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2009年7 月 7日 (火)

開化天皇の年次表を解読する 

年代の解読を始めたばかりのことだが、開化の在位は、日本書紀に記載された年次60年から、1/2の30年や1/4の15年が推測できる。何しろ数字が限られているのだから、これ以上は解読できないのではないかと思っていた。多くの学者の方々の年代復元で神武即位が西暦100年以前にいくのも、開化の在位を二倍暦として30年と読むことが影響している。他人様の復元年代を批判するわけではない。実は、筆者もつい1か月前までは開化在位5年を主張していた。現在(2009年9月)は、在位8年に訂正している。
在位8年の根拠は、次の合成年次表「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」によるものである。

表12-1 神武~崇神復元年代の詳細

開化16立太子は、「孝元22-16開化立太子」に基づく
「孝元22-16開化立太子」は、日本書紀に記載された重要なチェック事項である。合成年次表上で、上記の条件に合致する年代を探すことになる。この場合は、孝元の実年齢22歳と開化の実年齢16歳が一致する年代が選ばれた。
また、開化と崇神の関係は、「開化28-19崇神立太子」がチェック事項になっており、この関係式から二つの結果が得られる。「開化28年-崇神誕生」と「開化10-崇神誕生」である。
開化に戻ってチェックすると、開化28年の崇神の立太子年を誕生年と読み替えると、実年の崇神が誕生する。開化10年には、記載上の崇神が誕生する。

「開化5年次、孝元を陵に葬る」は、5年の年代延長がされている
崩御から陵に葬るまでの期間は、他の天皇の例から見て1年程度である。開化の場合は5年分が年代延長の一環として加えられている。5年分の修正を加えた場合の記載上の元年は、立太子年から始まっていることが分る。この場合の見掛け上の開化の在位は13年となるが、実在位は、上記5年分を差し引いた8年となる。
なお、孝元の場合にも「孝元6年次、孝霊を陵に葬る」の記載があるが、上記と同様に年代がずらされており、記載上の元年が立太子年から始まっている。

神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦
日本書記の記載は、神武即位162年から開化崩御301年までは2倍暦で記載されている。2倍暦で記載された期間(合計在位)は140年である。
この件については、別途詳細を述べているので省略する。
カテゴリ「倍暦(2倍暦、4倍暦)」の記事「日本書記の在位と年齢の倍暦に関する一考察」などを参照してください

以前(2009年8月)の筆者の主張(従来、筆者が述べてきた記事である。)
即位前の神武天皇を引き継ぐ崇神天皇
あるとき、年次表を眺めていて、崇神の誕生年が開化10年であることに気付いた。開化の在位は9年分で、後の51年は崇神のための数字だったのだ。ここから、いろいろな数字が繋がった。御肇國天皇である崇神天皇が即位前の神武を引き継ぐには、神武と同様に52歳でなければならなかったのであり、そのために崇神の即位までの51年は重要な数字であった。編者は、どこかに紛れ込ませたのではなく、開化の本来の在位9年の後に堂々と51年を加えたのである。開化の在位は、実年で在位5年である。筆者はこの解読が正しいと信じているのだが、「編者が考えそうなこと」と「必ずキーとなるものが隠されている」がその理由である。多分まともな根拠でないと言われそうである。

開化天皇の在位5年の根拠
筆者の考える標準在位計算式では、開化在位5年[60/2-52/2+1=5年]となり、在位のあり方として典型的な構造をしている。この標準在位計算式で、崇神以前の天皇の在位は大半が計算できるのであるから、在位は5年で正しいとおもわれる。
合成年次表から読み取った開化即位年は、296年で修正値は297年、崩御年は300年で修正値は301年で、在位は5年である。

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