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2009年7 月26日 (日)

履中天皇~雄略天皇の年次表の解読

先ず、添付の「表28-1 履中~雄略の年次表の解読」を見ていただきたい。

表28-1 履中~雄略の年次表の解読

従来において課題とされたまま解決されていない点を年次表に基づき述べていく。
大きな課題は、次のとおりである。
1) 反正天皇の濱の問題(反正天皇と允恭天皇の在位が関係する)
2) 安康天皇の年代
3) 雄略天皇の在位の問題

解読方法の特徴日本書紀記載の「年月日の暗号」の説明
筆者は、日本書記に記載された年月日は暗号であると主張してきた。しかし、不完全な暗号であり、信頼性に欠ける代物である。だから、「暗号ではない」というなら、そういうことで構わないのだが、解読に役に立ち、有効であるとするなら、何と呼べばよいのだろうか。ということで、筆者は「年月日の暗号」と呼んでいる。
ただし、全ての年月日が暗号というわけではない。上記の年次表に「赤い太字で書いた数字」の部分が暗号に相当し、[ ]内は計算の根拠を示している。
「年月日の暗号」の例は、かなり多く蓄積できている。編者の数字の扱い方の中には、次のような独特な扱い方もある。例えば、11は2とする。12(十二)は、12そのままも場合もあるが、+2の場合や逆数20の場合がある。早い機会に、まとめて紹介することとする。
また、年次表自体は、「年月日の暗号」を用いなくても影響を受けないが、暗号によって裏付けが強化されていると考えている。
さらに、復元年代は、古事記の「御年」、「月日」「治天下年数」の暗号の読み取りによる復元年代と完全に一致している。

反正天皇の濱(もがり)について

反正天皇の濱(陵への埋葬前の葬送の儀礼の意味)の記事は、允恭5年次に記載されている。このため、崩御から5年もたった時期に濱が行われるのは異常であると考えられてきた。その辺りについては、「日本書記の真実」の著者である倉西裕子氏が「書記における14人の濱の記事」にしっかりと纏められている。
倉西裕子氏の調査の結果は、「反正天皇を除いて、全員が崩御後数カ月以内に濱が行われている。」とする。
筆者の解読結果を説明する。
反正天皇の最終年次は5年次で等倍暦(実年)で書かれ、崩御後に1年の空位年がある。それに対し、允恭天皇の年次は42年あり、2倍暦である。半分の21年が実年になる。従って5年次は3年目に当たることになるが、倉西氏の結果と比べると3年では多すぎる。
5年次がどの年代に当たるかを調べると、年次表に示した通り、反正天皇の在位は5年から7年に延ばし、允恭天皇の在位を21年から20年に変えると、全てが満足する結果が得られる。即ち、1月の崩御の6カ月後の7月に濱が行われていたのである。
もしかすると、允恭天皇の年代は2倍暦で記載されているから、春年の7月とすると4月かもしれない。それなら、崩御の3カ月後となる。
さて、上記の「年月日の暗号」は[39]を示唆し、濱の年代が西暦439年にあったことを裏づけてくれている。

倭国王珍は反正天皇

従来の問題点として、中国史書における「宋の文帝に対する倭国王珍の朝貢は西暦438年」とされており、反正天皇が437年に崩御された1年後になり、いろいろな説が提案されてきた。
解読された復元年代では、反正天皇の崩御は439年となり、反正天皇が倭国王珍として438年に朝貢したことが明確になった。
なお、履中天皇在位は428年~432年で、430年の朝貢は履中天皇による。
年次表に記載したとおり、允恭天皇は倭国王済で、安康天皇は倭国王興であり、雄略天皇は倭国王武である。この年次表には載らないが、仁徳天皇が倭国王讃(賛)である。応神天皇は年代から見て対象にはならない。
これで倭の五王(国王名の記載がない履中天皇を含めると、六王になる)はすべて明らかにすることができた。

雄略天皇の在位は6年減じた17年

日本書記の年代は延長されているが、実年に対する年代差を崇神天皇以降の各天皇の崩御年で追っていくと、安康崩御462年の段階において、6年の年代差が残っている。
従って、雄略元年は、記載年代457年に対し年代差6年を加算すると、463年になる。
年代差は、雄略2年次から7年次まで毎年1年ずつ解消され、7年次463年において消滅する。従って、基本的には元年から7年次までの7年間は463年となる。
しかし、この7年間には463年以外の年代の記事が混在している。例えば、雄略2年次の百済の池津媛の記事の正しい年代は不明である。5年次の百済の蓋歯王、昆支、武寧王誕生などの記事は、462年の出来事と考えられる。記事元の「百済新撰」などにおいて1年の狂いがあるとされているが、筆者は確認できていない。いずれにしても461年か462年であり、安康の年代である。残る記事、例えば、「葛城山に狩りをする」や「小野に遊ぶ」などの記事は年代を明らかにできない。
雄略天皇の崩御直前の記事は、中国史書および百済、高麗の記事で、年代が分っている記事である。479年以降の記事が存在しないため、崩御年は記載のとおり479年が正しいと判断する。在位は17年(463~479年)である。

古事記の崩年干支の読み取り年代との関係
古事記の崩年干支の読み取り年代と解読した復元年代を比較してみると、反正天皇崩御年437年に対し2年、允恭天皇崩御年454年に対し5年食い違う。それだけの食い違いしかないのだが、中国史書の年代から見ると、きわめて大きな影響を与え、倭の五王の年代は分らなくなっていた。
古事記の編者は正しい年代を知っていながら、年代を変えたのは、中国への朝貢を明らかにしたくなかったのであろう。この点、日本書紀も同様である。
さらに、雄略天皇は重要な位置付けにあったようで、日本書紀では、在位を17年から23年へ伸ばした。同様に、古事記では崩御を489年と、10年下った年代に延ばした。いずれの場合も、雄略天皇を重要視して在位期間を少しでも長くしたかったと考えられる。

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