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2009年6 月12日 (金)

記紀編者が用いた神武暦とニニギ暦

編者が千数百年間の年代をどのように把握していたのか知りたかった。
ニニギ降臨の暗号解読から分かったのは、神武暦の使用である。記紀の編者は、当時の第一級の天文・暦博士である。とすると、編者自身が作成している記紀に神武暦を用いたとしても不思議ではない。
注1) 神武暦(神武天皇即位紀元)は明治5年に定められ、明治6年から施行されたものである。編者が考えた神武暦と同じである。

それだけでなく、日本書紀の「月日」も暗号であり、解読には神武暦やニニギ暦を必要とする。さらに、古事記の「序の年月日」や「御年」においても同様である。
また、干支で何回りとして把握していた可能性もある。
神武暦やニニギ暦の数字と干支の使い分けまでは分からないが、数字は干支に容易に変換できるのであるから、数字でも干支でも同じ結果が得られる。
例1)神武暦822年は、干支27回りと12年である。[822÷30=27余り12である。30は2倍暦の30年である]
例2)神武暦660年は、干支22回りである。従って、神武暦822年は、干支22回りを引くと、5回りと12年となり、ニニギ暦162年になる。[30×5+12=162]

編者は日本書紀の編纂にあたり、歴史の始まりを神武即位からとして、BC660年とすることを考えた。大幅に延長された年代を扱うのには、神武即位年を紀元元年とする神武暦が必須であった。こうして作られたものが、日本書紀である。記載された表の世界である。
また、編者は元資料を持っていた。それは延長前の正しい年代の歴史である。そして、この年代を暗号として日本書紀の中に隠した。用いた暦を筆者はニニギ暦と呼ぶ。陰陽でいう裏の世界である。

年代を大幅に延長したといっても千数百年の歴史である。なぜそのような、異なる二つの暦を用意したのであろうか。
編者が扱った歴史は、表と裏の二つの歴史である。
編者の立場に立てば、日本書紀に記載された物語は「虚」で、隠した事実が「実」である。
想像するに、神武暦は「虚」の世界の暦であり、それを「実」の世界に持ち込むことを嫌ったと考える。
そうすると、明治に定められた神武暦(神武天皇即位紀元)は、「虚」の世界の暦ということになってしまう。

ニニギ歴とは(定義)

ニニギ暦とは、日本書紀巻第三の神武天皇即位前期甲寅年の記事に記載されたニニギ降臨の暗号「129萬2470余歳」の解読により得られたものであり、神武暦、すなわち「神武天皇即位紀元」に対応させれば、「瓊瓊杵尊(ニニギ)降臨紀元」である。
「179萬2470余歳」の暗号は、天祖彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)の降臨から御肇国天皇である崇神天皇の即位までの期間が「300余年」であることを意味する。従って、崇神即位年である神武暦962年から300余年遡った年をニニギ降臨紀元元年とする。
注3)「300余年」を二倍暦と見做し、「150余年」と見做し、神武東征の開始年(神武暦155年)から150余年遡った年をニニギ降臨紀元元年とする見方もある。

なお、300余年では年代が不明確であり、定義としては次のとおりとする。
神武天皇の冒頭に記載された、神武立太子の年(神武暦前37年、西暦前697年)と日本書紀最終年に記載の文武(珂瑠皇子)立太子の年(神武暦1357年、西暦697年)をシンメトリックと見做し、その中央年(神武暦661年、西暦元年)をニニギ降臨紀元元年とする。
注4)当初、神武即位の辛酉の年(神武暦元年、西暦前660年)と記紀編纂開始直近の辛酉の年(神武暦1321年、西暦661年)の中央年(神武暦661年、西暦元年)をシンメトリックの基準年とし、ニニギ降臨紀元元年とした。

ニニギ暦は、西暦と同じとなるが、全くの偶然によるものである。ニニギ暦が考案されたのは、西暦が考案された時期(15世紀)より800年以上前である。

ニニギ暦元年のその他の根拠は、添付の「表1 神武暦とニニギ暦の関係」(「表1-1 主要事項の年代対比表」を含む)を参照していただきたい。

表1 神武暦とニニギ暦の関係

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