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2009年6 月10日 (水)

古事記の暗号解読と復元年代(まとめ)

古事記の崩年干支は、既に学者によって年代が示され、通説とされているが、御年しか記載されていない天皇の在位や年代については不明であった。スタートは年代が不明な個所を明らかにするつもりであった。しかし、崩年干支の示された天皇も含めて全く新しい復元年代が得られたので紹介する。
古事記に記載された「御年」、「月日」や「治天下年数」はすべて暗号である。復元年代は、これらの暗号解読に基づくものである。
復元年代の算出方法は、投稿済みの「古事記復元年代の算出方法」を参照していただきたい。

神武から崇神まで、神武の御年である「137」を基準に用い、各天皇の御年をいろいろと組み合わせた数字を加算している。それで復元年代が解読できるとは、誰も思わないであろう。そもそも古事記の僅かなデータから復元年代を読み取ろうとした人間はいない。日本書紀の解読すら出来ていない現状からすれば、当然である。古事記の御年を暗号と考え、解読方法が分かってみれば、極めて素直な暗号である。
「表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読(神武~開化)」を添付する。

表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読

古事記の暗号を信じる気になられたであろうか?
古事記の御年が暗号であることと解読結果が日本書紀と一致することを見ていただいたが、信じる、信じないはご自由である。
綏靖天皇、安寧天皇は基準年137年に御年の数字そのものを加算したものである。また、孝元天皇、開化天皇は、基準年137年に「御年の数字に百を加えた値」を加算しただけである。神武天皇から崇神天皇までの古事記の解読結果は日本書記の復元年代とすべて一致する。暗号として腑に落ちないと思われるのは懿徳天皇であるが、それでも日本書記の解読結果と一致している。
特に、孝安天皇の暗号は、孝安崩御と孝霊即位の年代を組み合わせた素晴らしい暗号である。併せて、卑弥呼の年代を想起させてくれる。筆者は、この暗号を作成した古事記の編者に敬意を表したい。
あなたは、古事記の暗号を信じる気になられたであろうか?

崇神天皇以降の古事記の暗号は一層複雑化する
神武天皇から開化天皇までの御年が暗号であることを信じられない方には、恐らく、崇神天皇以降推古天皇までの古事記の暗号を理解できないであろう。「各天皇の御年」に、「月日」と「治天下年数」が加わり、暗号は一層複雑になるからである。

古事記には、崇神以降、崩年干支が記載され、年代が読みとれる。しかし、その崩年干支から読み取った年代は、中国史書に残された年代と一致しない。上記の神武天皇から開化天皇までのように、暗号解読によって部分的にも復元年代が明らかにされたことは、当然崩年干支などが記載された年代、即ち崇神天皇以降においても、正しい年代が隠されていると考えられる。その信念に基づいて、崇神以降、推古までを解読した。まだ、解読結果に疑問の残る個所もあるが、「現段階における解読結果と復元年代」、ということで見ていただきたい。ちなみに、日本書紀の復元年代とほぼ一致する。
「表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)
なお、表の題名を「記紀による・・・」としたのは、古事記だけでは読み切れない個所があるためである。

表93 記紀による崇神以降の暗号解読結果(新説古事記復元モデル)

参考として、垂仁、景行の欠落している年代について、穴を埋めておいた。次の「表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)」を見ていただきたい。ただし、この表に示した「垂仁、景行の欠落年代」は、崩年干支で読みとられた年代と一連の年代であり、最終的な正しい復元年代ではない。

表91-3 古事記の崇神~仁徳の暗号解読結果(垂仁、景行の欠落年代の追加)

追記(1009/10/25)
上記の説明で「記紀による・・・」としたのは、古事記だけでは読み切れない個所があるため、とした。
「表91-2 古事記の137年を基準とした年代解読(神武~開化)」(1009/10/25改訂)においても、備考欄の説明を読んでもらえば分ると思うが、古事記の解読には日本書記の情報が必要である。

御年の数字は、日本書紀の解読の中に表れる
例えば、孝昭の93歳は、神武一族(神武~懿徳)に関する最終的な年代を、神武の年次を延長させたときに得られる神武93年次である。「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を参照。
御年の数字は、日本書紀の解読の中に表れる。
例えば、孝昭の93歳は、神武一族(神武~懿徳)に関する最終的な年代が、神武の年次を延長させたときに得られる神武93年次である。「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を参照。
懿徳の計算に59を用いたが、その根拠の一つは、神武93年次における神武の実年齢は59歳である。
二つ目は、日本書紀の解読から、神武~懿徳の合計在位は34年と分っているから、93から34を引けば、59が得られる。[93-34=59]

合計在位の計算(筆者の悪戯)
開化崩御の計算式[(137+163-1)+2=301]から、「163-1=162」を基準年162と見做すと、残りの数字を用い在位計算をする。[137+2+1=140]140年は神武即位162年から開化崩御までの合計在位である。
崇神においても、上記と同様の計算ができる。[162+168-12=318]から、基準年162を除いた残りの数字を用い在位計算する。「(168-12)+1=157」157年は神武即位162年から崇神崩御までの合計在位である。
いずれも数字のからくりであり、筆者の悪戯である。重要なのは、読み取りの数字を用いた元の計算式である。

孝霊の御年106歳
孝霊に記載された106歳は何を意味するか考えていたところ、日本書記の解読により、孝昭から開化までの合計在位であることが分った。
孝昭即位196年と106年を用いて在位計算を行うと、301年になる。[196+106-1=301]
106年には、孝霊崩御で用いた意味とは別の意味があったことになる。

孝安の御年123歳
懿徳の説明で述べたとおり、孝昭の93歳は、孝昭の崩御年の計算には使えない数字であり、孝昭の崩御年の計算には、孝安の123歳を用いるしか手がない。今のところ、123という数字は日本書記の解読では得られていない。123が孝安崩御年と孝霊即位年の両方を示すことから、古事記の編者が創作した数字と考える。

崇神の御年168歳と十二月
崇神以降の天皇にあっては、御年を構成している個々の数字と月日を加算すると在位になる。
例えば、崇神在位は、御年168歳、十二月(12ではなく、プラス2)から、17年が得られる。[1+6+8+2=17]、また御年168歳は日本書記の68年次に百増した数字であり、168から直接年代は得られない。崩御の年代は、御年168歳と十二月(12)から318年が得られる。[162+168-12=318]
また、神武~崇神の合計在位157年が得られるが、前に述べている。[168-12+1=157]

なお、解読の根拠として上記の計算を示しているが、(筆者の悪戯を除いて)筆者が勝手に作り出したことではなく、古事記の編者が創作したことを解説しているに過ぎない。勘違いしないでいただきたい。

古事記の記載モデルと復元モデルの比較
年代や在位が記載されている崇神天皇以降について、復元年代や在位を比較したので、「表3-1 古事記の記載モデルと復元モデルの比較」を見ていただきたい。

表3-1 古事記の記載モデルと復元モデルの比較

表は、垂仁天皇以降の年代および在位の変化を明らかにしている。年代や在位が規則的に上下あるいは増減がなされていることが分る。変化の数字でみれば、9年と9の倍数18年がキーとなっている。

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