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2009年6 月19日 (金)

「百増天皇」と年齢

記紀の年令は延長されている。実際の年令(筆者は実年と呼んでいる)は倍暦に基づき、1/2とか、1/4であるとかさまざまである。実年を求める中で、記載年齢から100歳を引いた「百減」年令がよく見られるが、正しいのであろうか。
「百減」とは、解読側の見方である。記紀の編者側においては、「百増」である。編者が「百増」を行うには何らかの理由があったはずである。100歳を超えた場合に全て「百減」を適用するわけには行かないが、古事記記載の崇神168歳、垂仁153歳は、景行137歳は「百増天皇」に該当する。

「百減」や「百増」のような考えは不真面目なことと思われる方がおられれば、頭を柔らかくした方が良い。

編者の考える「からくり」の一つであり、多用されているところをみると、編者のルールのようなものである。
先ず、日本書紀の神武天皇の127歳がそれに該当する。但し、日本書紀記載127歳から「百減」した27は天皇年次を指している。しかも復元時の神武27年次指している。従って、[百減]をしても直ちに年齢にはならないが、[百減]は正しい年令にたどり着く入り口なのである。

古事記の137歳は、当初、編者は「37」を重要な数字と考えていたため、37に百を加え137として,37を見えるようにしたと考えた。また、上記と同様に神武37年次と見ることもできる。その結果、神武の崩御年齢は、紀39歳、記44歳、と日本書紀と古事記で異なる解釈が生まれる原因となった。古事記の137歳は、年齢ではなく、年代であることが分かった。従って、記44歳は疑問である。

また、古事記では、日本書紀の崇神没年から古事記の崇神没年までの期間348年が空白になっている。これに関する詳細は「古事記の空白期間348年のからくりの解明」を参照してください。上記の記事では、「百減」とは異なる解釈を述べているが、次に述べるような解釈も可能である。
この空白期間を埋めるために、上記の崇神、垂仁、景行の3人の天皇の年令に100歳(年)ずつを加算し、300年を確保する必要があったのだ。残る48年は成務からということになるが、100歳以下であり、「百減」の話ではなくなるのでここでは述べない。
偉いとか重要な天皇だから年令を百歳以上に引き上げたというのは勝手な決め付けであり、そんな理由よりも空白期間を埋めるためである。

「百減」した結果の、崇神68歳、垂仁53歳、景行37歳は、その数字がそのまま正しい崩御年令かどうか別にして、正しい年令を考えるための数字なのである。
ちなみに、崇神は二倍暦が関係し、34歳が正しい崩御年令と考えられる。
垂仁の崩御は、住吉大社神代記の垂仁崩年干支「辛未」に述べたとおり、39歳である。百減では一致しない。
また、景行の崩御年齢は、37歳であり、「百減」そのものである。

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