日本書紀と古事記の紀年論に関する一考察
記紀の紀年が同じか、それとも異なるかについて述べておく必要がある。
それには、添付資料「表51 神武紀元前紀の記紀比較」を見ていただきながら、下記の記事を読んでいただきたい。
日本書紀は、神武即位年を162年(神武暦822年)とし、神武誕生年を求めると137年(神武暦797年)になる。137年のとき1歳とすると、162年に26歳になる。
古事記の神武の御年は137年であるが、日本書紀の137年と紀年が同じか確認しなければならない。紀年が異なれば、同じ137年でも実際の年代が異なるためである。
神武誕生を137年とすると、137年前には何があるのかを知る必要がある。神武即位年はBC660年であり、このとき52歳(実26歳)であるから、誕生年はBC711年(実BC685年)となる。この実の誕生年BC685年を137年とすると、1年(紀元元年)はBC822年となる。(BC821年も有りうる……後述)
822年は前に説明したニニギ降臨の暗号「822」と同じである。記紀(日本書紀と古事記)の編者は、「822」という暗号を知っていたのである。
記紀の編者はいつものことであるが、「822」に対し全く異なる扱い方をした。日本書紀の編者は、822年=162年を神武の即位年とし、162年前、すなわち神武暦661年=西暦1年をニニギ暦元年とした。日本書紀のニニギ暦元年は西暦1年である。
以下は、「仮説1」である。
古事記の編者は、日本書記とは逆に、BC822年を元年(例えば、御年紀元元年と呼ぶことが出来る)とし、137年後のBC686年を神武の誕生年にした。従って、元年から137年後が神武誕生年であり、さらにその25年後のBC661年が神武即位年となる。
神武即位年は日本書紀BC660年辛酉に対し、古事記BC661年庚申となり、1年食い違う。
先ず、日本書紀を検証する。
日本書紀の紀年を決めたのは、神武暦822年=西暦162年である。822年が神武暦を指すとすれば、西暦162年は確かであり、動かせない。
筆者は、神武暦前37年=BC697年と神武暦1357年=西暦697年はシンメトリックであり、その中央年である神武暦661年=ニニギ暦(西暦)1年を紀元とした。シンメトリックの片側は697年と696年になっている。要するに、シンメトリックは神武暦660年と661年の両方の中央にあるからどちらかを選択しなければならない。恐らくニニギ暦を考案した編者は、神武即位年を辛酉の年としたと同様に、ニニギ暦の紀元も辛酉の年を選択したと考える。
古事記について検証する。
上記の「仮説1」の説明は、822の解釈を、BC822年としたことにより、BC661年庚申の年が神武即位年となる。
仮に、BC821年を紀元とすると、137年後はBC685年で誕生年、さらに25年後はBC660年で即位年となり、日本書紀と一致する。
また、古事記御年137年が、日本書紀の127年に対応すると考えるなら、神武誕生年はBC711年から10年遡ったBC721年庚申の年になる。元年がBC821年であっても、(BC822年であっても)100年(101年)の差があり、BC721年とBC821年の関係を説明できない。
上記のBC822年を元年とするだけの根拠は、弘仁私紀序も含めて見当たらないので、上記のBC822年を元年とした「仮説1は否定される」。
再度、シンメトリックの関係について、考えてみる。
以下は、「仮説2」である。
中央年は神武暦660年=ニニギ暦1年=BC1年であってもシンメトリックは成立する。
その場合はどのようになるであろうか。
上記の式は、神武暦1年=ニニギ暦前559年=BC660年辛酉の年、となる。
さらに式は、神武暦前1年=ニニギ暦前660年=BC661年庚申の年、となる。
神武暦だけを見ていると考えられないことだが、神武暦をニニギ暦に変換すると、庚申の年が得られる。
上記の式を展開すると、BC822年=ニニギ暦前821=神武暦前162
シンメトリックの基準年を神武暦660年としてニニギ暦を設定すると、ニニギ暦前821年が紀元元年となり、BC822年である。(このような複雑な説明をしなくても、神武暦に対しニニギ暦を1年前に設定したのだから、当然である。)
「仮説2」により、「仮説1が復活する」。
筆者は、神武暦とニニギ暦の関係を、きめ細かく追いかけることができたが、上記の「シンメトリックのからくり」を知らなければ、容易に到達できるものではない。
古事記の編者あるいは弘仁私紀序の作者は、上記のことを知っていたとしたらどうだろうか。実際に古事記には、御年137年しか記載されていないから、何とでも解釈できる。
古事記には、それ以前の原古事記が存在したという見解がある。現存古事記は文言や系図が改ざんされたが、原古事記以来作り上げられた数字には手が入らなかったと考えられる。
特に、弘仁私紀序のみを考えると、古事記全体の年代に関して述べていると思えない。神武の誕生年および即位年だけ「庚申」が説明できればよかった、と考える。
上記の「復活した仮説1」は、数字を変えずに、解釈だけで「庚申」とすることができるのである。
まだ、弘仁私紀序と古事記の関係は読み切れていない。以上述べたことが解決に結びつくかどうかもわからない。これからの課題である。
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