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2009年6 月19日 (金)

日本書紀の修正復元モデル(垂仁~仁徳の復元年代)

この記事は、旧ブログに2009/01/05に投稿したものである。一部追加記載した。

日本書紀の崇神天皇以降の復元年代の読み方が古事記の崩年干支の読みとほぼ一致を見たのは、解読を始めてしばらく経った頃であった。しかし、それは古事記の追認であって、それだけのことであった。古事記の崩年干支が日本書紀の記述とかなり連動性を持って記載されている。そこには誰もが騙されてしまうだけのもの、特に記紀の編者の関係などがあると考えられる。
昨年末(2008/12)になって古事記の新しい読み方が見つかった。古事記に新しい読み方があるなら、当然日本書紀にも新しい読み方があるはず。それが古事記と同じ結果になるのかどうか興味がわく。筆者は、記紀の連動性からみて、多分同じような結果が得られると思った。

日本書紀の垂仁天皇以降は新しい解読方法を必要とする。その一つが「立太子年は誕生年である」ということであるが、この「立太子年」を用いた仕組み自体が暗号あるいはからくりなのである。文章だけで説明するのは困難であり、図表が必要である。
「表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細 」を見ていただきたい。

表12-2 崇神~仁徳復元年代の詳細

仕組みというからには、基準となるものが存在する。垂仁天皇の年次表が基準になっているのであるが、厄介なことに垂仁だけ「立太子年は誕生年である」に反し、1年狂いがある。このため、筆者の考えを勝手な考えとされるのを恐れる。垂仁は記載では140歳であるが実際には139年で1年の狂いがある。垂仁以外の各天皇(景行、成務、仲哀)には問題がない。後は、日本書紀に記載されたとおりに従えばよい。その際、各天皇の年齢の関係をチェックしている。
例えば、成務天皇については、景行46年(正しくは、景行37年)の時に成務は24歳で立太子となったと記載されている。37-24の関係がチェックされる。次に立太子年である成務24のときが成務の誕生年である。

このような解読における謎は、垂仁天皇と景行天皇の関係である。年次表を比べれば垂仁39年は99年であリ、垂仁崩御の年である。そして垂仁40年即ち垂仁100年は、景行元年である。ここまでは確実なのだが、景行の年次表から実の元年がいつなのかを判断するのは難しい。垂仁と景行の関係は,37-21であるが一致する年代が得られない。 そのため表にあるように垂仁天皇の実年齢の37年を基準とした。
二つ目は、記載年代を四倍暦と見做し、これを解消した年代と復元年代を比較するとほぼ一致する。復元年代の正しさを証明している。
三つ目のポイントとして、四倍暦が年代構成の基本になっているのは疑う余地がないが、各天皇の年代は実年で記載されていることがあげられる。二倍暦とか四倍暦ではなく、年数を加算することで年代を延長している。

復元年代を、「新説古事記復元モデル」と比べると、成務天皇の崩御年が2年食い違うだけである。結果として、仲哀天皇の在位が日本書紀9年、古事記7年となる。仲哀天皇の在位は従来の読みでも、9年と7年であり、変わらない。というより、変えようがない。日本書紀と古事記は、仲哀天皇に関する在位の考え方が異なっていたのであろう。

応神天皇には「からくり」がある。応神は、誕生の年代やいきさつなどが書かれた珍しい天皇である。在位は41年である。誕生年には1年のごまかしがあるが、記載から正しい誕生年が363年であることが分かる。そして41歳で403年に崩御された。不明なのは即位年だけであるが、仲哀天皇の崩御年と仁徳天皇の誕生年が、応神の即位年381年であることを教えてくれる。

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