古事記の御年(みとし)が示す紀年論と復元年代
古事記の紀年に関して述べる。
すでに、日本書紀の復元年代に関しては、「日本書紀の紀年論と復元年代の紀元」において述べたが、御年137歳(年)は、神武誕生年137年で一致する。
137年を基準に、137年遡った紀元元年は、ニニギ暦(西暦)元年に当たる。
神武の御年だけなら、偶然の一致と思われても仕方がない。しかし、各天皇の御年も年代に関わる数字である。
古事記の御年が暗号であり、御年を用いて復元年代を求める方法を次の記事で紹介した。
「古事記の復元年代の算出方法(まとめ)」(分類:古事記の復元年代)
復元年代を得るための基本となる計算式は次のとおりである。
『復元年代=基準年+(「御年」、「月日」、「治天下年数」の組み合わせ)-1』
先ず、解読に当たって、編者がよく用いる「百減」や「百増」の法則について述べておく。御年は百歳を超える天皇が何人もいる。「百減」は、御年から百を引いた残りの数字が意味を持っていると見做す。「百増」は、その逆の意味である。さらに、「百増」には、復元年代が大きな数字になってくると、御年などの数字の他に百を加算することもある。
神武の場合も百を引いた37を神武の在位(二倍暦)と看做す見解も見られる。ここでは、それとは違った意味の「百減」について述べる。「百減」を応用し、綏靖から40年、安寧から40年、懿徳から20年、合計100年を減じてみる。
神武の御年、一百三十七歳→神武誕生1歳、ニニギ暦(西暦)137年
綏靖の御年、四十五歳→40を引く→15歳(神武立太子)、151年[137+15-1=151]
安寧の御年、四十九歳→40を引く→19歳(東征開始)、155年[137+19-1=155]
懿徳の御年、四十五歳→20を引く→25歳(東征終了)、161年[137+25-1=161]
日本書紀の復元年代と同じになる。
卑弥呼死す、壹与立つ
御年が、神武の成長過程の年令だとすると、誕生年137年に成長した時の年数を加算すれば、その時の年代が得られる。神武の成長過程が各天皇の御年と見做せばよいのである。
綏靖の御年、四十五歳→綏靖崩御年は、181年[137+45-1=181]
安寧の御年、四十九歳→安寧崩御年は、185年[137+49-1=185]
懿徳の御年、四十五歳→懿徳崩御年は、190年[137+54-1=190]
または、195年[137+59-1=195]
孝昭の御年、九十三歳→孝昭崩御年は、229年[137+93-1=229]
孝安の御年、百二十三歳→孝安崩御年、248年[137+112-1=248](女王卑弥呼死す)
孝霊即位年、―――――――――――、249年[137+113-1=249](女王壹与立つ)
孝霊の御年、百六歳→孝霊崩御年、267年[162+106-1=267]
孝元の御年、五十七歳→孝元崩御年、295年[(137+157-1)+2=295]
開化の御年、六十三歳→開化崩御年、301年[(137+163-1)+2=301]
崇神の御年、百六十八歳→崩御年、318年[162+168-12=318]または317年
上記によって得られた復元年代は、日本書紀の解読で得られた年代とほぼ一致する。ただし、孝安崩御年(孝霊即位年)は一致していない。
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