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2009年6 月16日 (火)

孝昭天皇一族と女王卑弥呼・台与(壹与)

「葛城王朝」には、神武以下、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化と9代の天皇がいる。上記の名称は漢風諡号(しごう)といわれ、天皇の死後に奉った「おくりな」である。また、「おくりな」は、生前の事績に対する評価に基づくと考えられている。
誰でもが気付くように、孝昭、孝安、孝霊、孝元の4天皇は「孝」で始まるが、なぜなのか。
「おくりな」の作者、淡海三船(722~785年)は、日本書記撰上の後に生まれたので編纂には関係していない。しかし日本書記撰上から五十年後には大学頭兼文章博士になっているから、日本書紀の記載内容および裏事情に通じていたと思われる。
その淡海三船が上記のような「おくりな」を付けたということは、神武~懿徳の4天皇と孝昭~孝元の4天皇とは、例えば、血縁関係に断絶があることを暗示していると捉える。
復元年代から見ると、神武即位162年~懿徳崩御195年で、神武一族はみな短命であり、4天皇の統治は合わせて34年であった。
なお、後述するが、孝昭天皇即位を女王卑弥呼擁立と看做すと、懿徳から孝昭への交代はある程度の権力闘争があったことも想定され、縁戚への交代というような甘い話ではないかも知れない。

孝昭天皇一族の年代は、卑弥呼・台与(壹与)の年代に重なる。卑弥呼の擁立の年代が不明であるが、孝昭即位196年及び孝安即位222or 223年という年代は、いずれも卑弥呼を立てたとする年代の範疇にある。さらに、孝昭即位196年~孝元崩御296年は期間が100年となるが、卑弥呼の崩御を247年とすると、卑弥呼在位51年・台与在位49年となり合計100年で上記の100年に一致する。それにしても話がうまく出来過ぎている感じである。
現在の日本書紀の復元年代は、孝霊即位は256年であり、現状では台与擁立の年代248年または249年とは7,8年食い違っている。孝霊の在位を12年としているが、四倍暦では19年であり、7年遡ると249年になる。

卑弥呼と孝昭の二人の王による統治

ところが、古事記の復元年代は、孝安崩御248年、孝霊即位249年と読める。卑弥呼の死んだとされる年代も、247年または248年とされる。
孝安の崩御年が卑弥呼死んだ年と一致し、孝霊の即位年が台与擁立の年代と合致するなら、邪馬台国は大和にあったことになる。古事記の結果は重みがある。

改めて、淡海三船が名付けた「孝昭」の意味を考えてみると、「卑弥呼を太陽に見立て、卑弥呼の発する光により照り輝く天皇」を意味することが分かった。
鳥越憲三郎氏が言うところの祭政二重主権の形態がここにある。卑弥呼は、祭事に専念する祭事権者である。孝昭は、政事権や軍事権を持つ。やまと国は、二人の王によって統治されていたのである。鳥越氏の見解と違うのは、本来兄弟姉妹である点が夫妻に変わっているところである。卑弥呼が亡くなったとき孝安が崩御されたように見えるが、必ずしも崩御とする必要はない。お役目が解けたのである。そして新たに、壹与と孝霊の二人による統治が始まった。

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