崇神天皇の年次表を解読する
「表20 崇神の年次表の解読」および「表12-1 神武~崇神復元年代の詳細」を見てください。細かい点は、年次表の下に注および説明を書いているので読めば分かるはずである。
崇神天皇崩御318年の根拠
神武即位BC660年から、開化崩御BC98年までは、563年(神武暦563年)である。4倍暦とすると、140.75年に相当する。
神武即位の復元年代は、西暦162年であり、開化崩御の復元年代は301.75年となる。切り捨てて、301年である。
同様に崇神の崩御年を計算すると、631年(神武暦)は157.75年となり、復元年代は318.75年となる。切り捨てて318年である。
「古事記の崇神に記載の「十二月」の意味(Ⅱ)」において、「崇神崩御318年の根拠」を述べたが、ポイントは次のとおりである。
神武は39歳で崩御した。「39年」は重要な数字であった。39年を四倍暦にした156年を用いて崇神の年代にした。即ち、神武即位162年を基準年として、崇神崩御を156年(「39年の4倍」)後の318年とした。[162+156=318]
古事記では、崇神の御年は168歳であり、その数字の後に12月が記載されている。168と12は本来一つの数字であり、168から12を引くと156になる。崇神崩御の年代は、[神武即位年162+崇神御年168-「月日」12=318年]で示される。
崇神天皇の在位
崇神の年次表について述べておく。
崇神17年の記事は、「始めて船を造る」と記載する。船は葬送用の船である。崇神17年が在位17年を示唆する。
年次は68年であるから、4倍暦であることを示す。
復元在位は17年に基づき、崇神崩御318年から逆算すれば、開化崩御は301年になる。
崇神天皇の記載年代の倍暦
崇神の即位前の記載年代は、(春秋)2倍暦で作られている。神武即位年から301年までは2倍暦を基本にしている。厳密にいえば「n×二倍暦」である。従って、開化天皇の場合は、崩御年が301年であり、完全に2倍暦の範囲に入っている。
注1)ここでいう2倍暦とは、実1年が記載上2年になっていることを指す。
崇神即位302年以降は、等倍暦を基本としているが、全体的にみれば4倍である。(春秋)2倍暦ではない。
神武天皇の場合に、即位前と即位後で倍暦が異なったが、崇神天皇の場合も同じである。(ただし、用いられた倍暦は異なる)
崇神の年齢は、崩御34歳ではなく、36歳である
崇神立太子19歳と記載されているが、翌年20歳とうまくかみ合う。結果として崩御は36歳となる。崇神の年代が4倍暦でできているとして、崇神の崩御を34歳とすると、即位してから立太子をしたことになってしまう。4倍暦が適用されるのは在位に関してである。
崇神天皇の年次表の問題点
日本書記の記載上の問題点に関して、「表20 崇神の年次表の解読」の注4に記載した。
日本書紀では、崇神崩御年齢は120歳と記載されている。しかし、[開化28-崇神19立太子]を基準に年次表を確認すると、崇神即位52歳(実20歳)、崩御119歳(実36歳)となり、崩御年齢は1歳食い違う。
崩御120歳では年数が1年不足しており、記載上に何らかの問題があったものと考える。
さらに、崩御120歳および立太子19歳の場合を求めようとすると、立太子年(誕生年)の設定を変えなければならない。その場合でも在位68年を変えないとすれば、4倍暦で実在位17年も変わらない。
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