日本書記は、「暗号」と「からくり」を含む「謎解きの書物」
古代を復元するには、編年体で書かれた日本書記を解読しなければならない。日本書記は独特の手法を用いて年代の構成と年代の延長を行っている。それらの主要な手法について以下に述べる。
「ニニギ降臨の暗号」
筆者は、日本書記は暗号を用いていると述べているが、主要な暗号は「ニニギ降臨の暗号」である。この暗号が関わるのは、神武の年代に限られる。しかし、歴史のスタートの部分であるから、暗号の存在は重いものがある。他にも、「年月日などの暗号」がある。
「年代(数字)のからくり」
日本書記には、全編に渡って多くの「年代(数字)のからくり」が存在する。
「からくり(絡繰り)」とは、計略、企み(たくらみ)、仕掛けなどの意味である。「企み(たくらみ)」と捉える方もおられるかもしれないが、筆者は、年代の大幅延長に伴うアイディアであり、豊かな発想の表れと捉える。
「シンメトリック」が多用されているが、「年代(数字)のからくり」の一つと考える。「37年の倍数のシンメトリック」および「697年のシンメトリック」はその典型であり、下記にその意義などを説明する。
孝元天皇、開化天皇の「前天皇を陵に葬る年次」や允恭天皇の「前天皇の濱の年次」は「からくり」と見做すほどのものではないが年代を狂わせている。年代の延長も実年でみれば数年ずつであるが合計すれば数十年になる。筆者は、これらを年代構成上の一つの手法で、年次表を誕生から記載する手法に対し、即位の数年前の年代から記載する手法である。
この手法には、垂仁天皇の皇太子時代の記載、雄略天皇の安康時代の記載なども含まれる。
「37年の倍数のシンメトリック」の意義
「37年の倍数のシンメトリック」の基準年は、天武元年672年であるが、天武2年に太歳干支が付与されている理由と関係づけて考えればよい。本来なら天武2年を元年にすべきところであるが、672年を基準年として設定するためになされたことである。「37年の37倍の1369年前(前697年)」を神武立太子年に設定し、また、「37年の36倍の1332年(前660年)」を神武即位年としたのは明らかである。
注)筆者の古い記事では672年を天智天皇崩御年と記しているが誤りであり、天武天皇元年が正しい。基準年672年(壬申の年)の重要性をもたせるために天武天皇元年としたのである。
なお、上記の説明は記載年代に関してのことであるが、復元年代の構成上の区切りと関係が見られるようである。この点については、今後の課題である。
「697年のシンメトリック」の意義
復元年代を西暦で読むことは、本来であればあり得ないことである。
記紀の編者は神武暦と共に筆者命名のニニギ暦を用いた。ニニギ暦は「697年のシンメトリック」から導き出される。文武天皇即位年(珂瑠皇子立太子年)神武暦1357年(ニニギ暦697年)と神武立太子年神武暦前37年(ニニギ暦前697年)のシンメトリックの中央年である辛酉の年神武暦661年をニニギ暦元年と設定し、ニニギ暦を復元年代に用いた。ちなみに、ニニギ暦137年は復元年代の神武誕生年であり、ニニギ暦162年は神武即位年である。ところが偶然にもニニギ暦元年と同じ紀元をもつ西暦が14世紀になって考案された。記紀編者がニニギ暦を8世紀に考案したのに対し、6~700年後のことである。
ニニギ暦と西暦は紀元が同じであり、復元年代を西暦に置き直して表示しても、結果としては誤りではないのである。
「個々の数字の吉・凶」
さらに陰陽道などの宗教的な面から来る「個々の数字の吉・凶」が考慮されている。「九九の九の段」が用いられているが、「九九=81」は最も重要な数字であり、神武即位年162年(81の2倍)と応神即位年381年に用いられている。
「九九の九の段」が用いられている天皇には、神武、応神以外では、崇神、仁徳、雄略、天武の各有力天皇がいる。
「正しい在位の記載」
