Google
 

« 日本武尊(倭建命)と仲哀天皇の年令を探る | メイン | 応神天皇に抹殺された仲哀天皇一族 »

2009年7 月13日 (月)

神功皇后の年代に関わる在位はゼロである

神功皇后の扱いについて、日本書紀は一巻を神功に充てている。特異なのは神功摂政元年と39年と崩御の69年に太歳干支が付けられていることである。また、神功については100歳(一百歳)で亡くなったこと以外に神功自身の年代に関する記載はない。
古事記は仲哀の一部として記載している。古事記が神功を無視しているわけではない。それどころか仲哀の記事の大半は神功と応神の誕生と太子に関する記事である。
現在、筆者は神功が存在しないという観点で古事記および日本書紀の復元年代を引き出した。その根拠は、「百増、百減の法則」に従えば、神功の一百歳から百を減じると、零または一しか残らないからである。零だとすれば神功の年代は無かった。一なら1年だけ摂政の位に就いたことになる。応神の即位の年代を181年と見ており、そのときの応神の年齢は19歳であるから摂政は不要であるし、応神紀には摂政の記事は存在しないため、1年の摂政もあり得ないとした。

太歳干支の異常さ
日本書紀における太歳の使い方も異常である。太歳は一般に即位年にのみ付されるが、神功においては摂政元年と中間の39年次と69年次の崩御年の3か所に太歳が付されている。太歳付与の解釈は次のとおりである。
太歳が付与された元年から69年次の崩御年まで、すなわち神功の69年のすべての年次が無いものであることを示している。
もう一つの太歳付与年である39年次は、記載年代が239年であり、魏志倭人伝の記事が記載されている。「魏志倭人伝を引用した記事の年代は、そのまま直読しなさい]という意味で、239年が最初の記事になるための注意を促す印であると考える。
注)その他の記事の年代は、記載年代に162年または120年を加算する。「表25 神功の年次表の解読(外交史を含む)」に詳細を述べているので見ていただきたい。

神功皇后の存在についての疑問

当初、筆者は神功の存在について疑うこともなく、362年の新羅征討の根拠を示された学者の記事を評価した。しかし、神功の存在に疑問を持つと、摂政在位69年自体と362年の出来事も無理な解釈であると疑問を持つようになった。それらの疑問について述べてみる。

神功皇后はどの天皇の摂政か
一つは、神功には摂政という役を与えられている。決して天皇になったのではないし、卑弥呼のように女王になったのでもない。「摂政は天皇と同じ意味である]というような記事にお目にかかったことがあるが、それなら他の多くの女性天皇と同様に天皇とすればよい。神功紀として扱っているのは日本書紀で、古事記は仲哀紀の一部にすぎない。天皇である筈がない。
摂政というからには天皇が存在しなければならない。日本書紀の記事によれば、摂政になったとされる神功摂政元年の363年は仲哀が崩御した翌年であり、応神が生まれた年であって、天皇は存在しない。応神は神功3年の365年に太子となる。応神が胎内天皇と呼ばれたとしても、3歳になって立太子を行っていて、まだ天皇位には就いていない。胎内天皇なんて言葉に惑わされてはいけない。
従って、日本書記の摂政の記載は、天皇不在の架空の話に過ぎないのである。

天皇不在18年間の摂政はあり得ない
二つ目は、神功元年の363年に仲哀天皇の皇子である香坂王、忍熊王と争い、勝利して、摂政となったとされる。それならば、誕生したばかりの応神の摂政となるはずであるが、上記に記したように応神はまだ天皇にはなっていない。年代がずれていると考える必要がある。
復元年代では、363年は成務天皇の時代が始まったばかりの年代である。(成務在位359年~371年)
380年に仲哀が崩御した(殺害された)とき、応神も成長し18歳になっていた。仲哀崩御の翌年に応神は仲哀の皇子を殺害し、天皇になるのである。
前に述べたように、応神3歳までどころか18歳になるまで天皇不在のまま摂政がいるという矛盾した歴史が書かれていることになる。要するに神功の年代に関わる在位はゼロである。

新羅征討あるいは三韓征伐は、30年遡っている
三つ目は、神功皇后による362年の新羅征討あるいは三韓征伐を誇張するために記載された。広開土王碑に記録された新羅、高句麗との戦いは392年の出来事であり、応神が行った朝鮮への出兵である。392年の出来事を30年遡って記載したと考えることができる。
392年以降の数回の半島への出兵の中において、神功皇后のモデルとなる伝承があったのかもしれない。この点まで否定するつもりはない。

応神天皇の復元年代の根拠

もう一つの結論は、応神の在位41年に関してであるが、363年の誕生から41年目の403年が応神の崩御の年である。応神の即位や崩御の年齢は何ら記載されていない。上記の数字が正しいかどうかでではなく、編者が年代構成上からそのように設定したのである。
神功の69年の在位は、162年の年代差を持つ年代と120年の年代差を持つ年代に区分される。前者は201年から242年の42年間であり、後者は243年から269年の27年間である。
42年間は、応神在位41年間と崩御後の空位1年間を加えた年数である。従って神功の年代と162年差を持って重なり合い、応神崩御は403年と計算される。[241+162=403]
応神即位年の方は、41年の在位が二倍暦とすると、実在位は20.5年であり、383年となる。ただし復元年代では381年としている。(この年代の食い違いに関しては別途説明したい。)
120年の年代差を持つ27年分は、「神功皇后と応神の外交史」に記載したので見ていただきたい。

神功皇后は応神天皇の誕生年を伝える道具
神功皇后の摂政としての在位を9年や17年などとする見方がある。古事記の崩年干支と神功皇后の存在を信じれば、確かにそのように解読できる。神功が存在しないとするなら、これらの年数を他の天皇に割り振ることになる。年代としてはそれほど大きな変化ではない。垂仁と景行の年代は詰まった感じがするし、成務は国造関係の業績からすると7年では短すぎる。実際には、古事記崩年干支の年代から計算される在位に比較し、垂仁と景行で10年分、成務で8年分増加し、各天皇の在位は19年、21年、15年(日本書紀13年)となる。仲哀天皇の在位は7年(日本書紀9年)と応神天皇の在位年23年である。
要するに、神功皇后は、「応神天皇の誕生年を伝えるための出しに使われた」のである。

江戸時代末期に、国論は「攘夷」と「開国」の考え方に分かれ争われた。仲哀天皇(三輪王朝)と神功皇后(河内王朝)との関係は、「国内版図拡大・平定」と「半島への進出」の衝突である。これについては、改めて述べることとする。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
https://www.typepad.com/services/trackback/6a0120a6b19efd970b012875b3e5f7970c

Listed below are links to weblogs that reference 神功皇后の年代に関わる在位はゼロである:

コメント

この記事へのコメントは終了しました。