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2009年6 月27日 (土)

神功皇后は女王卑弥呼ではない

神功皇后が卑弥呼である、という主張は昔からあるようだ。神功皇后の記事に卑弥呼の朝貢の記事があるためである。記事を読むと、神功が卑弥呼であるというより、「魏志倭人伝に倭の女王が魏に大夫難斗米らを遣わすという記事がある。」という他人事のように書かれている。さらに、266年の朝貢は、卑弥呼が死んだ後の年代で、壹与の朝貢と考えられる記事も記載している。要するに、卑弥呼と壹与を区別していない。従って、記事からは神功が卑弥呼を想定したとは全くいえない。神功の年代も300年代後半であるから、当然である。

神功崩御の月日は卑弥呼が死んだ年

さらに記事をよく読むと、266年の次の269年(神功紀としては最後の年)の記事に、神功が100歳で崩御したと記載しているが、その月日は4月17日となっている。
4月17日は、(四月十七日→四十七年)で、247年を意味し、卑弥呼の死んだとされる年である。神功紀には、魏志倭人伝の「卑弥呼死す」の247年に記事がないのは、神功の崩御に合わせて、卑弥呼の死んだ年を記載した、と考えることができるし、2度も死なすわけにはいかなかったのであろう。
また、神功皇后を記載年代の247年に亡くなったとしなかったのは、前述したとおり、「神功皇后は卑弥呼ではない」からであるが、まだ248年以降269年までの出来事を書くために生きていてもらわなければ困るのである。
編者は、数字遊びを楽しんでいるのだ。「月日は正しい」なんて主張する人に対しては、間違いなくおちょくっている。

筆者は、孝昭・孝安の年代が、卑弥呼の年代と一致するという考えを持っている。魏志倭人伝に記載された通り247年に卑弥呼が死んだとして、孝昭即位の196年に卑弥呼が壹与と同じ13歳で女王になったと仮定すると、卑弥呼は64歳で亡くなったことになる。
同様に、孝安即位223年の場合を計算すると、卑弥呼は37歳で亡くなったことになる。
魏志倭人伝には、「年巳長大(年すでに長大)というのだから、卑弥呼が196年に女王になった推測できる。

また、魏志倭人伝では卑弥呼の朝貢が景初2年(238年)にあったと記載されているが、実際には239年ではないかとの考え方が存在する。神功皇后の年次から卑弥呼の最初の朝貢が239年にあったことが分かる。他方で、崇神7~10年次の年代解読では最初の朝貢は238年になっている。編者の見解も割れていたのかもしれないが、239年という数字があることは、景初3年(239年)が正しいということを示唆していると考えてよさそうである。

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