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2009年6 月26日 (金)

古事記の崇神天皇に記載の「十二月」の意味(Ⅰ)

崇神の崩御に関して、古事記では戊寅の年の「十二月」と記されている。日本書記では六十八年の冬十二月の戊申の朔壬子(五日)とある。
年が食い違っていることは、ここでは問題としない。月日の食い違いである。古事記は十二月とし、日本書紀は十二月五日とする点である。

日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味
まず、日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」の意味を述べておく。
日本書紀の崇神崩御の「十二月五日」が正しい月日であるはずがない。年代ですら疑問なのに、まして月日など分からないのであり、編者の創作である。「十二月五日」は、「月日の暗号」であり、崇神の在位17年[12+5=17]を意味する。

古事記の崇神に記載された「十二月」を解読する
本題の古事記の「十二月」について述べる。
学者は、単純に古事記が月までしか書かなかった、というかも知れない。古事記を出鱈目という方々は、日本書紀を写しただけ、というだろう。いい加減にしろといいたいが、筆者にも分からないことがあるので遠慮しておこう。
古事記が「十二月」としか書かなかった理由はもっと別のところにあるはず。敢えて、古事記の編者が「十二月」と記載したのは、古事記の編者が日本書紀の内容を知っていて、何らかの意味を「十二月」に付与したと考える。以下に解読結果を紹介する。

「十二月」は、「プラス2年(2年加算しなさい)」の意味
古事記の解読に関しては、「表91-2 古事記の137年(162年)を基準とした年代解読(神武~崇神)」において述べており、開化の崩御年を次のように計算する。
開化崩御301年[(137+163-1)+2=301]
上記計算式の、137年は神武の御年137歳から解読された年代である。
163年は、開化の御年63歳に100年を加算した163年である。筆者は「百増」と呼ぶが、年代を100年以上を補正する場合の編者のルールである。孝元においてもこのルールが用いられている。
計算式の最後の2年の加算が、「十二月」から導き出された「プラス2年(2年加算しなさい)」である。

2年の加算の理由について
筆者は当初から(旧ブログにおいて)、日本書紀における開化と崇神の年代は在位との関係において、年代が不足していると述べてきた。その後、年代の食い違いは、2年とした。従って、不足している2年分を補正しなさいという意味でとらえてきた。
しかし、さらに解読が進み、日本書記の復元年代は、開化301年が得られるようになった。
年代の不足は生じていない状態になった。
2年不足していたと考えていたときは、その不足を補うためと説明ができた。現状ではその理由もなくなり、2年加算の根拠は分らなくなってしまった。

開化の宝算の数字はバラバラである
古事記の開化の御年は63歳(宝算114歳)であり、日本書紀の60歳(宝算111歳)に比して3歳大きい。一云には宝算115歳の例が記載されている。仮に2年不足しているのであれば、開化の御年を63歳に固守せずに、65歳にしさえすれば、何も問題はなくなるはずである。63歳にそれほどの根拠があると思えないからである。
ただし、古事記の解読からは、「御年は年齢ではない」としている。暗号であるとすれば、開化崩御年は、「御年63歳」と「十二月」の組み合わせとして設定された、と考えられる。

つづく

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