以上に挙げた「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」、その他のアイディアが組み合わさって、日本書紀の年代は創作されている。しかし、それらをより有効に機能させるため、仲哀天皇と安康天皇については、年代こそ異なるが、「編者が想定していた正しい在位」が記載されている。ただし、仲哀天皇に関しては、日本書記の編者は在位9年、古事記の編者は在位7年としている。「年代(数字)のからくり」は前後の天皇に存在するため、復元を考慮して、さらに年代や在位を複雑にすることを避けたと考える。また、「九九の九の段」の「八九=72(372年)」の扱いに関わる問題でもあり、記紀の編者によって成務と仲哀天皇の位置付けに対する見解が割れたと考えられる。
日本書紀の復元年代を明らかにする場合に、「暗号」や「年代(数字)のからくり」や「個々の数字の吉・凶」などの究明抜きでは、表面的な解読しかできず、正しい解読はできない。
年代構成や年代延長に関わる各種手法を、「表111 日本書記の年代構成上の各種手法」に挙げた。各種手法の分類や名称などはまだ整理できていないが、いろいろな手法が用いられていることを知ってもらいたいためである。なお、主要な手法はすでに記事や年次表上に明らかにしているので読んでいただきたい。
日本書記の年代解読ができなかった理由
日本書記の編者が考え、取り込んだアイディアは豊富である。しかし、ほとんどのアイディアは、既に年代解読に挑戦された方々によって明らかにされている。それが正しい解読に結びつかないのは理由がある。
一つ目は、暗号の解読を無視したことである。「ニニギ降臨の暗号」は極めて単純な暗号である。多少の年代に関する知識、例えば『神武暦』などを知っていれば解読できる。それを、「国史に暗号など用いるはずがない」とか、「語呂合わせのような解読結果は認められない」、といった解釈をするようだが、「編者の時代と編者が考えたこと」を理解できていない。
二つ目は、アイディアを一律に適用させようとするためである。明らかにされたアイディアは一部に用いられただけで終わる。次には別のアイディアが登場する。編者は「一律」をバカ者、脳なしと考えた。発見された日本書紀記載における多くのルールを、ある批評家が、ルールの数が多すぎる、一つのルールの適用範囲が狭すぎると評したが、このような批評家に日本書記の解釈を任せられないということである。
三つ目に欠けているのは、多くのアイディアが「年代(数字)のからくり」や「数字の吉・凶」などによって纏め上げられているのに気付かないことである。編者が行った年代構成を明らかにしない限り、何も見えてこない。筆者の作成した「合成年次表」を見れば一目瞭然である。大袈裟な表現かもしれないが、絵になり、芸術的である。そのように見えない個所(年代)はまだ答えになっていないのかもしれない、と思いたくなる。
復元年代の構成から見える編者の思いや考え(思想)
日本武尊と仲哀天皇の年代の関係は、編者の思いや、考え(「思想」といってもよさそう)が垣間見える。
神功皇后の数字は異なる要素を巧みに取り込み、きめ細かく設定している。
編者が作り上げた年代構成の内容には編者の思い、考えが込められている。筆者は文才がないからうまく表現できない。日本武尊や神功皇后に関する年次表をじっくりと見ていただければ、編者の思いや考えが分るはずである。
日本書記の編者の良心
日本書記は、以上に述べたとおり、「暗号」、「からくり」、「個々の数字の吉・凶」を含む「謎解きの書物」である。
「重要なことは、編者は、解けるだけの情報を記載の中に潜ませていることである。他国の古代の歴史書においても記載年代が延長された例が見られるが、正しい年代が用意された歴史書があるかどうか知らない。この辺りが、日本書記の特異な点であり、編者の良心というものであろうか。日本書記および編者に関するこの事実を見失ってはならないし、日本書記の評価を誤ってはならない。」
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