神武天皇とその一族
筆者は神武から開化までを「葛城王朝」と表現している。葛城王朝の意味を十分に分かっていたというより、短い言葉で表現できるので用いた。
本来の「葛城王朝」とは、鳥越憲三郎氏が唱えた説で、「三王朝交替説では実在を否定されている神武天皇及び欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神(三輪)王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが、崇神(三輪)王朝に滅ぼされた」とする説によるものである。
葛城王朝は即位後の神武から始まるが、即位後の神武にはほとんど記事がない。論功行賞の記事は東征との繋がりであるに過ぎない。そのように見ると、「欠史八代」というよりは、「欠史九代」の方が正しいと思われる。葛城王朝は記載上563年の物語となっているが実際には140年の歴史である。(数字は在位で示した。)
古事記に崇神崩御年318年が記載されているため崇神崩御年で区分することが行われるが、その場合は、記載上は631年、実際は157年の歴史となる。
神武一族の王朝と孝昭一族の王朝とは別の王朝
欠史九代の[葛城王朝」は、神武一族(神武、綏靖、安寧、懿徳)から孝昭一族へ交代する。筆者が神武一族と孝昭一族とを区分けするのは、日本書記編者の年代構成がそのようになっているからであり、「合成年次表」を見れば一目瞭然としている。その意味で、[葛城王朝」という表現は、葛城地方を拠点とした王朝を指すのは良いのであるが、「神武一族の王朝と孝昭一族の王朝とは血の繋がりのない別の王朝」と見做す方が正しいと思われる。
神武一族と孝昭一族の違いは、皇后に見られる。日本書記の一云まで考慮すると、神武一族の皇后は鴨氏、磯城氏や春日氏ら近隣の氏族の娘である。
孝昭は、卑弥呼と共に、二王による統治を行う。
孝昭の皇后は瀛津世襲の妹である世襲足媛命で、尾張氏であり、大臣は物部一族が牛耳るようになる。神武一族の時代と比べて、大きく様変わりする。
ここでは、神武一族について述べる。
西暦155年、19歳となった神武は一族を引き連れ、東征に出発する。
西暦162年に神武は橿原において即位した。26歳であった。175年に39歳で崩御され、在位14年であった。
神武が亡くなると、異母兄弟の間にお決まりの跡目争いが始まる。手研耳命と神沼河耳命(綏靖)の争いである。日本書紀の編者は、この争いのため生じた空位年に「太歳干支」を付与した。このような例はどこにもない。「太歳干支」は、各天皇に付与されている。手研耳命が皇位についたが、綏靖に襲われ殺された、という解釈も成り立つ。太歳干支は、そのようなことを示唆しているのかも知れない。しかし、復元年代から見ると手研耳命が皇位についたとしても176年の1年のみである。
綏靖は、手研耳命を討ち、177年に13歳で皇位についた。181年に崩御され、在位は5年である。
続いて、安寧が15歳で皇位についたが、185年に崩御、在位4年である。
第4代懿徳は、8歳で皇位につき、17歳で亡くなっている。在位は186年~195年までの10年である。 綏靖の子といわれるが、その可能性はありそうだ
神武一族は、全員が極めて短命である。神武の影響力も無くなり、懿徳の崩御をもって孝昭一族へ変わっていく運命であったようだ。神武一族の歴史は34年間である。
34年の根拠は、「神武と懿徳の34年のシンメトリック」に述べたので読んでいただきたい。
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