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2009年6 月19日 (金)

日本書紀の修正復元モデル(神武~崇神復元年代)

昨年末(2008/12)になって古事記の新しい読み方が見つかった。古事記の復元年代は、既に読んでいた日本書紀の復元年代とは僅かな違いがみられる結果(綏靖と孝昭が1年違い)となった。日本書紀を再確認した結果、古事記の復元年代に変わり、日本書紀と古事記の復元年代は一致した。
最近になって、古事記の孝安天皇の崩御年(および孝霊天皇の即位年)に新たな解読方法が見つかり、孝安の崩御248年、孝霊即位249年が得られた。
当然日本書紀にも新しい読み方があるはず。それが古事記と同じ結果になるのかどうか興味がわいた。しかし、現在のところ、日本書紀からは古事記と同じような結果は得られていない。
日本書紀の修正復元モデルの根拠は、「表12 神武時代の復元年代」および「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」に記されているので、見ていただきたい。

表12 神武時代の復元年代

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

日本書紀の復元には、神武の時代をどのようにとらえるかがカギになる。
「表12 神武時代の復元年代」を見ていただけば大凡のことは分る筈である。ポイントとなる点を説明する。
記載された神武即位年BC660年は、復元年代における神武誕生年137年である。年次欄に書かれた数字は年齢である。神武即位年は、神武が26歳になったとき(年次欄の26年次)であり、BC635年に変わる。復元年代は、既に述べてきた「ニニギ降臨の暗号」の解読で得られたニニギ暦(西暦)162年である。
筆者は、上記のように、神武即位年BC660年を神武誕生年137年として展開した。別の方法として、神武即位年BC660年を復元の神武即位年162年として展開することも可能である。参考欄に記載した。25年移動させたことになるだけで、答えは何ら変わらない。ごく最近、弘仁私紀序を検討すると、後者の考えに近い。
記載事項には、神武の年代の出来事(皇子の誕生や立太子など)を記載したが、日本書紀に記載された事柄である。記載年代神武の年代(BC660~BC585)の中に、綏靖および安寧の在位は完全に含まれる。「表12 神武時代の復元年代」の説明はこのくらいにして、「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」に基づき詳細を見た方が理解しやすい。

「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」は、各天皇の年齢を、神武の年次に対応させた表である。
備考欄の記載は、復元が正しいかどうかをチェックする観点を示す。すべて日本書紀から掬いあげたものである。
例えば、「神武42-14綏靖立太子」は、記載から読み取ったチャック事項で、「神武42年。このとき綏靖立太子14歳」を意味する。表において、その関係が正しいかどうかをチェックするためである。

「表12」から、日本書記の編者が、各天皇の年代構成をどのように行ったかが、いろいろわかる。例をいくつかあげてみる。
・神武の崩御と綏靖の崩御は一致する。あくまで年代構成上のことである。
さらに、神武崩御後の空位年を利用し、綏靖の年代を3年ずらす「からくり」が存在する。
・神武34年と懿徳34年は、シンメトリックになっている。編者の年代構成のやり方である。
・孝元崩御と開化即位が同年である。その上に二倍暦が絡み、補正を2年必要とする。編者は、分ってやっていることなのか、そのようにならざるを得ない事情があったのかわからないが、2年の補正が必要なのは明らかである。

古事記では孝安崩御248年が読めたが、この表でも孝安崩御248年が読み取れる。日本書紀と古事記の両方から同じ答えを引き出せたことは、重みがある。

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