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2009年6 月28日 (日)

「住吉大社神代記」の垂仁崩年干支「辛未」

「住吉大社神代記」は、天平3年(731年)に成立した書物である。成立の年代はもっと後であるとの見方もある。いずれにしても日本書紀より後にできた書物である。
この書物では、垂仁天皇の崩御に関して「崩御辛未、53歳」と記載されていて、特に崩御年の干支の扱いが問題視される。古代の天皇の在位や崩御年を示す具体的な情報であるため、年代復元をする上で、この問題の検討を避けることができない。
ちなみに、辛未の年は西暦311±60年(251年、311年、371年、431年)である。
崩年53歳は古事記の御年153歳から百を引くと53歳になり、古事記からの引用と見ることが可能であるが、崩年干支は古事記には記載されていないし、書記の「庚午」とも違う。
「崩御辛未、53歳」に対する考えが求められる。

筆者見解
「住吉大社神代記」の作者は、53歳を前提に、日本書紀の垂仁天皇の年次表から干支を読み取った。垂仁99年(139歳)は庚午である。しかし、垂仁宝算140歳の記載から見て、垂仁100年(140歳)があったはずであり、垂仁100年は辛未である。99年と100年は二倍暦で同年であり、庚午であり、そして辛未である。
日本書紀の編者は垂仁の崩年干支を「庚午」としたが、住吉大社神代記の作者は崩御100年(あるいは、140歳)を重視して秋年に当たる「辛未」を採用した。
補足説明:
・垂仁99年庚午と60年差の39年庚午は同年である。
・垂仁100年辛未と60年差の垂仁40年辛未と景行1年辛未は同年である。
上記の年次は、二倍暦を解消すると、全て同年である。[末尾9と0は同年を示す。]
従って、崩年干支は庚午と辛未のいずれも同じ年を表し、前者を春年とすれば後者は秋年である。(「春秋二倍暦説」と考えても良い。)

山崎氏の解釈
古田史学会報三十四号(1999年4月11日)に投稿された山崎仁礼男氏の『「住吉大社神代記」の垂仁没年辛未の年、在位五十三年の一つの解釈』である。記事は複雑なので要点のみとし、( )内は筆者が説明のため付け足した。

垂仁の在位年数53年の伝承があった。崇神没年の378年(60年差、318年戊寅)に53年を加えると431年(60年差、371年辛未)になり、住吉神代記の没年干支は辛未に一致する。」

なお、山崎氏の解釈では、満年齢の計算であって、疑問が残るが、崇神没年の翌年から計算したとすれば満年齢の問題は解消する。
山崎氏の解釈は、古事記の垂仁御年(1)53歳と崇神没年戊寅(318年および378年)の情報があって、始めて解読できる。

「住吉大社神代記」の編者は、古事記の情報を知っていた
「住吉大社神代記」の作者は古事記を見て崩年53歳を知り、日本書記の年次表を見て、崩年干支「辛未」にたどり着いた。あるいは、山崎氏の解釈のとおり、古事記の崇神没年戊寅から「辛未」にたどり着いた。
「住吉大社神代記」は天地開闢の造化神を『日本書紀』の国常立神とせずに、『古事記』と同じ天御中主尊(アメノミナカヌシノカミ)としている。
また、古事記に記載された御年は、他の資料には見られない特異な数字である。筆者の解読からも御年が年齢を表しているとは思えない。それだけに古事記以外に、崩年53歳の情報があったとは思えない。

『古事記』はなくても、『古事記の情報』は存在した
古事記は100年間、公開されなかったという見解がある。「住吉大社神代記」の作者は古事記の内容をどのようにして知ることができたのか。
筆者の推測としては、『古事記の情報』は、100年間眠っていたわけではなく、日本書紀とほぼ同じ頃には既にあった情報と考える。現存する『古事記』と『古事記の情報』とは別である。現存する『古事記』は『古事記の情報』を取り込んでいて、書物として知られるようになったのが100年後であったのである。
「住吉大社神代記」の成立時期の解釈にも問題があるようだが、「住吉大社神代記」の編者は『古事記の情報』を知ることができたと考える。

不思議なのは、「住吉大社神代記」の編者は、日本書記および古事記の編者が知っていた正しい情報(垂仁崩御39歳、西暦337年丁酉)については知らなかったことを示している。それとも、知っていて記紀の編者と同様に隠したのか、謎である。

「住吉大社神代記」の編者は、誕生から崩御までを在位とした
垂仁の年代解読において、垂仁25年即位、39年崩御と考え、在位15年としたことは旧ブログの「干支から垂仁天皇の在位を解読する」に述べたとおりである。現在では新しい復元年代に変わっているが、この読み方による復元年代は、垂仁崩御西暦333年、在位15年であり、古事記の崩年干支の穴(垂仁には崩年干支の記載がない)を埋めるものとしてとらえている。
またこの結果は、垂仁の年次表の干支に従って在位を求めたもので、二倍暦を解消した実年の数字である。仮に二倍暦で見ると、垂仁25歳即位、53歳崩御で、在位は29年(二倍暦解消で15年)となる。
崇神没年を318年(戊寅)から垂仁即位年を319年とし、在位15年とした333年の干支は癸巳で、辛未にはならない。ところが319年を垂仁誕生1歳とし、垂仁53歳で崩御されたとすると、年代は371年、辛未となる。即ち、この考えは、実際の在位そのものではなく、誕生から崩御までの年齢を在位と見做した結果である。

「住吉大社神代記」の編者は、日本書紀の在位の考え方を踏襲した
当然、このような在位の見方は正しくはない。しかし、日本書紀においては、多くの天皇の在位を、誕生から崩御までの年齢を在位とみなして記載しているのである。そのことを考えれば異常として、退けてしまうのは間違いである。「住吉大社神代記」も日本書記の記載方法を踏襲したと考えても不思議ではない。

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