127年としたものであり、100歳を超える宝算は天皇の偉大さを示すには手頃な数字だったのだろう。それ以上の意味はない。
二人目の神武は、即位元年、1年次を誕生とし、最終年次年数が崩御の年齢となる人物である。これについて検討をしていく。

1)合成年次表の作成
筆者は、日本書記の復元年代を求めるため、さまざまな角度から解読をしてきた。
「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」(合成年次表)を診ていただけば分かるはずである。
「合成年次表」は、それらをすべて取り込み、集大成したものである。ポイントを述べれば次のようになる。
①神武即位年は、即ち神武元年、BC660年は神武の誕生年である。
神武即位52歳を2倍暦と見做し、実26歳で即位したとする。従って、仮の復元年代(第1次復元年代)として、神武26年次、BC635年を神武即位年とする。
②復元年代は、神武即位年を西暦162年としている。
根拠は、神武紀に記載されたニニギ降臨の暗号「179万2470余歳」の解読結果による。
③チェック事項の拾い上げ
年代(年次)および年齢に関係する記載内容、例えば、誕生、即位、崩御の年代および年齢を拾い上げた。
年齢は2倍暦で記載されていることを前提として、実年齢を加えた。
また、年代(年次)と年齢に基づき、天皇間の年齢関係を重視し、年次表の正しさを確認するためのチェック事項とした。(例、神武42-14綏靖立太子)

2)神武崩御年を探る
神武紀および綏靖紀には、綏靖立太子の年代と年齢に関する記事がある。上記の例に記した[神武42-14綏靖立太子]である。例に示すように、年代、年次、歳などは記載していない。例の場合、[神武42-14綏靖立太子]の正解は、年次表によれば、記載神武42年次(神武の記載年齢42歳、実年齢34歳、復元年代170年)のとき、綏靖が記載年齢14歳(実年齢7歳)であることを示す。
年次表をたどれば、綏靖が実14歳に達したとき即位したことになる。「立太子」は「即位」に読み替える必要がある。立太子の記載年齢14歳は実の数字であることが分る。
神武崩御年に関しては、綏靖の即位年代が神武56年次、記載年齢56歳、実年齢41歳、西暦177年であり、在位31年(実16年)であることから、それより前であることが分る。これによって、神武の実在位19年はあり得ないことになる。
記載内容から、神武崩御の後に記載3年(実1.5年)空位があること、神武宝算127年の百減は27であることから、神武崩御は神武52年が在位27年に相当することが分かる。
年次表から、52年次と53年次が同年であり、神武実年齢39歳、実在位14年と判断される。

●綏靖立太子の記載年齢14歳が正しく、立太子を即位と読み替えてよい。
 合成年次表によると、即位157年の前年156年に14歳となっている。
 綏靖前紀の記載でも、即位の前年に兄神八井耳命が神渟名川耳尊(綏靖)に天皇位を譲ると書かれていて、解読結果と一致する。

3)シンメトリックによる在位の確認
①神武~懿徳の34年のシンメトリック
「神武の時代」とは、狭い意味では神武と綏靖である。日本書紀の年代構成上のことであるが、神武の崩御年(神武79年次)と綏靖の崩御年とは同年である。綏靖は神武の分身のようである。
「神武の時代」をもう少し広い意味で捉えると、懿徳までである。懿徳崩御34歳(34年)は懿徳の誕生年を基準としたシンメトリックからなる。
シンメトリックの一方の先端は神武即位元年、BC635年であり、基準年はBC602年とBC601年の間にある。シンメトリックの他端はBC568年である。基準年に対し34年[635-602+1=34と601-568+1=34]のシンメトリックである。
また、復元前の数字であり、2倍暦である。従って、34年のシンメトリックは、合計68年であり、実年に復元すると34年となる。復元では神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示している。

●別角度からの補足
神武即位年のBC635年は、復元年代に置き換えれば西暦162年である。
懿徳崩御年のBC568年は、懿徳34年次のBC477年と同じである。懿徳崩御の復元年代は神武から懿徳までの合計在位34年から求めた西暦195年となる。[162+34-1=195]
なお、懿徳崩御の翌年の空位年はBC476年で、神武暦に直すと185年になり、「37の5倍」となる。年代の区切りであることを示している。
なお、上記のシンメトリックからは、神武即位から懿徳崩御までの合計在位が34年であることを示すが、直接的に神武在位14であることを示してはくれない。

②神武の14年のシンメトリック
神武は26年次26歳で即位し、神武52年次39歳で崩御された。14年の在位である。[52/2-26/2+1=14、または39-26+1=14]
他方、53年次39歳から79年次52歳までの神武崩御後の仮想の在位計算は14年となる。[79/2-53/2+1=14、または52-39+1=14]
これは、神武復元在位と仮想の延長在位のシンメトリックである。神武の復元在位は、14年となる。

4)神武太歳干支付与年を基準とした4倍(4倍暦)の計算
一般に太歳干支は、各天皇の即位年に付与されている。しかし神武の場合には、太歳干支は即位年には付与されていない。東征出発の年に付与されている。他に見られない特異な太歳干支の付与の仕方である。この東征出発の年から崩御年までの期間は83年(BC667年からBC585年)であり、83年の1/4は20.75年(21年)である。
くどいようだが、21年は神武の在位ではなく、神武が東征に出発した年から崩御の年までの期間である。
ところが、東征の期間7年間は実年(記載の1年は実際の1年)で書かれているから、神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。

●上記の説明は、分り易く神武の在位76年として話を進めた。
 実際には、合成年次表の解読から77年と捉えた方が正しい。77年には空位3年のうち1年目が該当する。神武76年次と空位1年目は2二倍暦で同年である。本来なら神武77年に当たるが、76年(春年)に崩御したと記載したため神武77年次(秋年)は表向き存在しなくなり、空位年とされた。本当の空位年は2年目および3年目の2年間が、2倍暦で書かれていて、実1年の空位年になる。

●上記の文面を正しく表現し直すと、次のようになる。
 「東征出発の年から崩御年までの期間は84年(BC667年からBC584年)であり、84年の1/4は21年である。神武即位後の在位は、21年から7年を引いた14年となる。
 従って、小数点以下の問題は解消する。

●神武天皇の年次表に関しては「1年が4倍の4年になっている」部分と「1年が1年のまま」の部分が合成されている。言い換えれば、神武即位後の76年間は4倍ではなく、約5.53倍になっている。[76÷13.75=5.53] 77年間とすれば、5.5倍である。[76÷13.75=5.53] 

なお、この倍率には特別な意味はない。

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