Google
 

« 古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(応神編) | メイン | 履中天皇~雄略天皇の年次表の解読 »

2009年7 月21日 (火)

古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(垂仁編)

崇神天皇~仲哀天皇の崩年干支は次のような年代として読み取られている。ここでは干支自体を議論するつもりはないので、年代に置き換える。
崇神崩御年:318年
垂仁崩御年:干支の記載なし→333年
景行崩御年:干支の記載なし→348年
成務崩御年:355年
仲哀崩御年:362年
上記より、垂仁から成務までの合計在位は、37年と計算される。同様に垂仁から仲哀までの合計在位は、44年である。

古事記の崩年干支の欠落の穴を埋める
先ず、垂仁天皇と景行天皇の崩年干支がないため、空白となっている年代の穴を埋めておこう。
垂仁崩御年:333年[318+12+153=333](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、153は垂仁の御年)
景行崩御年:348年[318+12+168=348](318は崇神崩御年、12は崇神に記載された12月、168は崇神の御年)
以上より、垂仁の在位15年、景行の在位15年、成務在位7年となり、合計在位は37年で、上記の計算上得られる合計在位と一致する。

新説古事記復元モデル

古事記の分注崩年干支に関する一考察(応神編)において、仲哀天皇の崩御年は18年遡って設定されていると述べた。
とすると、仲哀天皇の崩御年は、362年に18年を加算すれば、380年になる。応神天皇の即位年は、381年が正しい年代である。
成務天皇の崩御年は、仲哀天皇の在位7年が変わらないとすれば、355年に18年を加算した373年となる。
それでは、この18年は、垂仁、景行、成務の在位と年代に対し、どのような影響を与えるか、古事記に記載の数字を用いて解読する。
仮説は、「古事記記載の御年(および月日)を構成する各数字を加算すると、在位が得られる。」である。
崇神在位:御年一百六十八歳、月日十二月→1+6+8+2=17→17年(318年)
垂仁在位:御年一百五十三歳→1+5+13または1+15+3=19→19年(337年)
景行在位:御年一百三十七歳→1+13+7または1+3+17=21→21年(358年)
成務在位:御年九十五歳→9+5=14→14年(372年、崩御後の373年は空位年)
仲哀在位:御年五十二歳、月日六月十一日→5+2=7、または6+1=7→7年(380年)
注1)( )内は復元年代である
垂仁から仲哀までの合計在位は、61年である。他方、319年から380年までは62年の在位であり、上記の仮説から計算された61年とは1年の誤差がある。
日本書記には、成務崩御後に1年の空位が存在する。この1年を活かすと、合計在位は62年となる。
さらに、成務崩御後に1年の空位年は、神武暦851年(37年の23倍)である。4倍暦で計算される年代は、373.75年で373年と見做すことができる。[851/4+161=373.75]
仲哀崩御380年から逆算すると、仲哀即位年は374年となり、その前年の373年が空位年であるとすると、年代として整合性が取れる。仮説は、正しいことになる。
筆者はこの復元年代を「新説古事記復元年モデル」と呼んでいる。

古事記の暗号は用意周到
古事記の御年と月日の暗号は、用意周到である。
記載された崩年干支に合わせて、崩年干支が欠落している垂仁と景行の崩御年を、解読できるようにした。その上で、正しい年代を導き出す各天皇の在位を、別の方法で計算できるように用意した。知りたいと考える二種類の年代あるいは在位を、暗号が教えてくれるのである。

記紀の解読結果が一致する重み
御年と月日の数は極めて少ない。各天皇に一つ、または二つの数字しかない点で、無理のない解読がなされれば、日本書紀以上に正確な年代や在位が読み取れる。また、古事記から得られた数字は、日本書紀の解読に大きな手掛かりを与えてくれる。記紀の解読結果が一致する年代と在位は、今まで以上に重みがあると考えられる。
古事記の編者は、数字を巧みに操って暗号を作り上げている。今から千数百年前の知識人が、数字とにらめっこしている姿を想像するのは楽しいことである。
古事記に記載された御年や月日は、各天皇の在位や年代を示す暗号である。」という主張も理解していただけるであろう。

古事記は、神功皇后の年代への関与を否定

さて、ここで終わったのでは、単に投稿済み、下記添付の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加) 」および「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)」に記載されたことを繰り返し述べたにすぎない。
従来の古事記の分注崩年干支から読み取りされた年代とは異なる、新たな復元年代が存在するということである。新たな復元年代の必要性がなければ、暗号も必要がないはずである。
新たな復元年代は、「神功皇后の年代への関与を否定したもの」である。これが古事記から解読された最も重要な結論である。
注2)表の年代が上記文面と一致しない場合は、修正が間に合わないか、あるいは新たな発見により修正したためで、ご容赦を願いたい。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
https://www.typepad.com/services/trackback/6a0120a6b19efd970b0120a6b19f66970b

Listed below are links to weblogs that reference 古事記の崩年干支の読み取り年代に関する一考察(垂仁編):

コメント

この記事へのコメントは終了しました。