成務天皇と仲哀天皇の年次表を解読する
筆者は、崇神天皇から仲哀天皇までを一つの王朝の物語と考えている。崇神天皇から順次、各天皇の年次表の解読内容を説明してきた。成務天皇と仲哀天皇が残っているが、二人の天皇の在位と年代には分けがたい点があるため、まとめてのべる。
「表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表の解読]を見たうえで読んでいただきたい。
年代解読は、天皇ごとの「個別年次表」と各天皇を一表にまとめた「合成年次表」の二通りで行っている。
成務天皇と仲哀天皇の場合には、個別年次表と合成年次表において、成務崩御年および崩御後の空位年の有無について、結果が異なっている。
成務即位年359年、仲哀即位年372年および仲哀崩御年380年、仲哀在位9年は同じ結果であるから、基本的には問題は大きくないのかもしれない。
「個別年次表」と「合成年次表」の食い違いの個所を詳しく述べると次のようになる。
個別年次表においては、成務の崩御年(成務60年次)は370年であり、崩御後の1年の空位年は371年とする。在位は12年となる。
他方、合成年次表では、成務60年が371年となり、空位年はなく、在位は13年となる。
記載年代と復元年代は干支が一致
個別年次表(上記の「表23-2 成務天皇と仲哀天皇の年次表」を指す)では、次の点で記載年代の干支と復元年代の干支が一致している。復元年代は信じられると考える。
370年庚午、成務崩御、在位12年【書記記載190年庚午の崩年干支と一致】
371年辛未、空位【書記推定191年辛未の干支と一致】
372年壬申、仲哀即位元年【書記記載192年壬申の干支と一致】
380年庚辰、仲哀崩御22歳、在位9年【書記記載200年庚辰の崩年干支と一致】
381年辛巳、応神即位元年
では、何が問題なのか。
合成年次表の「成務60年、371年」と個別年次表の「成務60年次、370年」の食い違いである。上記に述べたとおり、個別年次表の復元年代は信じられるとすると、合成年次表の数字は何なのだ、ということになってしまう。理由が分かればよいのだが、今は分らない状況にある。おろそかにしてはいけない点である。
当初は、神功が存在するとして解読を進めた結果、古事記に記載された崩年干支にたどり着いた。その後、神功という人物はいたかもしれないが、年代に関わることはないと考えて解読を進めてきた。4倍暦にも合致するし、上記のように一部の天皇の干支が日本書紀に記載された干支に一致した。「干支一周り60年であることから、干支が一致するのは一部の天皇で十分である。」すべての天皇に干支が一致するなど理論的にあり得ないことを期待しないことである。
成務と仲哀の記事なし年次は、神功紀の外交関係の記事で埋まる
成務も仲哀も、記事の書かれた年次は少ない。それだけに在位を解読するのは難しい。
仲哀は、日本書紀では在位9年、古事記では7年である。どうやら、この件に関してだけは双方の編者が譲れなかったことと理解する。日本書紀にあっては9年が正解のようだ。
また、成務も仲哀も有効年次であって記事なしの年次が多い。しかし、神功皇后に記載された百済などの半島との外交関係の記事を120年加算し、成務と仲哀の該当する年次に戻すと、記事なしの年次が埋まることになっている。
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